七十の節 自由を語りたがっている伝道師は、目的地で下車する。 その二




「ポムル、無事だったんだな」


 乾いた音を立て、手を払いながら足元の兎に未練を残しつつ璜準コウジュンは立ち上がると、言い当てた相手へと向き直る。


「人以外の名前は覚えるんですね」


「昔からです。一ノ海イチノウミを渡る船旅で、吐きながら読んでいた書物を丸暗記する程に他の物覚えは良いので、ワザとだとしか思えない節があります」


 璜準コウジュンの様子に、灰色の髪と瞳を持つレイスと、麦藁色むぎわらいろの被毛と黒の瞳を持つウンケイが、身長差を埋めながら声をひそめて情報を交換している。


「あら? 貴女は」


 一方。ポムルが低い視線でも苦にならない位置で、ある人影に目を止めた。


「生きた伝説と銘打たれる女諜報員と、こんな所でお会い出来るなんて思わなかったなのです」


 女諜報員。との響きに迷いなく反応したシシィは、黒装束に付属している頭巾フーザを浅く被っていた。

 そのため、彼女の翡翠色ひすいいろの光彩が移動し、ポムルのつぶらな茶色の瞳を射抜く様子が傍目はためからも明確にうかがえた事だろう。


「諜報員が有名と言われても、褒められたとは感じません」


「育ちが良過ぎると、褒め言葉も受け取れない高慢な耳になるようなのです」


「生まれ育ちの良さは自覚していますが、貴女に言われる筋合いはありません」


のクセに、相手がチンチクリンのままだなんて、聞いた事がないのです。貴女が噂通りのならば、そこのチンチクリンは、ワルテル少将や、ブラム船長補佐のような大柄な〝オト〟となって、同族の男達を率いているハズなのです」


 特殊なえにしと改変による〝オト〟と呼ばれる有名どころ並べ、シシィに揺さぶりを掛けるポムルは確証を得ようとしている場面にも受け取れる。


「私の大切な愛しい人ダーリンを、変な風に呼ばないでくださる? そちらの方こそ、性病と堕胎を繰り返して相手を失望させているのではなくて?」


 鮮明にされるはずがない背景を鷲掴みにして突き付けたポムルに対し、シシィも触れるには繊細さを求められる話題を叩き付ける。


 シシィは光彩を絞り、時間帯に関わらず瞳孔を限りなく縦に細くしている。ポムルは垂れる耳の先端が、吹く風もない所で震えていた。


 任務中、仕事中には見せない激昂を発する淑女達は、互いに諸々の感情が入り交じり、平常心を保っていない様子は明らかだった。


 淑女達の周囲が、錬金術で言う所の静電気がぜるに似た音や光が立つ。

 淑女達の過熱する舌禍ぜっかが招いている事は、眞素マソの動きに心得がある者ならば、間違いなく察しが付いている。


 本来の会話ではなくなっている現状に、誰もくちを挟めず、ポムルに案内を促す事も進言出来ずにいる最中さなか、空気を読まないアラームが動く。


「ハニィ、何とかしろ」


「何とか、と言われましても無理です」


 いつの間にか愛する妻の傍ではなく、アラームの右側後方に控えているハニィを、その言葉で首根くびねっこを捕らえた。


「ハニィなら何とか出来ると信じている」


 ハニィ達とは少々様相が異なったアラームの黒装束。目深に被る頭巾フーザ越しの視線は、辿るまでもなく淑女達の舌戦会場へと向けながら、根拠がない信頼を飾った発言を放つ。


 アラームの周囲の誰もが押し黙り、収集方法の模索も困難の中にあって、最も緊張し硬直していたシシィの夫であるハニィを、アラームは現場へと強行に送り込もうとしていた。


「女同士の争いなんて、放置した方が良いですよ。ポムルさん、昔から同業者として意識していたみたいなので」


 新たな押し問答の場が増えそうな予感の中心に向かって、冬の空っ風からっかぜを思わせる冷めた少年の声が投じられる。


 舌戦が過熱するシシィとポムルを除き、一同が新たな声の主へと意識や姿勢を向けた。


「付いて来てください。カネル様の天幕へ案内してあげます」


 一同が揃って見た、十代前半を思わせる少年の姿。アラーム達のような頭巾フーザ付きの外套がいとうの素材は、上流階級の女性達が羨む高価な灰色の毛皮。


 手入れが行き届く毛皮にも劣らず、少年のわずかな動きにも付き従う金髪はゆるやかに肩の位置まで波打つ。


 切り取られた風景を映している生きた宝玉の色は青。桜色の薄い唇。白磁のような肌。計算されつくされた宝冠を思わせる容姿は、十人に問い十人が認める紅顔の美少年だった。


「ここは仮にも戦場だ。場違いな美少年に付いて来いと言われても、正直な話し困るな」


 形だけと言わんばかりに、アラームは首だけを巡らせ少年へ応える。


「本当に案内しますよ。形式だけのご褒美が欲しい連中は、あの天幕にカネル様がいらっしゃる事すら知らないんでしょう?」


 言いながら、美少年の白く細い差し指が示したのは、一帯の中で一番大きな天幕だった。


年端としはの割りには、事情を心得ているようだな。少年、名は何と言う?」


「ネイトですよ。アラーム・ラーア様」


 名乗った美少年に、アラームはようやく向き直った。美少年とは別次元の整い方をする口元には、見る者を挑発する弧が描かれている。


「乗ってやろうじゃないか。その分では、ヴァリーとラフイ、ハイナ・アレハも連れて来てくれそうだし」


「ええ、勿論もちろんです。別の仲間が出向いていますので、ご安心ください。カネル様が会いたがっているのは、指名したアラーム・ラーア様達だけなのですから」


 アラームの意味ありげな口元に対抗しているのか。ネイトは未成熟が持つ、危うげな繊細さを宿す笑顔で対峙した。


 それはまるで、自らが持つ最大の武器を磨き上げている途上を、若さを原動力に見せ付けているかのようだ。


 新たな火花がほころぶ一方。既に見えない鮮烈な劫火の如く、大輪を幾重にも咲かせる様を見守る役目を負わされたハニィは、冷えた地に這うように小さくその身をかがめた。


 その姿は、まるで眷属ケンゾク家猫イエネコが、香箱座こうばこすわりと呼ばれる姿勢でくつろいでいるように見受けられる。


眷属ケンゾクの真似をすると、幼い頃を思い出して、心が穏やかになる気がするのですよ。祖父母と手を繋いで、覚えたばかりのうたいをくちずさみながら、夕暮れを散歩をしたとか。何もなかった幼い頃には、美しい服、美味しい料理、美しい故郷の風景、美しい言葉に囲まれてたな、と』


 後日、ハニィはりし日の恨み節を、うつろな視線でアラームに語る事になる。


 しかし、その実は。極度の緊張状態や環境の重圧、飽和した状況打破のため、自律神経への負荷を緩和させる効果がある防衛本能が、自然と彼を導いていたのだ。


 それは、眷属ケンゾク退行化現象たいこうかげんしょうと通俗で呼ばれるものだった。





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