【六十三丁目】「ほんとうに、やさしいひと」

 夢の続きが始まる。

 それは、彼女がいつものように垣間見る、自らの古い記憶。

 幸福だった、決して忘れ得ぬ時間の果て。


 そこは彼女が住む小さな小屋。

 その中で、彼女は目の前の光景を絶望と共に見つめていた。

 彼女の前には、一人の傷だらけの男が床に伏せっている。

 男の呼吸は、明滅する命の灯火を表すかのように浅い。


 そう。

 彼の命はいま尽きようとしているのだ。


 母親の命を救うために、彼女から希少な薬草が生える場所を聞き出した彼は、傷だらけになって帰って来た。

 その場所は、永く山に親しんだ彼女ですら、足を踏み入れる事を躊躇するほど、険峻な山にあった。

 そんな難所に、山に慣れていない彼が闇雲に挑んだのである。

 命があることだけでも奇跡だった。

 ましてや、こんなズタボロになった身体になりながらも生きて下山して来たことは、神の気紛れによるものといえるだろう。

 だが…その代償は大きかった。


「…」


 不意に。

 男が僅かに目を開け、か細い声で彼女に何かを囁く。

 泣き腫らした眼を見開き、彼女は慌てて彼の口元へ耳を寄せた。

 彼は「あること」を彼女に告げる。

 それは、この期に及んで彼が遺す、文字通りの「最期の願い」だった。

 彼女は最初、当惑した。

 だが、いままさに命尽きようとする男の願いを、彼女は受け入れた。


 だから。

 はっきりと頷いた。


 それを見た、男が微笑む。

 それはとても満ち足りた、優しい笑顔だった。


 ありがとう、と唇が動く。

 そして、声なき声で最期の言葉を紡いだ。


「約束だよ」


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 僅かな呻き声を上げると、乙輪姫いつわひめ天毎逆あまのざこ)は覚醒した。

 意識がハッキリしないのか、二度三度頭を振り、周囲を見回す。


「うう…頭が痛い……って、何よこれ!?」


 彼女は自分の状況を見て、驚きの声を上げた。

 無理もない。

 現在、彼女の両手両足は厳重に拘束されていた。

 エルフリーデさん率いる『SPTENTRIONセプテントリオン』の面々による鎖分銅くさりぶんどうにはじまり、沙槻さつきさんによる魔よけのさかきの枝(樹御前いつきごぜん強化ブースト付き)、更に秋羽あきはさんによる羂索けんさくと、この場に居るメンバーが総力を上げ、考え得る限りの拘束方法を用い、乙輪姫の動きを封じていた。


「こんなもの…!!」


 何とか拘束から逃れようとする乙輪姫。

 が、さすがの彼女も立て続けの連戦に消耗したのか、思うように動けないようだった。


「くっ…!何で!解けないのよ!」


「ここまでです、乙輪姫」


 居並ぶ妖怪達の中から、黒塚くろづか主任(鬼女きじょ)が進み出て、そう告げる。

 いま、この場には第二調査隊に参加した全員がいた。

 降神町おりがみちょう役場からやって来た、黒塚主任をはじめとする僕…十乃とおの めぐる間車まぐるまさん(朧車おぼろぐるま)、摩矢まやさん(野鉄砲のでっぽう)、沙槻さつきさん(戦斎女いくさのいつきめ)。

 成り行きで参加することとなった妃道ひどうさん(片輪車かたわぐるま)と、護衛役で加わった秋羽あきはさん(三尺坊さんじゃくぼう)。

 主任の要請を受け、増援として駆け付けてくれた樹御前いつきごぜん彭侯ほうこう)と、エルフリーデさん(七人ミサキ)率いる『SPTENTRIONセプテントリオン』の皆さん。

