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 皇帝の命は一時危ぶまれた。けれども、解毒と元々の頑健さ故か、一昼夜熱にうなされながらも、二日目の夜には復調した。

 ところが、少なくとも庭番の内では誰も心配していなかった皇妃の方が、傷が全て消えても目を覚まさなかった。

 息はしている。脈も弱々しいながら確かに有る。けれども目を覚まさない。こんなことは初めてであった。

 それ以後、一月以上も皇妃はそのまま眠りについていた。


 妾妃の葬儀の折に、本当に彼の娘は生きているのかと、宰相に囁いたのはフランドル伯である。宰相は訝しんだが、確たる証拠は何も無い。まして、妾妃の葬儀だというのに、皇妃が出て来なければ、共に襲われたとなればそう思うのも、また不自然ではない。

「生きて、いらっしゃるでしょう」

「天の御使いだから、とでも言うのか、また。本当にそうなら良いが、あの若造が気でも触れていないか心配でな」

 フランドル伯が向けた視線の先には皇帝が居る。いつもと変わらぬ紋章の無い黒衣のまま、泣いているルイーゼの縁者を見下ろしている。表情は判らない。

 妾妃としてびょうに収められる棺は小さく見える。心を天に還し、身体は廟の内で地に戻る。何処までが真実なのか、誰も知らない。

 祭祀の役は皇帝が務める。

「何を、仰っているのです、フランドル伯。陛下のお気は、貴方と同じ程度には正気でございましょう」

「言いおる」

 怖気づく様子も無く言い放った宰相に、フランドル伯もまた皮肉と共に笑みを浮かべた。

「まあ、そうであるなら安心だ。またお目にかかりたい。あの銀色の娘は、若造よりも面白い」

「口が過ぎますぞ、フランドル伯。このような場所で」

「仕方あるまい。あの狸も起きられぬようだし、これではまるで詰まらんのでな」

 笑いながら、おそらくはそれだけを確かめる為に来たのだろうフランドル伯は、式典が終わるよりも先にその場を去って行く。


 喪が明けるより前から、皇帝へ取成しを頼む為に、傍近くに仕える者たちへの取り次ぎが増えた。娘を妾妃として売り込む為にである。表立って名乗りを上げないのは、やはりアイネスブルクが怖いからだ。まるで出て来ぬ皇妃も、また同じである。やはり妬心から皇妃が妾妃を害したのでは、という噂も聞かれた。

 事件の後一月ほど経ってから、中央宮の庭に侵入して、皇妃を害そうとした下手人は捕えられた。

 皇妃もようやく目を覚ました。

 起き上がった皇妃は、何処も変わることが無かった。傷も、一つも残っていない。身体の調子もいつもの通りであった。その銀の髪も、金と青の瞳も、損なわれていない。

 目を覚ましたときに居合わせたのは、皇帝であった。皇妃は皇帝に、妾妃の安否を尋ねたという。

 どんな会話がされたのか、具体的には知らない。ただ、その後も、皇妃は何も変わらずに居た。喪の最中でも、変わらぬ白の簡素な衣装のまま。

 一度だけ、皇妃は皇家の廟へと足を向けた。

 古い建築物にはよくある意匠だ。丸い天井の頂点はわずかに開いていて、そこから光が漏れている。細かに開けられた窓にも、翼の意匠が凝らされている。けれども、色のついた硝子を通す陽光は鈍い。地は細工を凝らしたタイルで覆われていて、棺が埋められた場所には各々の石版に標が刻まれている。

 一つ、入口に近い真新しい石版が増えた場所に、皇妃は立った。皇妃は、しばらくそれを見つめていた。

 それだけだった。

 振り向いた皇妃は、その整った顔に、変わらぬ微笑を湛えていた。

「行く」

「はい、カノンさま」

 外に出て、ふと皇妃が空を見た。視線を追ってみても何も見えない。青の空があるばかりで、雲も見えない。確かめるよりも先に、皇妃はただ歩いていく。エリザもまたその後に続いた。

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カノンとルイーゼ 高野 圭 @veritas

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