第三章 森の姫 ~彭侯~
【十丁目】「お前、やっぱり嘘つきだ」
不思議なもので。
深山の空気に触れると、身体の奥が沸き立つ感覚があった。
古き昔に戻ったような、懐かしい気分になる。
人の世に「再び」触れて二十年。
久方ぶりに目覚め、発展した人間達の社会に、最初は大いに動揺したものだ。
乱立する石の塔は、きらびやかな看板でに闇夜を汚し、申し訳程度の広場にある木立や水溜りで、人はいきいきと過ごす。
霞に埋もれた深い緑の山々。
魚が群れて賑やかだった川。
空も、海も、
そして、世界を二分していた夜の闇も。
ほとんどが失われてしまった。
そして、思った。
(
かつて、人の身であった自分は、まだいい。
時の果てに、世界が変わっても、人は変わっていないと気付くことができるから。
だが、他の
変貌した世界を、どう受け入れるのだろう。
自分達の
その答えを見出すことができるのだろうか。
何よりも。
自分達が居た、あの時代にはもう立ち戻ることができないのだろうか。
「…未練、だな」
その思考に、
そもそも、立ち戻ったところで、自分にあるのは悔恨と
薄暮の深山は肌寒く、吐く息も
周囲には彼女一人のみ。
目の前には、残光に色を失いつつある深い森が広がっていた。
鳥も通わぬ深い山だが、辛うじて残った道をたどり、ここまでやって来た。
辺りには人家もなく、人の気配はない。
時たま気配を感じて仰ぎ見れば、ひらひらと飛ぶ
その中を、黒塚はビジネススーツにハイヒールといった、
この場所に至るまでの険峻の道筋を考えると、あり得ない服装だった。
「さて…報告ではこの辺りだったと思うが」
周囲を見回していた黒塚は、気配を感じて頭上に目をやる。
木々の間から辛うじて見える薄暗い空を、蝙蝠が舞っていた。
溜息をついて、視線を周囲に戻し、やおら右腕で頭上を払う黒塚。
その手には、先程上空を舞っていた蝙蝠が、つかまれていた。
音も無く背後から黒塚の首に迫った一匹の蝙蝠。
それを黒塚が捕らえたのである。
キー!キー!と耳障りな声で鳴く蝙蝠を放り出し、再び周囲を見回した。
「そのまま聞いて欲しい」
いるはずの相手に向けて、黒塚は続けた。
「私は、
静寂。
「今の出迎えについては無かったことにしよう。今日話したいのは、先日貴方が人間に加えた暴力行為についてだ」
静寂。
「法に触れる内容だったが、相手の人間も理解があってな。
静寂。
「なので、被害届は出さないと言ってくれている。しかし、今回のような奇跡はそうそう続かない」
…静寂。
黒塚は少し間を置いた。
「率直に言おう。私と共に来て欲しい。貴方が人間を理解できるよう、手伝いをしたいのだ」
気配。
背後の大樹を見上げた黒塚の目に、一人の小柄な少女が映った。
年のころは十代半ばだろうか。
黒髪を無造作に紐で結い、毛皮のような上着を着ている。
手には不釣り合いなまでに長い、旧式の猟銃を持っていた。
少女は歳に似合わない無表情な目で、黒塚を見下ろしている。可憐な顔立ちなのに、野の獣を思わせる殺気を発していた。
「帰って」
静かな、しかし強い意思を含んだ、頑かたくなな声。
深山の冷気が濃くなった気がした。
同時に、黒塚は、相手の姿に少し驚きを感じた。
「ほう…
妖怪“野鉄砲”…北国の深山幽谷に棲み、日暮れに通りかかる人間の視界を奪って、血を吸う妖怪である。
蝙蝠を操るとも言われており、これで目を塞ぐとも言われていた。
姿は定まらす、一説には狸や鼫(むささび)、モモンガのような獣ともされる。
視界を奪われるため、姿は滅多に見ることはかなわない妖怪で、永い時を渡ってきた黒塚も、実際に見たのは初めてだった。
黒塚は、害意が無いことを示すように微笑んだ。
「姿を見せてくれるとは、ありがたい。これで話しやすくなった」
「帰って」
しかし、少女…野鉄砲は、にべもなく繰り返す。
「…話だけでも聞いて欲しい。私は…」
「いらない」
野鉄砲は手の猟銃を構えた。
「お前、人の匂いがする。私、人間、好きじゃない」
引き金に指がかかる。
黒塚の目が、スゥッと細くなる。
「…気持ちは分からんでもない。だが、我々に理解を示す人間もいる。ならば、我々も彼らを理解する努力が必要なのだ」
静かに、言い聞かせるように黒塚は説得する。
嘘は言っていない。
実際に、人間社会は妖怪保護に動いている。
特別住民支援課の存在はその成果だ。
「お前、人間が好きか?」
「…好みはあるがな」
野鉄砲の問いに、黒塚はそう答えた。
が、
「嘘」
野鉄砲は感情を込めずに続けた。
「お前、血の匂いがする」
言葉が、刺さる。
黒塚の目に、鋭い光が宿った。
「鼻が良いことだ」
「…お前、人間殺したことあるな」
「否定はせん」
かつて“安達ヶ原の鬼婆”として、人の世を恐怖に陥れた存在だ。
人の命も、山ほど奪ってきた。
「何故、人間殺した?」
「私が…愚かだったからだろうな」
「違う」
野鉄砲は狙いを定めた。
「お前、やっぱり嘘つきだ」
そして。
引き金は引かれた。
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