 そして、僕の妹、美恋みれん

 何故か突然現れた美恋は、さっきは錯乱していたが、乙輪姫と盛大に激突して今まで意識を失っていた。

 目覚めた今は、どうやら正気に戻っているようだ。

 いずれの面々も、先程までの激戦のためボロボロだったが、欠けることなく全員で神霊である乙輪姫の捕縛という難業を遂行した。

 その一同に囲まれながら、何とかかせを外そうと座り込んで暴れていた乙輪姫は、悔しそうに歯を食いしばった。


「…そのようね。悔しいけど、わらわにはもう抗うだけの力が無い…」


 だが、言葉とは裏腹に、その目から闘志は失せていなかった。

 彼女は不敵に笑って言った。


「いいわ。煮るなり焼くなり好きにしなさい、下等妖怪ども。でも、憶えておくことね。妾は滅んでも、蘇ってみせる。そして、必ずそなたらを黄泉よみに叩き落として…」


「我々は貴女に危害を加えるつもりはありません」


 主任が乙輪姫の言葉をそう遮る。


「そのスタンスは、最初に説明した通りです。それは今も変わりません」


「その割には随分丁寧な扱いじゃない」


 自らの全身を封じる拘束の数々を見て、皮肉な笑みを浮かべる乙輪姫。

 しかし、主任は静かに頭を下げた。


「先程までの様子では、落ち着いて話も出来ないと考え、私が指示したのです。謝罪はいたしますので、どうかご理解ください」


「…変な鬼ね、そなた。さっきまでる気満々だった癖に」


 今度は、不思議そうな表情で主任を見上げる乙輪姫。

 そして、溜息を吐いた。


「いいわ。降参。妾の負け。大体、負け惜しみを言ってもこのザマじゃ、格好もつかないしね。交渉だか何だか知らないけど、応じてあげるわよ」


 両手を上げる乙輪姫。

 それに主任が頷く。


「ご協力感謝します」


「…ただし、一つだけ言っておくわ」


 一転、彼女は再び鋭い眼差しで主任を射た。


「この花園だけには絶対に手出しはさせない。人間、妖怪問わずね。それを守れないなら、妾は例え消滅することになっても、今から全力で抵抗するから…!」


 マシロソウ…死者の魂を呼び戻すという“反魂香はんごんこう”の素材となる白い花…別名「ミタマガエシ」

 その花を守るため、神霊たる彼女は、己の存在そのものすら賭けて守り抜くと言い放った。

 何が彼女にそこまでさせるのか…僕と沙槻さんはその理由を知っていた。


「それは…ヤクモさんのために、ですか?」


 僕がそう言うと、乙輪姫は雷に撃たれた様に身を固め、信じられないものを見る目で僕を見た。


「そなた…いま、何て…?」


「先程も言いましたが、僕と沙槻さんは、貴女の過去を見たんです。あの墓所の中で」


 僕は背後にある白い花々に埋め尽くされた丘を見上げてから、乙輪姫へ視線を戻した。


「違いますか…?」


「それは…」


 長い沈黙が落ちる。


「…いえ…そうね…」


 何かを言いかけるも、目を伏せ、観念した様に頷く乙輪姫。


「信じられないけど、そなたの口からの名前が出たという事は…今の話は本当のようね」


「…」


「教えてくれる?どうやって、妾とヤクモの過去を見る事が出来たの?」


「この勾玉まがたまのおかげです」


 僕は、墓所の中に安置された石棺の中で見つけた、白い勾玉の首飾りを見せた。


「あの過去の映像が真実なら、はヤクモさんの遺品なのではありませんか…?」


「そうよ…彼の亡骸なきがらは、長い時間の中で骨まで朽ちてしまったわ…だから、せめてそれをここに葬ったの」


 人と違い、神たる神霊には無限の時間があるという。

 永遠を生きる彼女は、遠い日々を思い出す様にそう呟いた。


「でも、その勾玉は普通の石で、そんな力は無い筈だけど…」


には、ときにつよいおもいがやどることがあるといいます」


 乙輪姫の疑問に、沙槻さんが口を開く。


「おそらく、そのまがたまには、やくもさまのがやどったのかもしれません。それがのように、あなたたちのをやどしていたのでしょう」


 一呼吸置いて、沙槻さんは続けた。


「もしかしたら…しんれいであるあなたのもかさなって、そんなちからをうんだのかもしれませんね」


「…そう」


 乙輪姫は噛みしめる様に呟いた。

 再び沈黙が下りる。

 それを破り、主任が沙槻さんに聞いた。


「しかし、よくそんな古い品物から手際良く神代の記録を引き出せたな、五猟ごりょう


「…おしえてくださったのです」


「教えてくれたって…誰がだよ?」


 間車さんがそう聞くと、沙槻さんはおもむろに告げた。


に、です」


 乙輪姫が顔を上げる。

 僕を含めて、全員の視線が沙槻さんに集まった。


「ちょっと待ちなよ。そのヤクモって奴はもう死んでるんじゃないのかい?」


 怪訝そうに尋ねる妃道さんに、沙槻さんが頷く。


「はい…ですが、やくもさまのたましいは、


 その言葉に、乙輪姫が驚いたように目を見開く。

 そう言えば…さっき、墓所の中で沙槻さんは突然見えない誰かと話しているように会話をしていた。

 まさか…その相手がヤクモさんだったのか!?


