【三十六丁目】「じゃあ、いいよね…?」

 僕…十乃とおの めぐるは、現在24歳。

 物心がついた頃から今日まで、女性とお付き合いしたことは…一回とて無い。

 小学生から高校生の頃、それぞれの時期に気になっていた同級生の女の子はいたが、告白する度胸も無く、初恋としてほろ苦いどころか無味無臭のまま終わりを迎えた。

 実に灰色の青春時代である。

 そもそも僕は容姿端麗という訳でもなく、かといって、頭脳明晰でも運動神経抜群でもない。

 そんな、平々凡々な僕は、女の子にモテるということもなかった。

 そんな僕が、えー、何というか…

 平たく説明すると。


 現在、伝説の死霊集団“七人ミサキ”を率いる、金髪美人の女性将校に、ファーストキスを奪われています。


 …こう書くと、改めてすごい状況である(ここまで二秒)。


 唇に感じる柔らかい感触と、鼻孔をくすぐる花の芳香…エルフリーデさんのつけている香水の香り?…が、自分の置かれた状況を夢幻のように見せている(ここまで五秒)。


(霊も、香水をつけるんだ…ああ、女の人だもんな)


 場違いなことに感心する僕。

 見開いた目の前には、目を閉じたエルフリーデさんの貌があった。

 白磁の肌が、月光を捉え、仄かに輝いているように見える(ここまで八秒)。


睫毛まつげ、長いな)


 本当に。

 きれいな女性ひとだと思う。

 こんな女性が、何故“七人ミサキ”の呪いに捕らわれているのだろうか。

 しかも、こんな犯罪まで犯して(ここまで十一秒)。


「ぁぁぁぁぁぁあああああああああああんんたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」


 突然。

 どこからともなく、そんな絶叫が響いてきた。


「むっ!?」


 異変を察知し、唇を離すエルフリーデさん。

 が、時すでに遅し。

 顔を上げた瞬間、彼女のこめかみに、素晴らしい角度で飛び蹴りがヒットした(しめてここまで合計十四秒)。


「へゃぶぅッ…!?」


 素っ頓狂な声を上げ、吹っ飛ぶエルフリーデさん。

 完全な不意打ちだったためか、二回、三回と面白いように地面をバウンドし、植え込みの中に消えていく。

 な、何だ…!?

 一体何が起こったんだ!?

 慌てて身を起こす僕の目の前に、見慣れた顔があった。


「み、美恋みれん…!?」


 十乃 美恋、17歳。

 頭脳明晰、運動神経抜群。

 おまけに…身内の僕が言うのも何だが…容姿端麗。

 「神童」「十乃家、希望の星」ともてはやされる完璧超人、妹の美恋だった。

 美恋は、荒い息をついて、エルフリーデさんが消えた茂みを睨みつけている。


 何てこった…

 今の飛び蹴りを放ったのは、美恋なのか!?

 そ、そんな、バカな…!

 どうして、生身の人間の美恋が、霊体のエルフリーデさんに飛び蹴りを食らわすことができるんだ!?


 驚愕したまま、固まっていた僕に、ぐりんと向き直る美恋。

 髪が乱れて、目にはうっすらと涙が滲んでいた。


「お、にい、ちゃん…」


 僕を見降ろす美恋の視線が、鋭く輝く。

 白状しよう。

 何故だか分からないが、この時、僕の身体をエルフリーデさんに抱かれた時以上の悪寒が走り抜けた。


「いま、なに、してたの…?」


 じり…


 美恋が一歩踏み出す。


 すざっ…!


 反射的に、後退あとずさる僕。

 ちなみに、いまもエルフリーデさんの鞭はほどけていない。

 これも白状するが、この時自由の身なら、一目散に逃げていたかも知れない。


「…なんで、にげるの…?」


 美恋の声のトーンが、おかしい。

 僕は慌てて言った。


「に、逃げてないよ!そ、それより何でここに…!?」


「きょうづかさんを、みつけたの」


 うわ言の様に、美恋が呟く。

 え!?

 何だって!?

