三十八の節 落日の、フィーツ・ワイテ帝国。 その二




「ヘグクッ。お父様ァ、お母様ァ。ご無事じゃろうかァ」


 大挙した敵意から逃すために、分かれてしまった父母を案じる言葉。その内親王の手には、油と砂糖に塗れた揚げ菓子。涙と鼻汁に濡れるくちへ、次々と運び入れる。


 男女問わず屈強な体躯と長身、薄墨色の肌を持つ、ニンゲン属トルム種デユセス族。若い彼らが、四人掛かりで担ぐ豪奢な輿こしの上は緊張感も含め別世界だった。


 通路の右側は壁。点々と不可思議な灯りが脱出口へと導く。左側は、五の二ガッセ(約十メートル)はばの下水路が進行方向と一緒に流れている。灯りがあるとは言え、照明ではなく誘導を目的とした明度とあって、曲がり角や分岐点での見通しは悪い。


 ユタカが手にする、油ランプが晴らす視界も心許こころもとない物だった。


「サクラ内親王殿下。一つ、質問してもよろしいでしょうか」


「発言を許す。問うてみよ」


 同じような風景と、襲撃が途切れた時間が続く。少々、余裕を取り戻したユタカは、一方的に導いた内親王に説明を求めた。


「この場所は何ですか。壁の造りも、光源の仕組みも分からない空間です。そもそも、このような場所は我々の記録にもありません」


 咀嚼音そしゃくおんが混ざる、不快な笑い声が起きた。


わらわは選ばれたのじゃ。お美しい神獸族シンジュウゾクツガイに!」


 色調を重ね、桜色に染められたドレスの奥で、人の膨張に挑戦するかのような肉体が揺れている。


「あの夜、あの方はわらわを至上の快楽と共に、世界の秘密を分け与えて下さったのじゃ」


 話しを振ったユタカは、かえりみる事はない。しかし、進行方向への警戒に集中している訳でもない。

 非現実的な幻想物語と、身に起きた悪夢が相乗し、り上がる胃液となって生じた拒絶反応と、対峙していたためだった。


「あの方はおっしゃった! 〝御身に危機が訪れた時、時計塔の最下層にある隠し扉へ入って下さい。歴代の皇帝が利用した、最も安全な脱出通路です。殿下は必ずや救われます〟とな!」


 確かにその入口は、分かりやすいくらいの目印が眞導マドウの光で示されていた。白百合、双頭の白獅子、セイシャンナ正教の門徒を表す、二重環の山羊十字やぎじゅうじかたどる、現皇帝一家の紋章。


「へヒヒッ。あの方が与えて下さった快楽には届かぬが、お前達兄弟も中々のよ。事が済んだら、また愛でてやろうではないか。一人減ってしまい、物足りぬがのう」


 場違いな現実逃避と、内親王の個性的な笑いが発せられた。夜ごと強いられた行為を思い出したらしく、大振りの黒い頭巾フーザから覗くユタカの口元には、明確な不快が浮き上がっていた。


 そんなユタカが後方へ、ハンドサインを送る。デユセス族の輿係が、内親王へ揺れを伝えないよう細心の注意を払い進行を止めた。


 迫る異様な空気の波紋に触れたユタカは、音を殺し進行を止める。そのまま微動だにしないユタカの姿は、全神経を集中する様子を物語る。

 内親王も、構わず泡を飛ばし罵る言葉に反応する気配もない程だった。


 壁や床材を通し、確実に迫る質量の大きな反響は、やがて緊張に耐えられず息を切らせた内親王の聴覚にも届く。


「な、なんじゃ? 何かが這いずっている音なのか? その割りには、音が大きすぎぬか?」


 掴みきれない不安からか、疑問符だらけの内親王の言葉に応じたのか。不可解な音が止まる。


 変化した場所へ、ユタカが青い月アオイツキと同じ色の瞳を向けると、そこには右に折れる通路の入口が壁を分けていた。


 ユタカに動きはない。気を揉んだ内親王は緊張感に耐えられず、癇癪かんしゃくを起こし残りわずかな油菓子を、奇声と共にユタカの黒い背に叩き付ける。


 角の壁に、ゆがみ節くれた指が掛けられた。感触と位置を確かめているのか、細かく探るように指先の置き場を変えている。


煉黒レンゴクの門出をうたうのは、俺が先だったかもな」


 ユタカが、誰に語る訳でもなくつぶやいた。転じて、サクラ内親王の穴という孔が開くが、恐怖を伝えるための喉が機能しない。

 内親王が絶叫した口内を目掛け、ぬらぬらと照明を弾く舌の部位を突き刺した。


 正体不明の異形の舌は、内親王の発声器官ごと擦り潰した。もはや生き物が意思を伝える意味を持たない絶唱に似た音が響く。


 やがて、狭い隙間を無理矢理押し出され、気体が抜ける壊れた楽器似た音色に変わっていった。


 舌は支えをそのままに、内親王を自らの捕食部位を開き、招き入れる。


 次は貴族御用達、最高級の輿こしと、ヒト族の女性三人分の体重を支えていたデユセス族の若者達が、まとめてすくい取られた。


 四種類の多重絶叫が、ユタカのすぐ隣をはしった。


 ユタカの表情は生理的嫌悪感に染まる。運命の双刃シクサル・ミスクリージとして過酷な風景を見て来たにもかかわらず、相手の口内を見てしまった事に対し後悔している様子は、それを証明していた。