「ふむ…その娘の言葉は正しいと思うぞ」


「そなたにも分かるのか?“七人ミサキ”」


 エルフリーデさんの言葉に、樹御前がそう問い掛ける。

 エルフリーデさんは頷き、


「こう見えても我々も霊魂の一種だからな…乙輪姫とかいう異教の神よ、お前の傍らにうっすらとだが男の影が見える。恐らくそれがヤクモという男の魂だろう」


「あ、ホントだ」


 カサンドラさんが、目を凝らして乙輪姫の傍を見る。


「でも…私達にも見えにくいですね」


「この国に、まだ神々が居た頃の古い時代から存在する霊魂だからな。同じ霊魂である我々でも、知覚しにくいのかも知れん」


 フリーデリーケさんの疑問に、アルベルタさんがそう解説する。


「ま、死んだ筈の奴が実は…ってのはよくあることだしな。なあ、摩矢っち?」


「…言っておくけど、私は幽霊じゃないから」


 意地悪な顔でそう言う間車さんへ、摩矢さんが少しバツが悪そうにそう返す。

 そんな中、乙輪姫はすがるように懸命に周囲を見回した。


「うそ…本当に…ここにヤクモが居るの…?」


「ええ。わたしは、かみのたましいとむきあう『みこ』のはしくれです。ですから、ひとのたましいであるやくもさまは、このめにもはっきりとみえますよ」


 優しく諭すように、沙槻さんがそう言った。


「しかし…何故、ヤクモ殿の魂が今もここに?エルフリーデ殿達のように、強固な呪いや怨念でも抱えない限り、人の魂は現世に留まる事は出来ない筈では…?」


「むしろ、だから留まれたのかも知れぬ」


 秋羽さんの疑問に、樹御前がマシロソウの花園を見回して言った。


「見ての通り、ここには“反魂香”の元になるミタマガエシが、あり得ない程に数多く咲いておる…妾にも信じられぬが、おそらくこの大量のミタマガエシが、ヤクモという男の魂をこの世に留めておるのじゃろう」


 それは、まさに偶然と奇跡が重なった結果だった。

 乙輪姫が守り抜いてきたこの花園のお陰で、永遠に別れる筈だった二人は、そうとは知らず今日まで寄り添っていたのである。


「ヤクモ…!ヤクモ、いるの?私の声が聞こえる?ねえ、応えて…!」


 乙輪姫が、懸命に声を上げるが、応えは無い。

 先程までの圧倒的な力を振るい、居並ぶ妖怪達を威圧していた妖怪神の姿はそこには無かった。

 あるのは、死に別れた者の面影を追い求め、悲しみに暮れる少女の姿だった。

 涙さえ浮かべ、乙輪姫は必死に呼び掛ける。

 その姿は、その場に居合わせた全員の胸を締め付けた。

 これはある意味とても残酷な話だ。

 愛しい人がすぐそこに居る筈なのに…話す事も触れ合う事も出来ないなんて。


「沙槻さん、何とかできないでしょうか…?」


 僕がそう呼び掛けると、沙槻さんは辛そうに首を横に振った。


「…ざんねんですが、をちょくせつかいわさせることはかないません…とくに、やくもさまのようなたましいのありかたは、とてもなことですし、かくじつなほうほうがないというしか…」


