【五十六丁目】「冗談じゃないわよ…!」
異変が起きた。
急に垂れこめた黒雲が不吉な相を描き、折からの風に流れていく。
波打つ草原は、行き倒れて絶命した旅人の手が招く様に、揺れ動く。
そして、周囲に漂う血の香り。
思わずむせかえりそうになって、私…
「一体、何が起こったの…!?」
草原の外れにある木立に隠れながら、私は天候の急変に戸惑いつつ、ある人物を注視する。
文武両道で名を馳せる完璧美人であり、泣く子も黙る“
仕事で、とある厄介事に巻き込まれた兄は、何とこともあろうに女性になって帰ってきた。
聞けば“
仕事柄、ある程度の危険はつきものなのだろうが、何も性転換される様な事案に首を突っ込まなくてもいいのではないだろうか。
何にせよ、兄を元に戻すには“天毎逆”をやっつけるしか方法がないらしい。
「彼の事は、我々が責任を持って元に戻すことお約束します」
家を訪れ、事の経緯を説明した後、黒塚さんは姿勢良く正座をしながら、三つ指をついて深々と頭を下げ、私にそう言った。
彼女は、兄の身近にいる女性達の中では、ぶっちぎりに魅力的で、兄を
つまり、兄を愛する私にとっては、いわば天敵に近い。
その彼女が清々と真正面から謝罪と約束をしてきた。
彼女は私の事を「部下の家族」くらいの認識しかないのだろうが、私としては、最大の仇敵が正々堂々と直談判に来たような感覚だ。
正直、難癖をつけたくもあったが、その態度があまりにも潔かったため、つい承諾しまったのである。
しまったのではあるが…
そうはいっても、まんじりと出来ない自分がいた。
何しろ、倒すべき相手は神様である。
例え黒塚さんが伝説に名を残すような妖怪であっても、そうやすやすと歯が立つ相手とは思えない。
なので、私は家族には内緒でこの
自分に何ができるかは分からない。
しかし、黒塚さんの話では、下手をすれば兄は死んでいたかも知れないとのことだった。
そんな話を聞いてしまっては、家でただ兄の帰りを待っているなど到底出来っこない。
甘く見ないで欲しい。
こちとら、兄の座っっていた座布団に頬ずりする程ぞっこんLOVEなのだ。
「何これ…?バイクの音?」
不意に、風景にそぐわない爆音が彼方から響いてきた。
見れは、波打つ草原の彼方から、蒼と紅の光がこちらに向かって物凄い速度で近付いてくる。
爆音の正体は、これの様だ。
しかも、その後ろには、空を舞う人影とでっかい白狐、そして青白く燃え盛る大蛇が追いすがっていた。
「な、何よ、あれ!?」
住んでいる土地柄か、妖怪・怪異の類は物心ついたときから見慣れている。
だが、あんな
「後は任せたぜ、
蒼紅の光が、黒塚さんの両脇を走り抜ける瞬間、そんな声が聞こえた。
砂埃を派手に巻き上げ、馬鹿みたいなスピードを殺し、ようやく停止したのは二台のバイクだった。
その人外のスピードもさることながら、乗っている人物の格好に度肝を抜かれた。
一言でいえば、昭和のレディースだ。
いまどき、公道では滅多にお目にかかれない
よく見れば…一人は
もう一人の長髪の女性は見た事が無いが、格好を除けば切れ長の目の美人だった。
…あんなカッコで、何してんだろう、この人達。
「御苦労」
応じた黒塚さんの手に、巨大出刃包丁が出現する。
うそ!?
今まで無手だったのに、一体どこから取り出したんだろう…!?