「脂肪ォウ、ナ・イ。不味マズ・イィ」


 大型管楽器の低音が破れたような音が、ユタカにも理解できる言葉を並べた。直後、水音が跳ねる。


 身体の境界を失ったは生きていた頃とは違う形状となり、その内側の匂いを撒き散らしていた。


 今までユタカは、そこそこの数のケダモノをほふって来た。その中にあっても、目の前の物体はケダモノにしては生理的嫌悪を誘発する異形。殺意にしては純粋だった。


「ォ前、喰ェナ・イ。デモ、眞素マソィッパ・イ」


 今度は、金属に爪を引っ掻く周波数で言葉をいびつに突き立てる。発声器官と消化器官の入口は別らしい。ユタカを補食するための開口部からは、声が起きていなかった。


「デカい口を開けたら、俺が勝手に入るとでも思ってる訳? それと、いつまで後ろで見学しているつもりなんだ」


 多種多様の歯が乱れて生える口内を正面に捕らえつつ、ユタカは背後の気配に言葉を突き付ける。


「聞いているんだろう? 大小の人影さん」


 特に声を張る訳でもなく、ユタカは虚空に問い掛ける。


「何だ、気付いていたのか。久し振りだな、ユタカ」


 ユタカの遠い背後には、美少女でも通じる姿の小柄な少年が現れた。ついでに、吐き捨てるように言葉を口にする。


「噂の大小の二人組が、脱走したシザーレ総帥後継者で八人会ハチニンカイの一角、忘却ボウキャクのヒノアヤ・シクン。それに、天山玄都テンザンゲント次期族長の單雛センスウとはねぇ」


 ユタカが、左手を肩の高さに上げると、指を鳴らした。構築済みの眞素マソが一気に収束し、異形のあぎと法陣ホウジンで拘束する。


 一応、会話を続ける場を整えたユタカは、ようやく背後の二人組に向き直った。


「そこまで情報を得ておきながら、何故、帝国に留まっていたんだ。あんな醜悪な脂肪の塊など見捨てて、逃亡すれば良いものを」


「俺は、与えられた役割にじゅんじるためだけに生きている」


 シクンの問いに対し、一つの曇りのない声で答える。だが、そのユタカの青い月アオイツキと同じ色の瞳には、仄暗ほのぐらい霧が差していた。


「話し中、失敬」


 全く脈絡もなく、軽い挨拶言葉が横槍となって割り込む。同時に、白い手がユタカの黒い腕を掴み、灰色の壁に引き込んで消えた。


 ユタカが、波紋もヒビもなく壁の中へ溶けた姿とれ違うように、先程の声の主が同じ壁から現れた。まるで、頭巾フーザを目深に被る黒装束の青年が、額縁に固定された胸像のようだった。


「そうそう、作戦行動内容を果たせるように、部下を教育しておけ。殿を、向かわせないと意味がないとな」


 言い終えた白い手の主は、声の残響だけを置き去り、唐突に姿を消した。


は、お見通しだったようですね」


 單雛センスウが、やや呆れながら言葉にする。下水が流れる場所に、隔絶された大と小による美の共演だけが残された。


「バローツ・ソレス・ユタカ。バローツ・ラッサ・マサメが、アラーム・ラーアに回収されるとは。絽候ロコウ簿に載っているのかもしれませんね」


「よりよって、璜準コウジュンに張り付いているから手が出しにくくなったな」


 シクンが、形の良い細い眉頭を中央に寄せる。


「気に入らないけれど、今回の目的は果たせた。地上はが帝都を徹底的に破壊し、臣民に対して凌辱りょうじょくの限りを尽くしている」


 シクンの言葉には、下水の様子に対する不快さと違う種類の塊が込められていた。


「頃合を見て、回収するとしましょうか。


 小柄な少年の背丈に合わせ、ななフース(約二一〇にひゃくじゅうセンチメートル)の長身を折り單雛センスウは提案した。

 長く淡い金髪と、冴えた金色の双眸そうぼうを持つ信じがたい程の美しい男性が、少年にしか見えない綺麗な青年の耳元で提案を甘くささやく。


「うん。單雛センスウの言う通りにする」


「承知しましたよ。シクン」


 シクンと呼ばれたのが合図だった。彼は身も心も、單雛センスウと呼んだ者に預けた。


「戻ろう、僕達だけの居場所へ。そこで、僕達だけの世界を創造する方法を考えよう。


 單雛センスウの内側にあって、小柄な少年に見えるだけの青年シクンとなる。單雛センスウの白く大きなふところ抱擁ほうようされ、シクンは甘美な思いに浸る様子だった。

 單雛センスウにしか許さない、愛らしい表情で弛緩しかんする。


 人類が生産した汚物の通過点も、彼らが共有する世界は、隔絶した陶酔の境地に等しかった。


 シザーレ眞導都市マドウトシから始まり、セイシャンナ正教国セイキョウコクに次いで、スーヤ大陸最後の主要大国が、この日、レーフの歴史から消滅した。


 満月の青い月アオイツキでもない夜。秋の気配も濃くなり始める朧雲オボログモの月。スーヤ大陸は、瀕死の賢人と呼ばれる事になるのであった。





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