6
「他愛の無い」
些か、ハンスマイヤーは拍子抜けした。フランドルの館にも同じように春が訪れている。その春が誘ったかのように、一通の手紙も彼の手元に届いていた。
節張った手に弄ばれる手紙には、アイネスブルクの封印がされていた。中身はどうやら彼の筋書きに沿ったものらしい。幾重にもつなげた糸は、庭番の目を掻い潜ってルイーゼへと届いていた。
あの皇妃は感づいた。然も有ろう。けれども、未だ事の優位はハンスマイヤーにある。
庭番により途中で切られた糸は、ルイーゼ自身の手で繋がれた。封印を些か乱雑に剥がして中を
ハンスマイヤーに届いた報せは、重なった偶然が駒を進めたことを示している。
ただ、あれだけで動いてしまうとは、物足りない。如何にあの若造に目が眩んでいたとしても、もう少し楽しませてくれると思っていたのだが。
はっきりと、現皇帝は嫌いだ。先帝が居なくなった虚無感は何者にも替えがたい。
昔から、あの澄まし込んだ顔が嫌いであった。その背を襲える場所に有りながら、ただ安住だけを求めているような態度は全く腹が立った。今も、無理にその図体を玉座に押し込めているようにしか見えぬ。それしか出来ぬのなら嘲笑の
ハンスマイヤー自身が時宜には味方されなかっただけに尚更である。
その点、先帝には胸が透く思いがした。全てを併呑しようとする野心はハンスマイヤー好みであった。斃れたときの戦場に居られなかったのは残念でならない。それが出来ていたなら、あの若造をも始末して、帝国王国、共に乱世の内へと叩き込んだものを。
ただ、詰まらぬ若造とも思っていたが、意外なところで女を見る目は有ったようである。もっとも、あんな妬心の欠片も無い女は女と呼べるか疑わしい。どんな風に啼くのかには興味も無いでは無いが、天へ還ってもらうことにする。その風説のとおりにだ。
上手くいくかなどは知らない。ただ、アイネスブルクの娘の背を押せば、如何様にでも転がっていく。安定よりも安寧よりも、ただ争乱をハンスマイヤーは好んでいる。
***
ここ数日、春に吹く風は黙り込んだままであった。もうすぐ春も終わる。
いつ兆候があってもおかしくはない。
皇帝陛下とは、幾度か使者と手紙が往復していた。少なくとも、皇帝陛下は何事も無かったかのようであった。実際、あの方にとってはそうなのかもしれなかった。
直接に会う気にはなれなかった。
その分だけ手紙を書いてみたのだ。返事は思ったよりも届くのが速かった。
一言だって、責められるような言葉は無かった。気遣う言葉は、やはり義務から発せられているのか、そうでないのか、武骨にも見える正確な文字からは判断がつかなかった。
フランドル伯の手紙はあれ以来未だ着ていない。捨ててしまった手紙に真実は在ったのだろう。あの時、皇妃の侍女は一つ事実を肯定した。
全てが事実であったなら、もう生まれて来るこの子を守るのは自身以外に無い。
祖父は未だ病の床にある。容体は悪化こそしていないが、復調も見られない。知らせて来たのは一番上の兄である。兄嫁もこちらに来てくれていた。兄の知らせは、もう一つ、おかしなことを教えてくれた。
帝都より追放されたエルマーは、捕らわれた際に、あの皇妃付きの侍女に取り押さえられたらしい。
皇妃に従う侍女は、ビスマルク家に仕えていた者らしいから、彼女もまた武術を嗜んでいたのでは、というのが彼らの意見であった。
ルイーゼの考えは違った。どうやら、皇妃の周りには本当に庭番が居る。あの折、陛下がそこに居たのでなければ、彼女の手にかかっていたのかもしれない。
いっそ、皇帝陛下に全てを打ち明けようかと幾度考えたか知れない。
だが、そんなことをしては皇妃が何をしてくるかまるで分からなかった。皇帝陛下まで庭番の手に掛かるようなことになっては。
「ルイーゼ様、こちらを」
侍女が一人、手紙と何か厳重に包まれた小箱のようなものを渡して来た。
「これは?」