 僕が思わず問いただそうとするも、それを許さず美恋は先を続けた。


「でも、ここまでおってきたら、きょうづかさんが、かおのないかいぶつになって、おなじようなかいぶつたちとごうりゅうして…」


 また一歩、美恋が近付いてくる。


「こわくなって、でもほうっておけなくて…かくれてみていたら、そこのおんなのひととおにいちゃんが、きんぱつがいこくじんとかいぶつとけんかしはじめて…」


 「女の人」とは、間車まぐるまさん(朧車おぼろぐるま)のことだろう。

「金髪外国人」は、言うまでも無くエルフリーデさんのことだ。

 見れば、間車さんも一連の出来事に、呆けたような表情で固まっていた。


「そしたら、おにいちゃんがつかまって、きんぱつがいこくじんと………き、きす………ッ……!」


 ワナワナと震えだす美恋。

 何故だろう。

 僕の眼には、それが噴火寸前の火山に見えた。

 美恋は、キッと涙目のまま顔を上げた。


「キスしてた!!!!!!!!!!!!!!!!」


 公園中に響き渡る絶叫を上げ、夜叉やしゃの様な眼光を放つ美恋。

 小さい頃、美恋は泣き虫の甘えん坊だった。

 同世代の女の子と遊ぶことはまれで、いつでも僕の後をついてきた。

 僕もそんな妹を可愛がり、喧嘩をしたことも無く、うまくやっていた。

 中学に上がると、美恋は突然僕から距離を置いた。

 同じ家に居ながら、一日話すことも無い日もあった。

 別人の様にクールになった妹を見て、悲しくもあり、その成長に寂しさを覚えたこともある。

 小さい頃から見てきた、そんな様々な妹の表情。

 今の美恋の表情は、そのどの表情にも当てはまらないものだった。


「や、その、あれは…!」


 不可抗力、と続ける前に、


「キスした!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 そう言いながら、再び美恋が一歩近付く。


「…なんで…?」


「…へ?」


「なんで…キスしたの?…あの人が、好きなの…?」


 ゆらぁり、と美恋がゾンビの様に身体を左右に揺らしながら近付いてくる。

 言い得ぬ恐怖に駆られた僕は、まるで壊れた人形の様に、ブンブンと首を横に振った。


「ち、ちち違うって!あれは無理矢理!不可抗力!突発事故!世界の七不思議!」


 ピタリと。

 美恋の歩みが止まる。


「…そう」


 嘘みたいに、美恋から放たれていた殺気が消える。

 ホッとしたのも束の間、次の台詞を聞き、僕は目を剥いた。


「じゃあ、私とシて」


「……………………………………………はい…?」


「好きじゃないなら、さっきのはノーカンよ。相手も外国人だし、挨拶みたいなものでしょ?」


 美恋の目から涙が消えていた。

 代わりに、さっきとは違う危険な輝きが宿っていた。

 小指を下唇に当て、リップクリームの様になぞる美恋。


「だから…本当のキスは、私としよ?」


「ばっっっっ!なっっっっ!おっっっっ!」(※「バカな!何言ってんだ!お前!」と、言おうとしています)


「私はお兄ちゃんが好き」


 情欲に濡れた瞳で、衝撃的な告白をしながら、美恋が迫って来る。

 そのまま、身動きもままならない僕へ、覆い被さる様に美恋は身を乗り出した。


「お兄ちゃんは…私のこと、嫌い?」


「えっ!?いや、そんなことはないけど…けど!」


「じゃあ、いいよね…?」


 潤んだ瞳で僕を見降ろす美恋に、不覚ながら、思わず僕は生唾を飲み込んだ。


(本当に、きれいになったな、こいつ)


 ぼうっとそう思った瞬間、幼い頃の美恋の笑顔が、今の美恋に重なる。

 それで、僕は目をつむって頭を振り払った。

 バカ!何考えてんだ、僕は…!


「ん…」


 無言を肯定と受け取ったのか、美恋が目を閉じ、唇を近付けて来る。

 エルフリーデさんとは違う、甘酸っぱいコロンの香りが仄かに香った。


「お兄ちゃん…」


「~~…!」


 美恋の唇はもうすぐそこまで迫っている。


 わあああああああああああっ!

 何なんだ、この展開はあああああっ!

 だ、誰かあああああああっ!


「…いい加減に、しとけ!」


 どす!


「あうっ!?」


 いつの間にか立ち直った間車さんが、美恋の背後に立ち、手刀をその首筋に叩き込む。

 すんでのところで、気を失い倒れる美恋。


 た、助かったぁぁぁぁぁぁ…!!!!!!!


「ま、間車さん!ありがとうございます!!」


 身体に巻き付いた鞭を引き剥がしてもらい、ようやく自由になった僕は、深々と間車さんに頭を下げた。


「…」


 無言のままの間車さん。

 らしくない反応に、僕は顔を上げて、間車さんを見た。


「間車さん…?」


「何だよ」


 ジロリと僕を睨みつけてくる間車さん。

 …何だか知らないが、間車さんの虫の居所が良くない。


「いえ、あの…何でもないです」


「…カ…ロウ…」


 言葉を濁す僕に、間車さんは背中を向けて何か呟いた。

 聞き取れなかったけど、多分、不甲斐ない僕への文句だろう。


「…それより、見ろよ、巡。あいつらの様子が変だぜ」


 間車さんが顎で指し示した方向に目をやると、そこには立ち尽くしたまま動かない六体の無貌達の姿があった。

 エルフリーデさんが美恋の飛び蹴りを受けた直後から、何故かこの六体は動きを停止している。

 先程までは、エルフリーデさんの指示に従い、間車さんを追い詰めるほどの連携を見せていた彼らなのに、今は全く何の反応も見せていない。


「間車さん…彼らは何で動かないんでしょう?」


「分からない。分からないけど…少しタネが見えてきたぜ」


「え?」


「たぶん、こいつらは手足に過ぎないんだよ。頭がいなけりゃ、手足は動けない…つまり、あの金髪女が居なけりゃ、こいつらはただの木偶でくって訳だ」


 成程。

 司令塔であるエルフリーデさんが倒れた今、彼らは全く動くこともないってことか。

 その時、たたずむ六体の無貌に変化が生じた。

 六体の身にまとった軍服・軍帽が形を崩し、闇へと溶けていく。

 同時に、無貌の頭部にも変化が生じていった。


「間車さん、あれを…!!」


 僕は思わず声を上げた。

 間車さんがキャップのひさしを押さえながら、呟く。


「そういう…ことか。やっぱり、こいつらが…」


 形を失った六体の無貌達。

 それは、それぞれ六人の若男女に姿を変えた。

 ほんのりと青い微光に彩られた姿が、彼らが生身の存在でないことを示している。


 そこには。

 行方不明になっていた六人の若者達が、霊体のまま立っていた。

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