 その言葉に、項垂うなだれる乙輪姫。

 そして、静かに身を震わせる。


 泣いていた。

 主任達の猛攻にも耐え抜き、哄笑していたあの妖怪神が、静かに涙を流し、亡くした者の名を呼んでいた。


「…ねぇ、何とかしてあげられないの?兄さん」


 同世代に見える乙輪姫が涙に暮れる姿を見かねたのか、自分の上着を乙輪姫に掛けてやりながら、美恋がそう言う。


「何とかといっても…」


 沙槻さんの言葉通り、生者と死者は、異なる位相世界に存在する間柄とされる。

 そのため、同じ現世に居ても、交信する術は非常に限られているのだ。

 美恋はじれったそうに続けた。


「要は死んだ人と会話出来る方法があればいいんでしょ?例えば、恐山のイタコを連れてくるとか」


「イタコって…お前、そんな気軽に…」


 …いや。

 待てよ。

 僕は白い花園を見渡した。

 さっき、樹御前が言った言葉を思い出す。

 ヤクモさんの魂は、この花園の力でこの世に実際に留まっているのだ。

 なら、あと必要なものは…


「沙槻さん!」


「はいっ!?」


 沙槻さんの両肩を掴んだまま、僕は真剣な顔で聞いた。


「沙槻さんは『神降ろしの儀』を使う事が出来ると言ってましたよね?確か『人の身』に『神の魂』を降ろすという術と聞きましたが…」


「え、ええ。そうですが…」


…!?」


 それを聞くと、沙槻さんは驚いた顔になった。

 だが、すぐに俯いてしまう。


「…とおのさまが、なにをおっしゃりたいのか、わかりました」


 その声には、僅かな嫌悪が滲んでいた。


「たしかに『それ』はかのうです。ですが、さきほどもうしあげたとおり、それは…」


「沙槻さん、僕はこう思うんです」


 その呼び掛けに、沙槻さんは顔を上げる。

 僕は静かに言った。


「人を不幸にするなら、確かにそれは『邪法』でしょう。でも、同じものでも人を幸せに出来るのなら…それはきっと『いい方法』なんじゃないかって」


「…」


「お願いします、沙槻さん」


 沙槻さんは迷っていたようだが、ふと困った様に笑った。


「ほんとうに、やさしいひと」


 そして、すぐに厳しい表情に変わる。


「…もしものときは、わたしはとおのさまのあんぜんをゆうせんします…よろしいですね?」


「…分かりました」


「ちょ、ちょっと!一体何をする気だよ、お前ら!?」


 間車さんをはじめ、全員が僕達のやり取りに顔を見合わせている。

 僕は深呼吸をすると、乙輪姫に近付き、その前に座った。

 涙に暮れていた彼女は、そんな僕を不思議そうに見た。


「聞いてください、乙輪姫。今から、沙槻さんの術で


「…え」


 その言葉に、目を大きく見開く乙輪姫。

 同時に、居並ぶ全員が驚いた。


「なっ…!?」


「十乃殿!?」


「出来るのかよ、そんなことが!?」


 それに沙槻さんが頷く。


「かのうです。ただし、これは『かみおろしのぎ』ではなく『しびとがえし』のじゅつにちかいもの…ほんらいは『じゃほう』のりょういきになるので、わたしはきがすすまないのですが…」


「待て、五猟。美恋さんが言ったイタコの『口寄せ』ように『生者の身体に死者の魂を降ろす術』は確かに存在する。だが、そんなことをして十乃の身体は…いや、魂は大丈夫なのか…?」


 黒塚主任が険しい表情でそう尋ねる。

 それに沙槻さんは首を横に振った。


「…しょうじきにいえば、どうなるかはわかりません。ひとつのからだにふたつのたましいがどうじにそんざいすれば、おたがいにどんながおこるのか…」


「おいおい…どう考えてもヤバいだろ。止めた方がいいんじゃないのかい?」


 絶句する妃道さんに、沙槻さんは決意を持った表情になる。


「ええ。ですから、そのじょうたいをたもつのは、ごくわずかなじかんにします…そして“あまのざこ”いえ、いつわひめさま」


 沙槻さんの呼び掛けに、乙輪姫が彼女の方を見た。


「…もし、がしょうじれば、たとえ、あなたのいとしいひとのたましいをしょうめつさせてでも、わたしはとおのさまのたましいをおたすけします。それでも…やくもさまにあいたいですか…?」


「ちょっと待ってよ!勝手に話を進めないで!」


 美恋が叫ぶ。


「そんなの普通の人間のお兄ちゃんに出来る訳ないじゃない!他の人じゃダメなの!?」


「ざんねんですが『ひとのたましい』は『ひとのからだ』にしかもどせません。ようかいのみなさんや、わたしのような『ひとからはずれたもの』のからだには、おろすことはできないんです」


「じゃ、じゃあ私が…!」


「それは一番ダメだ、美恋」


 僕が強い口調でそう言うと、美恋は力なく項垂うなだれた。

 その様子を見ていた乙輪姫が、おもむろに尋ねる。


「十乃といったわね…そなたは何故そこまでするの?妾はそなたを女にした張本人だし、さっきまで殺そうとさえしていた相手なのよ…?なのに何故、妾のために身体を張ろうとするの…?」