「少々早いですが、祝いの品でございますと……」
侍女がそう伝えて来て、一礼した。なるほど、フランドル伯からのものだろう。
***
慶事が続いている。皇帝の誕生日が過ぎて、直後に妾妃は無事に皇子を出産した。恩赦がされ、休戦中である王国からも祝いは届いた。また、南部商業連合の各国、砂漠の民からもだ。
そんな喧騒から離れて、ひっそりと皇妃は居る。
エリザの目には、皇帝よりも嬉しそうに映っている。それが為に、却って皇帝の方が複雑な表情をしていた。
あの日、皇妃は妾妃に詫びる手紙を届けさせている。返って来た手紙には、違和感を覚えなかったらしい。ただ、以降の行き来も無かった。妾妃の生み月が近づいていたから仕方の無いことかもしれない。それも、疑うエリザには胡乱に映った。皇妃が何を視ているのか、エリザにも判らない場合は多々有って、それが無性に歯がゆく感じた。
あのときの妾妃の様子を見れば、妾妃が全てを諦めて、大人しく皇妃の下に在ると選択出来るかと思う。無事に子が生まれたのだから、尚更である。
彼の子どもは帝位継承者になる。
アイネスブルク侯はともかくも、その下に居る父親を始め、彼女の縁者も黙っていないだろうことは予想出来る。まして、今、侯の体調は悪いままだ。簡単にそんなものに乗る妾妃とは思えないが、嫉妬は人を狂わす。
エリザは皇妃を見た。嫉妬には縁が無さそうな様子である。妾妃もその子も無事であることを喜び、祝いの品を選んでいる。唇からは明るい歌が零れている。
自身のものはついぞ選んだことが無い。
そっと気付かれぬよう息を吐く。フランドル伯の台詞ではないが、もっと自身のことを考えて欲しい。飾ったところで何が変わるわけでもないし、重いからと言う。
感情の起伏の無さは、そういうところにも表れる。
皇妃の冠も称号も、彼女が欲しがったわけではないのだ。だから、皇帝もそれ以上には与えない。負うべき責任は皇帝が被る。皇妃もそれを知っているから、『皇妃』を振りかざすことなど絶対にしない。例外は、クラウスに対する依頼だけだ。
「カノンさま」
「どうした、エリザ」
いつもよりも柔らかい微笑は、エリザには殊更眩しく見えた。ふと、皇帝にも、そう見えているのだろうかとも思った。
薔薇の宮には祝いの品が続々と届けられている。来客は制限されていた。無事に済んだとはいえ、初産であったから、ルイーゼの消耗も大きかった。それに、あまり見知らぬ者を近づけたくなかった。
けれども、完全にともいかない。例えば、皇子の世話役には無論、中央宮より女官が派遣されている。乳母だけは後ほど決めたいと通した。自分で乳を含ませたいと前々から伝えてあったし、その言葉は意外なほどにすんなり通っていた。
兄嫁に
呆れられる程に、赤子の傍に居る。寝台か、そうでなければ赤子を抱いているか。当たり前だろうとも思う。けれども、乳を含ませるごとに、確かに優越を確認している。
同じくらい、赤子が生きていることに安堵している。
何も知らずに乳をねだって泣いて、そうでないときは眠っている。誰に似ているともまだ見えない。皇帝陛下に、似ていて欲しいと思ったけれど。
父親である皇帝陛下は、ときおり、夕刻の辺りにふらりと来ては赤子の様子を見て戻って行く。毎日ではないが、以前に比べれば、頻度は高い。この二ヶ月ほどで周辺がまた落ち着き始めたからだろうとも思う。けれども、そうされるのは義務でないと信じられたから、やはり嬉しかった。
「名前は、如何いたしましょうか」
名は、血縁の年長者に付けてもらうことが多い。あらかじめ決めている場合も勿論ある。
ルイーゼは生まれるまではこの子としか呼んでいなかった。
皇帝陛下は、そう言われて少し驚いたようにも見えた。気の所為かもしれず、確かめる術も無かった。ただ、考え込むような風であったから、やはり驚いたのかもしれない。
「陛下のお名前は、如何なさったのでしょうか」
