三十七の節 落日の、フィーツ・ワイテ帝国。 その一




 この日。約一五〇〇せんごひゃく歳の貴婦人が、暴虐と陵辱にさらされた。


 彼女が抵抗する震動は、千の巨人が一斉に飛び降り、着地したかのような烈震。苦悶の絶叫は、万の迅雷じんらいとなり響き渡った。


 スーヤ大陸の支配者と自称し続けていた、歴代皇帝の居城・バルバディア宮殿。貴婦人のドレスと称される、宮殿を中心に蜘蛛の巣状に整備された行政区と市街地、美観地区が貴婦人と共に重ねられていた。


 引き裂かれ蹂躙じゅうりんされる貴婦人の名は、フィーツ・ワイテ帝国。

 シザーレ眞導都市マドウシセイシャンナ正教国セイキョウコクが相次ぎ解散と崩壊した後、人材と私財を堅牢な城壁の内側へ貯め込んだ。


 しかし現在。フィーツ・ワイテ帝国の混乱と崩壊は、爆炎と轟音にあおられる。この日が来るまでは、城壁に囲まれた貴婦人の膝元で、安全圏を信じて疑わなかった国民は、恐怖を超えた絶望を味わいながら絶命した。


 フィーツ・ワイテ帝国を襲撃したのは、誰も把握する事が叶わない。敵襲の正体も判明しないまま、夜を迎えても混乱が収束する気配はなかった。


「ねぇ、ハニィ」


「どうした?」


 フィーツ・ワイテ帝国が誇る、三重の城壁の市街側の望楼ぼうろう。上部が崩れ螺旋階段も瓦礫がれきふさがれているが、よんフース(約一二〇ひゃくにじゅうセンチメートル)程の背丈を持つ人影が、地上で狂い咲く戦火に映る。


「愛しているわ」


 小柄な方の人影が、眼下の非日常に広がる風景を眺めながら告げる。


「急に何だよ、シシィ。こんな状況で」


 愛を告げられたハニィは、少々の照れと似合わない所柄ところがらに、小柄な人影のシシィへ顔を向ける。


「こんな状況だから言いたくなったの。死体に愛をささやいても、ハニィには届かないでしょう?」


「ははっ。僕が死んでしまっても煉黒レンゴクからずっと、シシィへ愛をうたい続けるよ」


 二人は、互いの小さな鼻先をり合わせ情愛表現を共有する。


 吹き上がる上昇気流に、二人が着る黒装束の端々がはためく。有機と無機が燃えさかり、死臭に包まれた世界で愛を交換し合う。


「でも、本当に有難ありがう。子宮も卵巣も脳の一部が欠けてしまった、じゃなくなった私を妻に選んでくれて」


「別に、ワルテルみたいになりたかった訳じゃないよ。このままの方が動きやすいし、性分に合ってる」


 ハニィとシシィの会話の根底には、種族特性が含まれていた。

 モモト族には、ビヨとネウ。前者はイヌ、後者はネコの容姿と特徴に通じる部分がある。ここまでは、多種族の上位種と下位種関係に落ち着くが、モモト族はもう一つ段階がある。


 オトヒメと呼ばれる、特殊な女性がいる。彼女達がはらむ子供は、必ず高い能力を持つ遣い手ツカイテとなる。

 さらに、彼女達に選ばれた相手は身体とその能力に変化が生じ、同族の男性を率いる頭領とうりょうとなる器を得るのだ。


「待って、ハニィ。今、爆発した場所にいる


「明らかに、既存の生命じゃない」


 灰色の被毛を持つシシィの指が差す先には、巨大な肉塊の群れが市民を砕き、擦り潰しながら突き進んでいる。


 十六個のヒト族の頭が、肥大する紫色の肌に不規則に付属していた。光を反さないくらい目が、眼窩がんかそのものに見える。

 それぞれが主張する欲望を反映するように、乱杭歯らんぐいばから奇声を放ち、目的方向へ張り出している。


犠牲者なのかしら」


 悲哀ではなく、乾きを込めた声でシシィが言葉をこぼす。


「そうかもしれないが、もっと違和感がある集団がいる。ほら、ボーアネルの塔周辺」


 ハニィは携帯用の望遠鏡を差し出しながら、目標を説明する。焦点を合わせるシシィが見た光景は、女性なら目を反らすであろう場面だった。


「満月でもないのに、どうしてがいるのよ」


「この間の満月、紫の蛮族は北壁戦線に現れなかった。これまでにも、現れない事もあったけれど。こればかりは、もう少し情報が集まらないと結論が出せない」


 ハニィは頭巾フーザを背に送り、三毛柄の被毛の下にある頬の筋をほぐすように撫でる。


 ハニィとシシィ夫妻は、情報集積に特化した運命の双刃シクサル・ミスクリージだった。るべき国は失ったが、築き上げた人脈と信用は今も残り活動の場は絶えない。


「ユタカとマサメ、無事かしら。ここでしょう? 