 僕は苦笑した。


「あはは…実は僕にもよく分かんないんですけど」


 それは本当だ。


 でも…僕は見てしまった。


 神霊である乙輪姫は、寿命がない。

 時の流れに取り残され、孤独に生きる運命の彼女が掴んだ、束の間の幸せな時間。

 それすらも失い、傷付き、虚勢を張って、この地を守ってきた乙輪姫。


 そんな彼女が静かに流した「涙」を。


「…多分、ヤクモさんもそうするんじゃないかって、思って」


「十乃…」


 僕の言葉に目を見開いた乙輪姫は、しばし俯くと、沙槻さんに頭を下げた。


「お願い…それでも良いから、彼に…ヤクモに会わせて」


 沙槻さんは無言で頷くと、大幣おおぬさを振るった。


「では、とおのさま。できるだけ、こころを『から』にしてください。やくもさまのたましいがはいってきても、ていこうしないように。どうじに、みずからをうしなわないようにおねがいします」


「わ、分かりました。頑張ってみます」


 沙槻さんが祝詞のりとの奏上を始める。

 その声にもう一つの声が重なった。

 見れば、樹御前も同じ祝詞を唱和している。


「御前様…!」


「妾は巫女ではないが、助太刀くらいにはなろう」


 ウィンクしながらそう言うと、樹御前は祝詞の唱和に戻った。

 僕も、ヤクモさんの魂と交霊するために、心を「無」にする。


 やがて…

 僕の身体の中に、不思議な感覚が走った。



 「めぐる」は「ヤクモ」なのだが。


 「ヤクモ」は「めぐる」でもある。


 今まで一つだった僕の心に、別の誰かの感覚が生まれる。

 やがて二つになった心は、その境界をあやふやな感じにしていく

 そして、そのフワフワした意識の状態が、段々と方向性を持っていく。


 手が、足が、自分以外の者の意識へと明け渡されていく。


 何だか、眠い。


 このまま眠ってしまえば、楽になりそうだけど。


 誰かに強く、何かを言われていた気がする。


(駄目だよ、いま寝ては駄目だ)


 ええと、誰…?


 ああ…違う。今のはめぐるだ。


 いや、ヤクモか?


(すまない。少しの間、君の身体を借りるよ)


 借りるって…これはヤクモの身体でしょ?

 好きに使っていいんじゃないの?


(違う。だ。そして、。あまり心を近付けてはいけない。でも…ああ、いい感じで身体も魂も馴染んでる。どうやら、は気が合いそうだね)


 そうなんだ。

 ああ、でも。

 「」も「」と気が合いそうな気がするなぁ…


(いいぞ。その調子で君は「」を保っていてくれ…無理をさせて本当にすまない。でも、ありがとう…感謝するよ)