驚いていると、追手の中から、炎の大蛇が突出した。
人を丸呑みで来そうな口腔を広げ、黒塚さんに襲い掛かる大蛇。
避けようともしない彼女を頭上から飲み込んだ瞬間、大蛇の脳天から包丁が生えた。
そのまま、一瞬で大蛇の頭が内側から解体される。
「…しかし、だ」
青い炎雨の中、黒塚さんが続けた。
「『姐さんはよせ』と言ってるだろう、間車」
溜息を吐きながらも、手にした出刃包丁を妖しく舐める黒塚さん。
その妖しい色香に、女の私ですらゾクリとなる。
ああ。
何て美しいんだろう、この
諸説あるが「安達ヶ原の鬼婆」こと鬼女・黒塚は元々「
とある京の公家の下で乳母を務めていた彼女は、溺愛していた病気の姫ため、胎児の生き胆が万病に効くという言葉を信じ、それを手に入れるために、幼かった自分の娘を置いて旅に出た。
そして、奥州の「安達ヶ原」に辿りついた彼女は岩屋に居を構え、標的となる妊婦をひたすら待った。
やがて、月日を重ねたある日、若い夫婦がその岩屋に宿を求めた。
その妻は身重だった。
そして、運悪くちょうど妻が産気づき、夫が薬を買いに出かけた。
ここで彼女の運命の歯車が狂う。
岩手は出刃包丁を手に身重の女に襲い掛かり、その腹を裂いて、嬉々として胎児から肝を抜き取った。
だが、その時、女が身に着けていたお守りを目にし、岩手は驚愕する。
それは自分が京を発つ際、愛する娘に残したものだった。
そう。
彼女が殺した妊婦は、他ならぬ我が子「
あまりの出来事に彼女は精神に異常をきたした。
当然だろう。
知らなかったとはいえ、愛する我が子と孫の命を、自らの手で奪ってしまったのだから。
その後、岩手は旅の僧に調伏させられるまで、旅人を襲っては生き血と肝をすすり、人肉を喰らう鬼婆と成り果てたのだという。
その哀しい伝承の主人公が、こんな美しい
「…」
炎の大蛇が一瞬で
そして、白狐の背に乗っていた一人の女性が、その背から降り、黒塚さんと対峙した。
こちらも黒髪をまとめた美しい女性だった。
黒い鎧みたいなスーツに身を包み、黒塚さんに目を向けている。
気のせいか、その視線は少し虚ろに見える。
その女性に向けて、黒塚さんは言った。
「かの“
「…」
「
黒塚さんの瞳がすぅっと細まる。
「火急の事態ゆえ、少々手荒になってもご容赦願いたい」
直後、黒塚さんから凄まじい鬼気が立ち上る。
その迫力に「日羅」と呼ばれた女性以外…すなわち白狐と上空の人影…姿格好からして天狗の一団?…が
白狐が辛うじて威嚇するように牙を剥くものの、黒塚さんがジロリと一瞥すると、ビクッと身を
「…」
ただ一人、日羅さんだけは応える様に腰の剣を抜いた。
形状は、不動明王が手にする「降魔の剣」によく似ている。
そして、一歩も退かない事を示す様に、彼女は剣を一振りした。
その瞬間に、刀身が業火に包まれる。
二人の合間で、恐ろしい程の殺気が生じた。
「“風たなびき 黒雲生じ
不意に。
黒塚さん口から
それに伴い、周囲の風が
「“紅き血の雨
その
彼女の紡ぐ言葉は、得体の知れない強い力を帯びていた。
血の臭いがより濃くなっていく。
「“万の
口調には哀切と狂気が入り乱れる。
美しい唇が刻んでいく、毒の様な
私はそこに古い伝説を見た。
幾人も幾人も殺した、鬼の女の
外道に堕ち、救いすらもなく、ただ生命を飲み干していく魔物と化した一人の女の
「“全ては愛する子どものため 愛し子すらも
詠唱が終わる。
そして、遂に世界は反転し、文字通り「異界」と化した。
草原全体に浮かぶ色は「赤」。
足元に浮かび上がるは血だまりの群れ。
光を
空も赤く染まり、風すらも血の飛沫を帯び、断末魔の如き叫びを響かせる。
