四十一の節 洋々たる、ダンターシュ。 その三



 

 進行方向の空は夕暮れに染まり、紺碧の大洋を万華鏡の如く光の破片を乱反射しながら、陽は西の水平線へと沈み行く。やがて、追うようにして月が昇るだろう。


 一ノ海イチノウミを航行する船団を率いる、グランツ家のラーニッツ号が風を掴み順調に洋上を進む。


 シザーレ天文台で観測された、向こう十年の天体運行表。シザーレ天文台式の偉大なる黎明の歩哨セントリア時刻。水平線、円環の角度、恒星圏内で目測可能な惑星四個の位置。

 六分儀ろくぶんぎ測程儀そくていぎを用いて航海士が現在地を把握する。


「善い風を捕らえたな」


 アラームは、頭巾フーザの端をつまみながら、大型帆船の第一帆柱が風を受け、張りの具合を見やる。


「外洋に出さえすれば風は吹いていますが、この風は素晴らしいです」


 典型的な海の男を体現する、大柄なヒト族・ノルデオンが乗組員の様子を確認した後、潮風にあおい瞳を細めた。


 そんなノルデオンの機嫌の良い声に、船と同じ名前を持つ茶虎毛の家猫イエネコが、固定された樽の上で欠伸あくびをした。


 船倉の鼠対策で、乗船している立派な船員だ。ラーニッツの縄張りは、このラーニッツ号と言う事だ。


「おい、そこの黒装束さんよ。取って置きの眞導マドウで、デカい風を起こして速度を上げてくれよ。それか、いつぞやの方法で船団を転送するとか出来ねぇの?」


 弱々しく、璜準コウジュン舷縁げんえんにしがみつく。出航し、三〇分も経たない内に船酔いで倒れた。優雅な海の四拍子は、璜準コウジュンの三半規管がお気に召さなかったらしい。


「そんな事が叶うわけがないだろう。それに、この場で眞導マドウが放てたとしても、大海に落とす砂粒程度の規模だ。見ろ。大自然に比べたら、我々の存在など極微きょくびれ」


 大自然さえも、支配下に置こうとする生命がおこす傲慢。白い円環を映す大気。世界レーフの八割を占める大海は、複雑な海流と眞素マソを抱えて渡り、人類の浅慮など軽く封じ込める。


 元より世界レーフの紺碧は、最も不可思議な隠然いんぜんに充ちている。渡る鳥もなく、飛行可能生物すら遠洋には出ない。海面下の摂理は、陸の知識が及ばない深淵しんえんにあるかのようだった。


 それでも人類は、未知に挑戦する。沿岸で養殖し、利用価値が多い鯨を追う中、他の魚影に損得を推量し続ける。


 アラームの左側にいる、幽遠な容姿を持つ雪河セツカが、その部位の一つでもある鼻先で小さく笑う。


「飛竜部隊に頼めば良かった」


「それも難しいぞ。竜騎士でもないのに、風圧や体感温度を保つための眞素マソ操作の訓練は済ませているのか? それに、竜族は海を渡りたがらない。海の・リヴァイエルくらいだ」


「駄目だ。部屋に戻る」


 璜準コウジュンは、気分転換と新鮮な空気に浸るため甲板に上がった。だが、決定的な解決方法を挫かれてしまう。

 消沈した璜準コウジュンは単独、揺れが少ない船底中央に近い船室へと再び戻って行った。




 ◇◆◇




璜準太師コウジュンタイシ、御加減はいかがですか」


 連なる寝網ねあみの一つに陣取る、璜準コウジュンを見舞う声がある。その声は男性の割りに穏やかで柔らかく、人柄を響かせていた。


「あ~ぁ、どこかで会ったな。誰だっけ」 


「先日、グランツ家の夕食会で、相伴しょうばんに預かった者です。改めまして、ヒリー・バンクス・レイス。レイスと呼んで下さい」


 近くの支柱に掴まりながら、レイスは一礼する。


「気分は最悪だ。気遣いなんか、どうでも良いから放って置いてくれ」


璜準太師コウジュンタイシの不調は、遠洋船に施される眞素マソ暴走を防ぐ法陣の影響でしょう。普段、眞素マソに触れ、巡らせる方は影響が出やすいらしいですから」


 航行にとっての大敵は、悪天候、火災、損壊と多く挙げられる。忘れてはならないのが、眞素マソの暴走による地場崩壊だった。眞素マソは、世界レーフの全てに元素とも言える起因であり、原動力。


 船上では眞導士マドウシ法士ホウシも暗器・白兵で応戦する事になる。


 扱える者を管理するのは、最優先事項と言える。影響下にある者の症状は個々によるが、璜準コウジュンは今回、船酔いが現れた。


「今が、丁度良いのです。情報を得るには絶好な状況ですから」


 レイスは、普段の穏やかな表情とは違い、酷薄な言葉を響きに乗せた。


 ここで、看病をしていたメイケイが、静かに移動する。長い付き合いの中でつちかった顧慮こりょを働かせた。


「肉体も限界。精神も薄弱。押せば口を割りやすいでしょう?」


「何だよ、拷問でもするつもりか? 結構、人がいるんだけど」


 仮眠室も兼ねた揺れが少ない中央船室は、夜間作業要員が休憩している。


「私は、真実を知り、記録したいのです。王侯貴族、権力者の都合でねじ曲げられた英雄譚ではなく、歴史が刻む素肌の時間を。璜準太師コウジュンタイシ。貴方が、あのしたとの噂は、裏社会では有名です」