 そんな声を最後に。

 はそのまま、まどろむことにした。

 決して、深い眠りに落ちないように…


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乙輪いつわ…」


 それは。

 長い時を生きる彼女が失い、焦がれ、そして諦めていた瞬間だった。


 懐かしい声に、祈る様に目を閉じていた乙輪姫が、顔を上げる。

 いま、眼前に居たのは十乃という人間だ。

 彼女の権能けんのうを受け、男から女になってしまった人間。

 ましてや「彼」ではない。

 ない筈なのに。


「お、おい!巡の姿が…!」


 輪が驚きの声を上げる。

 全員の目の前で、少女の姿だった巡の身体が、おぼろげに変化していく。

 そこには一人の若者が居た。


「ヤクモ…なの…?」


 呆けた顔で、眼前の若者を見詰める乙輪姫。


「そんな…!『こころ』がかわっても『からだ』までへんかするなんてことはないはずなのに…!?」


 祝詞の奏上を終え、変化した巡の姿を見て、沙槻は驚きの声を上げる。

 一同が見守る中、かすかな燐光りんこうに包まれた若者…弥空媽ヤクモは、優しく微笑んだ。


「久し振りだね…乙輪」


 一日たりとて忘れなかった、懐かしいその微笑みを見た瞬間、乙輪姫の視界が涙で滲む。


「ヤ、クモ…」


 恐る恐る手を伸ばす。

 ヤクモも彼女に手を伸ばしてくれた。

 しかし、触れ合う手前で、乙輪姫は僅かに手を止めた。


 これは幻ではないのか。

 もし、自分が触れたら、そのまま消えてしまうのではないか。


 そんな疑念が乙輪姫の頭をよぎる。

 彼女の心配を察したのか、止まった乙輪姫の手へヤクモが触れた。


 あたたかい。

 幻ではない。

 本当に彼が目の前にいる。


「ヤクモ…!!」


 止まっていた彼女の時間が動き出す。

 その想いをぶつける様に、乙輪姫は若者の胸へと飛び込んだ。


「ヤクモ…ぐずっ…ヤクモ…ヤクモッ…うええええええん…!」


 広くあたたかい、彼の胸の中で、乙輪姫は声を上げて泣きじゃくった。

 子供のように泣き続ける彼女抱きしめながら、ヤクモがその頭を優しく撫でる。


「乙輪…辛い思いをさせてしまったね。本当にすまなかった」


「…そんなこと、ないよ…ぐずっ…の方こそごめんなさい…あの時、私が貴方に『本当の事』を告げてしまったばかりに…ううっ…」


「いや、それは君のせいじゃない。僕が君から無理矢理聞き出した事だ。それに、君が止めるのも聞かずに、薬草を採りに行ったのは僕自身の判断なんだから」


 そして、更に強く彼女を抱きしめる。


「でも、そのせいで君は思い詰めてしまった…全て自分のせいだと…『本当の事』を口にすることが、災いをもたらす事なのだと…君は自分の神性ほんしつすら変えてしまったんだ」


 ヤクモの目に、涙が光る。


「本当にすまない…死んだ後も、僕はすぐ近くに居ながら、変わっていく君を止める事も、慰める事も出来なかった…!」


「ヤクモ…」


 その頬に両手を添え、乙輪姫は微笑みながら首を横に振った。


「いいの。いいのよ、ヤクモ。それも同じ。私が自分で決めた道なんだから」


「乙輪…!」


 再び抱き合う二人。

 見守る一同の目にも、うっすらと涙が浮かんでいた。


「良かった…」


 フリーデリーケが声を詰まらせて、目尻を拭う。


「神が人に恋をする、か…まるで、おとぎ話ね」


「…ハンカチ、いる?」


 そっとハンカチを差し出すゲルトラウデに、カサンドラがそっぽを向く。


「うっさい。だ、誰も泣いてないっ」


 その様子に、美恋は呟くように言った。


「いいんじゃないですか、おとぎ話でも。『誰かを好きになる』っていう心は、人にも妖怪にも、神様にだって…止められないんですよ、きっと」


 その言葉に、一同は抱き合う二人に目を向ける。

 白い花園の中、人間の若者と神霊の少女は、まるで美しい絵画のように向き合っていた。


「…しかし、これでやっと乙輪姫の努力が実った訳か」


 感慨深そうに、黒塚が呟く。


「どりょく…ですか?」


 それに沙槻が首を捻った。


「…?何かおかしいか?彼女は、ヤクモ氏に再会するために“反魂香”の原料になるこの花を守ってきたのだろう…?」


 黒塚の言葉に、皆が頷く。

 それに沙槻は首を横に振った。


「いいえ。みなさん、をしておられます」


「勘違い?」


 微笑み合う二人に目を向け、沙槻は続けた。


だったんです」


「約束って…この花を守る事がか?」


 エルフリーデの言葉に頷く沙槻。


「やくもさまは、おかあさまのためにやくそうをとりにいき、そのときのけががもとでなくなりました…そのとき、やくもさまがもちかえったのが、この『みたまがえし』だったんです」


「…そう言えば」


 樹御前が思い出したように言う。


「『ミタマガエシ』は、処方の仕方によっては万病に効くという古い話があったの」


「ええ。やくもさまは、なくなるまえにいつわひめさまにこのはなをたくし、こうおねがいしたのです…『ははのようなびょうにんをたすけるために、どうかこのはなをたくさんそだててほしい』…と」


 沙槻の言葉に、全員が驚いて周囲を見回した。


「で、では…乙輪姫がこの花を育て、守っていたのは…」


「うしなった、いとしいひととのちかいをまもるためだったんです」


 驚く秋羽の言葉に、沙槻は静かに続けた。


「たったひとつのやくそくのため…だったんですよ」


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「ずっと約束を守ってくれたんだね…ありがとう、乙輪」


 ヤクモが乙輪姫の頭を、優しく撫でる。

 それを目を細めて甘受する乙輪姫。


 無垢なる白い花が、二人を照らす。

 これは束の間の再会の場だ。

 いずれまた、二人は離れ離れになる運命にある。

 だが、いまは…


「うん。私、頑張ったんだよ…!」


 優しい彼の微笑みに応えるように、乙輪姫は白い花に負けないくらい、輝く笑顔を浮かべていた。

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