「さて。訊く前に亡くなってしまったから」
話題を接ごうとして失敗した。しかし、皇帝陛下の目には少なくとも怒りは浮かんでいなかった。
「リヒャルトとしようか」
告げられた名は、帝国と王国の元となった国を興したとされている者の名であった。
ふと、祝いの品の中に混ざった小壺を思い浮かべた。使うまでは安心出来ない。そうして、そうするのもやはり自身でと決めていた。
***
皇子誕生の日より一月と半分は祝いのままに何事も無く過ぎた。
季節は、春の終わりから確実に夏へと移っている。今年は少しばかり暑くなりそうだ。庭の緑は濃くなり、それだけ色とりどりの花びらと、緑色の対比が著しい。時折優しく降る雨は、一層に瑞々しく見せてくれる。
中央宮では、リヒャルトと名づけられた彼の皇子の話で持ちきりであった。妾妃が自身で乳を含ませ、慈しんでいることもやはり評判であった。貴族では珍しいことでもある。
目立った問題も無い。皇子は病の様子も無く、実に元気であるようだし、妾妃も産後の肥立ちも順調で寝室以外に出る時間も増えたようだ。
薔薇の宮は、その名を冠する薔薇もまた今の時期は見頃になる。だから、最近の話題は本当に薔薇一色という風情でもあった。
強いてエリザが挙げるとすれば、大人しいままのフランドル伯の動向である。フランドル伯は、妾妃に祝いの品を贈っていたらしい。品が何かまでは分からない。薔薇の宮では、祝いの品を見るよりも、皇子を看ることに忙しい。
けれども、それだけだ。庭番が忍んで目録を検めてみても、不審なものは見当たらないという。
妾妃が時折、礼状を書き始めたということである。
皇妃は、フランドル伯のことを口にしなかった。
ただ、皇妃のこともエリザは気になった。祝いの品を贈ってから、また様子がわずかに変わったように見えている。時折、何を見ているのか判らぬこともある。かといって、思い悩んでいるとも違う。クラウスに何をか頼むわけでもない。表情はいつもと変わらず穏やかなものである。
皇帝の様子が違うのかとも考えたが、そんなことも無い。少なくとも、傍目に見える様子は変わることも無く、祝いを述べに来た者たちとの謁見が多少忙しいと見えただけだ。
皇妃は、何か隠しているのか。けれども、何の為かエリザには判じかねた。本当にそうなのかも分からなかった。
外庭に行くと言われたのは、そんな折である。
その日は、空は青く冴えていて、珍しく雲一つも見当たらなかった。太陽は照り過ぎるということも無く皇妃の瞳と同じように、穏やかな金色に見えた。
手早く茶の用意をして、他の女官……庭番であるのだが、彼女らに菓子の用意をするよう言伝て行く。二歩分ほど前を歩く皇妃は、いつもの通りの立ち姿だ。簡素な衣装の裾も乱れることは無い。いつも通りの姿であるはずなのに、何処か不安を覚えた。
中央宮から出て、今日は薔薇の宮の方も回って行く。立ち寄るのかとも思ったが、そうでもない。薔薇を摘む為だろう、外に出ていたらしい侍女が気付いたから挨拶を交わす。
毎年のことながら、見事に咲く薔薇の生け垣と、壁の細工に這うように伝って行く薔薇は目を奪う。
挨拶も、至極簡単なものだった。侍女に何も不審な点はなく、妾妃様も殿下も落ち着いて来たという旨を素直に話して来た。自慢気であるのは判ったが、咎める程のことでもない。皇妃も、また来客等が落ち着いたら寄らせてもらうと伝えて目的の庭へと向う。
無論、皇妃もそのやりとりで機嫌を損ねた風でも無い。
やはり何事も無いだろうかとエリザは思いなおした。疑心もやはり目を曇らせる。
庭の中でも外れにあたる、森への通路に程近い、人目も着かぬような場所に皇妃は目的を定めていたようだ。卓も無い。整えられた芝に敷布を敷くのもいつもの通りだ。
そこで、皇妃はふと気付いたように言った。
「エリザ。すまない。本を、持って来てもらえないだろうか」
「本でございますか。何を」