「二人の所在確認は、指示に含まれていない。僕達の役目は、フィーツ・ワイテ帝国の落日の様子を記憶して、依頼主へ正確な情報を提供する事だ」


 元同僚へ向けたハニィの返答は非情だったが、切り捨てるよりも相手への信頼の響きがあった。それぞれに負った役目を無事に果たせると。


「あら、嫌だ。紫色の塊が私達に気付いて向かって来るわ」


 シシィの言葉を合図としたのか。非自然的な形状と彩りを持つ、馬小屋のように大きな胴体の両脇から生えた腕状の器官を高速で這わせる。その勢いを殺さず、双方の距離を詰める。


 荷車に身を取られ、動けない馬。逃げ遅れる幼い子供をかばう大人達。愛する家族のために用意されていた、夕食風景を粉砕しながら、名もなき肉塊は生理的嫌悪をもよおす索敵器官を忙しく動かしながら突き進む。


 肉塊は地響きを立て、城壁まで到達する。望楼ぼうろうの上階にいるハニィとシシィへ、外壁に尖爪を打ち込み自重を無視した速度で這い上り肉迫する。


 肉塊の胴体にある、一際ひときわおおきなこぶが粘着性のある音を練り出される。血潮色ちしおいろの人間では扱えない大きさの戦斧せんぷの束が、空を裂いて振り下ろされた。


 間も置かず、望楼ぼうろうごと、周辺の城壁を破砕する。土煙と瓦礫がれきが大音響を伴い、長年の役割を終える咆哮ほうこうを発した。


「もう十分だ。戻って報告書を作成しよう」


「ええ、分かったわ」


 遠くからの残響が曇天の夜を渡り、地鳴りと微震が大地を舐めた。淡い緑色が一定距離で連なる眞導灯マドウトウ

 間接的に照らされる糸杉の並木道の先には、瀕死の貴婦人がうめき声を立てている。


 不穏な街の気配を小高い丘陵地から眺望する、小さな人影が二つ。振り下ろされた戦斧せんぷと接触する瞬間には、既に夫婦はこの場所にいて、轟音と震動を味わっていた。




 ◇◆◇


 


「幸運を。死にゆく者より、絶える事のないうたいを」


「ふざけるな! そんな文言を吐いてる余裕があるなら立て、今すぐ立て!」


「無理だ。左足を持って行かれた。いつもの感覚がない。これは、。行ってくれ、兄さんだけは、生き残れ」


「早うせぬか! 使えぬ者など捨て置け!」


 黒装束の二人組の頭上から、女性の声が降り注いだ。奥歯で小刻みな音を立て、喉の奥からの金切り声だった。


 血塗れの黒装束に、鼓舞を送っていた側の黒装束が声の主を仰ぎ見る。

 その目元は目深に被る頭巾フーザさえぎられ、誰にも見えない。彼は、見せられなかった。憤怒に染まる青い月アオイツキの色を。


「ほら。御主人様の仰せだ。従えよ、ユタカ兄さん。止血したら追い掛けるから」


「俺は、マサメの諦めの悪さ知っている。だから」


「早ォ、せぬゥかァァァ!」


 ユタカの願いは、先程の声に掻き消された。遠離とおざかる五つの靴音を見送り、マサメはようやく壁に身を預けた。


「あぁでも言わないと、ユタカ兄さんは動かないからな」


 マサメは、咳き込みながら来た道へ首を向けた。何度も五感で味わった殺意の気配が追って来ている。


 地下とは、思えない程の天井と奥行きのせいで薄暗い。


「あの程度の一団なら、足止め役くらいは務まるかな」


 膝から下、失った左足をかばいながら、壁を伝い立ち上がる。痛みに耐えるように、食いしばった口角から赤い血が零れる。未知の淡い光源が、腰の位置で破線となって連なり、先へと伸びる繋ぎ目がない灰色の壁。


 マサメが付けたてのひらの形が、謎めく壁にいくつもの赤いはんした。今までの罪を認める血判のように。最後の贖罪しょくざいうように。


「兄さんを守るのは僕の役目だ。綺麗事ばかり並べる、口先だけのとは違うんだっ」


 荒い息が、自身の物なのか。確実に距離を縮める追跡者なのか。判断も混濁する中だとして、マサメは黒い頭巾フーザの奥に宿る決意を鮮やかにおこし続ける。


「その意気や善し」


 唐突に発生した、低く伸びやかな男性の声に反応したマサメを、窓も繋ぎ目もない灰色の壁から白い手が生える。その身をさらった。





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