それに呼応するように、黒塚さんの頬に血の涙のような紋様が浮かんだ。
「これぞ我が妖力【
吹き荒ぶ風と草原。
居並ぶものの恐怖。
彼女自身の
舞台装置が揃った時「鬼女・黒塚」の伝説が
現実はいにしえの深い闇に蝕まれ、沈み落ちた。
「…!」
周囲で起きた異変に、それまで微動だにしなかった日羅さんも、流石に
その一瞬を黒塚さんは見過ごさない。
風の様な勢いで日羅さんの眼前に移動する。
咄嗟に炎の剣で振り払う日羅さん。
「遅い」
それを血塗りの出刃包丁で受け止める黒塚さん。
血と脂が焼ける生臭いにおいが立ち込めた。
真っ向から噛み合った血と炎の刃は、血刃が押し始めていた。
「流石は天狗神“三尺坊”」
血涙に彩られた頬に笑みを浮かべ、黒塚さんが続ける。
「鬼の腕力に真っ向から組み合うとは…感服します」
「…」
「…それだけに、出来れば正気で立ち会いたかった」
そう言うや否や、黒塚さんは日羅さんの胸元に凄まじい正面蹴りを入れた。
間一髪、手甲を交差させ、防御する日羅さん。
が、その勢いは殺せず、派手に後方へ蹴り飛ばされる。
追撃に走る黒塚さんに、上空の天狗達から矢の雨が降り注いだ。
「無駄」
言いながら、迫る矢ぶすまを出刃包丁で迎え撃つ黒塚さん。
だが、数十の矢を撃ち落とした時、一本の矢が出刃包丁の刃を射抜き、砕いた。
しかし、黒塚さんは慌てず周囲に突き立つ無数の大出刃包丁を両手で一本ずつ引き抜き、更に前進した。
再び飛来する天狗達が放った矢の雨。
黒塚さんはそのまま、駄目になった出刃包丁をとっかえひっかえ持ち替えて、前進していった。
その顔には不敵な笑みが浮かんでいる。
まずい…!
いくら伝説の鬼女でも、あんな数の相手に囲まれたら…!
「…!」
「…!」
数人の天狗が黒塚さんに打ちかかる。
私も多少の武術の心得があるから、その打ち込みがどれだけ凄いかは一目で分かった。
恐らく、人間では相手になる者もなかなかいないだろう。
そんな打ち込みを、黒塚さんは両手の出刃包丁であっさりと迎え撃った。
幾重もの攻撃をかわすことなく、刃で受け、流し、時に押し返す。
全く出鱈目な強さだ。
「流石は“三尺坊”の眷属。素晴らしい錬度だ…」
複数の棍を出刃包丁で一度に受け止める黒塚さん。
目を見張る猛攻にも怯まず、息一つ乱れていない。
「…おいおい、バケモノかよ、お前んとこの上司は!」
間車さんと並んで黒塚さんを見ていた黒髪の美人が、呻くようにそう言う。
「“三尺坊”相手にああも圧倒するなんて…いくら『安達ヶ原の鬼婆』でもあり得ねぇだろ!?」
「『いま』だから可能なんだよ」
周囲の異界を見回しつつ、間車さんが強張った声で続けた。
「姐さんの【鬼偲喪刃】はな、場所とか条件が揃えば『安達ヶ原の鬼婆』の伝説を再現できる
何と。
あの完璧美人に、そんな力があったとは…!
困った。
これではますます勝ち目が薄くなる。
黒塚さんに視線を戻すと、幾人もの天狗達を蹴散らして、再度日羅さんに肉迫していた。
「…!」
強烈な蹴りを受け、ようやく態勢を立て直した日羅さんが、迫る黒塚さんに
意思を持った蛇の様に伸びたそれは、あっという間に黒塚さんをグルグル巻きに捕らえてしまった。
「くっ…!」
そのまま引き絞ると、黒塚さんは地面に倒されてしまう。
そこへ、白狐が青白い炎の塊を吐いた。
すんでのところで地面を転がり、身をかわす黒塚さん。
が、息吐く間もなく、今度は日羅さんが炎の剣で襲い掛かる。
一挙動作で起き上がった黒塚さんは、驚いた事に身を反らせ、傍らに突き立っていた大出刃包丁の柄を口に咥えると一挙に引き抜き、そのまま炎の剣を迎え撃った。
まったく、何という戦闘本能だろう…!