 璜準コウジュンは、船酔いで蒼白くなった顔色に、何ら変化はなかった。レイスが指摘した通り、平時なら激昂げきこうしていた事だろう。

 記憶を探る事すら億劫おっくうなのか、璜準コウジュンに大きな変化は見られない。


「貴方が、紫の大陸から帰還した頃と同時にあった、八聖ハッセイ筆頭・紫禅太師シゼンタイシの失踪にも関わっていらっしゃるはず。それに、八聖・璜準ハッセイ・コウジュンを継承した時の醜聞も、正直、大変興味深いです」


 相変わらず、璜準コウジュンに動きはない。ないが、確実に秘する部位をむしばまれる証しか、男性の割りに長い睫毛まつげが少しずつ下りている。


「れが、ぇるかよ」


 船酔いと、船自体の揺れ。こじ開けられる不快感からだろう。璜準コウジュンの言葉が途切れ途切れになる。


「済みません、もう一度お願い出来ますか?」


「アラームを、見て、飛び去らねぇ鳥を、肩に乗せてる奴に、話す事なんざ、一つもねぇよ」


 力が入らない腹から出た言葉が、璜準コウジュンの乾き切った薄い唇から垂れる。


 その直後、硬質な靴音が存在感を誇示しながら近寄って来た。


「レイス、場所を代われ」


 夜食時。水夫、護衛兵士・一五三ひゃくごじゅうさん人分の、配膳準備を担当していたアラームは、白い前掛け。前髪も上げ、素顔をあらわにした衛生帽姿で現れた。

 足元には、変わらず衛生班姿のメイケイ。彼は、やり取りの異変を察し、素早くアラームを呼びに行ったのだ。


 アラームはふところ、背後の小物入れに素早く白い手を移動させる。腹の前に出した左右の手には、三種の小瓶の内容物を、四つ目の小瓶で混合させていた。


璜準コウジュン、息を吐け」


 うつろな目で「え?」と「は?」の間の音の息で疑問を伝える。


「早く。悪いようにはしないから」


 静かだが、強い意図を込めた似紅色にせべにいろが、青い月アオイツキを射すくめる。観念を表すように、璜準コウジュンの表情で深く息を吐いた。


 船酔いと思考力の低下も手伝い、反射的に吐いた息の分も。同時、璜準コウジュンの形は良いが骨張った鼻腔の下に、アラームが先程の四つ目の小瓶をあてがった。


「っかは! けほっ」


 急に小さな咳を発した璜準コウジュンを心配し、ひかえていたメイケイが一瞬、険しい視線でアラームを見た。

 次の瞬間には璜準コウジュンの意識が落ち、自重そのままに寝網ねあみに沈んだ。


「揮発性の麻酔薬。昏睡状態だからをすると想うが、処置の仕方は判るかな?」


 メイケイは力強く肯定のうなずきで、アラームに返した。


有難ありがとう。よろしく頼むよ。レイス」


 名を呼ばれたレイスが、返事をするために喉を動かす寸前。


 レイスの右肩に温和おとなしく乗っていたフクロウの丸い目が、アラームの似紅にせべにと重なる。


として、ヒリー・バンクス・レイスの随行を許可した。余計な物言いをするのなら、


 アラームの白い手の中に梟が収まっていた。絶妙な加減で捕らわれ、貧弱な小さな白いフクロウは、首から上を激しく動かしている。


「い、いつの間に!? 止めて下さい! イングリッドを返して下さい!」


 悲痛な叫びが、船室に乱反射する。交代要員の船員が、この騒ぎで不満を漏らしながら何人か起き出した。


「返して欲しければ、適切な言葉で改めて私に対し誓約を立てろよ」


 無表情だが、かえって容赦の余地もないアラームの気配を察し、レイスは無条件降伏を告げる。


「アラーム・ラーア様の邪魔は致しません。決して」


 間髪もなく服従する言葉をレイスは返した。懾伏しょうふくの屈辱すら、イングリッドの前では軽易けいいな事だと証明するかのようだった。


 アラームは、有無をゆるさないが、どこか冷めた響きでレイスを言葉で縛り付ける。アラームはレイスの言動を確信したのかかえりみる事もせず、雪河セツカともない、船室を後にした。


 一ノ海イチノウミを渡り、カヤナ大陸を目指す航路は、早くて二カ月。遅くても三カ月掛かる。初日から起きた波が、個々に寄せられては退いて行った。


 すっかり陽も落ち、急に流れ込んだ厚い雲が夜空を覆う。空と波間に、民間客船、商船、護衛船、合わせて六十二ろくじゅうにの船団が照らす漁り火いさりびに似た冷光照明具が煌々とともる。


 船上生活の向上は、安全面にも及んだ。調理以外の火気が極力抑えられたのは、錬金技術による冷光技術の革新だった。


 多くの人類は知らなかった。この光景が、まるで海に浮かぶ星を映したようだと。


 一七一六年・露氷ツユコオリの月。世界レーフが終わるまで残された時間は六カ月。最後の冬に向かって、大きく舵が切られた事を含めて。





         【 次回・第四章 進み行く世界 】

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