拘束され、両手が使えない中、彼女は口に咥えた刃のみで戦い始めたのだ。
誰もが羨む美人が、そんな荒々しい所作を行うなんて信じられない。
日羅さんもこれには驚いたのか、剣の動きに動揺が伝わった様だった。
振るう切っ先が心なし鈍くなる。
そして、黒塚さんと幾合も斬り結ぶ中、一撃をフェイントで誘われた。
振り抜いた切っ先は、黒塚さんを拘束する羂索を切断。
途端に自由になった両手で、炎の剣の刀身を掴む黒塚さん。
肉の焼ける嫌なにおいが音が辺りに響く。
うわあ。
アレは熱そう…!
「そろそろ終わりにさせていただきますよ、日羅氏」
硬直する日羅さんに不敵な笑みを向けると、黒塚さんは炎の剣を強引にもぎ取った。
そして、
あ、あれはっ!
「せえええええいっ!!」
ちょうど、柔道でいう「払い腰」に似た形で日羅さんを投げ飛ばす。
「ごほっ…!!」
鈍い音と共に、日羅さんが地面に叩きつけられた。
そのまま、ピクリとも動かなくなる。
それを見届けると、黒塚さんは深く息を吐いた。
同時に、異界と化していた周囲の風景が、元に戻っていく。
「大丈夫か、姐さん!」
見守っていた間車さん達が駆け寄って行く。
黒塚さんは、両手にふーふー息を吹きかけていたが、静かに笑った。
「問題ない…まあ、多少火傷はしたが、怪我のうちには入らんさ」
「いや、心配してるのはコイツの方。そもそも『あの状態』の姐さんをどう心配しろっていうんだよ。なあ?
目を回し、ピクピク痙攣している日羅さんを指差す間車さん。
それに「妃道」と呼ばれた女性も肩を竦める。
黒塚さんは、少し脹れっ面になり、
「…人を化け物みたいに言うな。傷付くじゃないか」
いや、実際化け物だって、あんた。
聞き耳を立てながら、そう一人つっこむ私。
「まあ、それはともかく」
妃道さんが腕を組んだ。
「これでコイツの洗脳は解けたのか?」
「確かめてみりゃあいいさ…おーい、起きろー」
間車さんが、ぺしぺしと日羅さんの頬っぺたを叩く。
白狐がそれを心配そうに見ていた。
「う、うう…」
程なくして、目を覚ます日羅さん。
「こ、ここは?私は一体何を…?」
テンプレな洗脳解除台詞である。
頭を振る日羅さんを、黒塚さんが手を貸し、助け起こした。
「大丈夫ですか?日羅氏」
「黒塚殿…私は一体何をして…」
「“天毎逆”に術を施されていたのですよ」
黒塚さんの説明によると“天毎逆”は天狗と天邪鬼の由来になった妖怪神らしい。
「何と…不覚でした。私ともあろう者が、不意打ちとはいえ敵の走狗にされるとは…!」
悔しげに地面を殴る日羅さん。
どうやら、生真面目な性格の女性の様だ。
それだけに兄にアプローチをかける事はないだろうが…一応、注意はしておくか。
秋羽さんは、昏倒して倒れ伏す天狗達を見回し、悔しそうに続けた。
「部下達の不覚も、いわば頭領たる私の不覚…何と申し開きをすれば良いのか…!」
「日羅氏、今はそれよりも“天毎逆”です」
切腹でもしそうな勢いの日羅さんを、黒塚さんが
「かの妖怪神は今も健在です。現在山頂から動かず、十乃や
「五猟の巫女が!?」
「ご心配なく。念のため、私の方で保険はかけております」
「保険?」
黒塚さんの言葉に、間車さんが怪訝そうな顔で聞いた。
「ああ。こんなこともあろうかと、かの妖怪神に面識がありそうな
妃道さんが口笛を鳴らす。
「へぇ、流石だね、主任さん。で、どんな連中なんだい」
「一人は“
「成程。で、もう片方は?」
妃道さんがそう尋ねると、黒塚さんの口からとんでもない名前が飛び出た。
「“七人ミサキ”という怨霊の集団です」
…
……
………
なん…だと…?
いま“七人ミサキ”って言ったよね?
言った。
絶対言った…!
私の脳内で、あの
私は目の前が真っ赤になるのを感じた。
同時に、全身を灼熱の溶岩の様な力が駆け巡る。
「冗談じゃないわよ…!」
みなぎる力を解放するかの様に、私は山頂に向かって全速力でダッシュを始めた。
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