「昨日、借りて来てもらった本の続きを。先に、借りてから、来ようと思っていたのだが」
それはエリザも覚えていた。お
一礼してアカデメイアへと向う。外庭には庭番も、庭番の頭も居る。皇妃の前に出て来ることは無いが、かといって何事が有るわけでもない。
少なくとも、エリザは油断していた。だから、後悔した。同時に、何も言ってくれなかった皇妃に憤りと悲しさを覚えた。
ふと、カノンは青い空を見上げた。中央宮の象牙色の壁と、視界に入る立ち並んだ背の高い庭木の緑とが混ざる。中央宮は窓も多いが、裏に近いこの辺りに居る者はほとんど居ない。裏手にあるのは、例えば皇妃の生活に使うものが大半である。
だから、ここで何をかしていても、誰も咎めることは無い。庭を見る者たちだって、ここまで来ることは絶対に無い。茶の為の卓も無いし、迷路のようにもなっているこの辺りに誰か不案内な者は来なかった。
すぐに来るだろうと思っていた。そうしたいことも感じていた。それで気が済むならそれで良いと思った。
常では難しい。エリザがカノンの傍を離れることは滅多に無い。エリザは例え庭番の頭の命令であっても、カノンを必ず優先するだろう。
それは避けたい。
悪いことをするのではない。そうしたところで、カノン自身が何も変わるわけでない。
ルイーゼは、変わるだろうか。
母となったルイーゼは何を信じたのだろう。否、そうなる前から何か信じていたのに、カノンには見えなかった。
そうでもない。見えていたけれども、意味が解らなかった。アゼルヴァイドに訊くことも出来なかった。何せ、アゼルヴァイドに見せられるものではない。説明をしようにも、その為の言葉をカノンは知らなかった。
解るのは、ルイーゼはアゼルヴァイドのことが好きで、だから、カノンが邪魔であるという一事だ。そういう理解の仕方をして、カノンは今、居る。
けれども、ルイーゼにカノンの排斥は出来ない。それが出来るのはアゼルヴァイドだけだ。それを、ルイーゼに伝えるべきかカノンは迷っていた。これが、正しいかもカノンは判らなかった。
強く風が吹いて、自身の銀色の髪が視界に踊る。
直す。花弁も香りも庭に舞う。
純銀の色らしい髪は、人とは違う。伸びることは無い。肩の辺りよりもやや上で、横の辺りの房だけが少し長い。手指は人と変わらない。身体も、そうだと思う。ただ、こちらは他の者の身体を、アゼルヴァイド以外の身体を見たことが無いが。
アゼルヴァイドは男だから、女であるカノンとは違う。
人の女とも違う。造りは似ているらしい。けれども人の子は生めない。必要は無いのに、人に似ているのが不思議であるし、もしかしたら、人の子も生めるかもしれない。そうも言われた。
正直に、言われたときにはそれがどういう問題か解らないで居た。少なくとも、アゼルヴァイドが問題にしなかったからだ。カノン自身はそれが常のことであったから、そんなものなのかと思っただけだ。
子を生めないのが問題となるのを知ったのは、婚姻の話が出たときである。皇帝となる者に子が無いのはいけない。素性が分からないのも駄目だという。人の世間は難しい。
けれども、カノンを妻にすると言ったのはアゼルヴァイドだ。受け入れたのはカノンだ。皇妃になれと言われたわけではない。アゼルヴァイドは一度もそうは言わなかった。
さやさやと今度は優しく風が吹いた。
さくさくと足早に、芝を歩く音がした。少し、戸惑う音もした。しばらく行きつ戻りつして、ようやくカノンの視界に、思った通りにルイーゼが現れた。ちょうど、庭木と生垣の内側だ。
ルイーゼは、やはり落ち着いていた。長い、真黒い髪を邪魔にならぬようにきちんとまとめている。今は、以前に見た衣装でなく、簡単な、たぶん、乳を含ませるのに楽なように出来た衣装なのだろう。手籠を一つ持っている。
真黒い瞳には、わずかな笑み。色の濃い赤の唇にも同じように浮かんでいる。
応えて、カノンも笑う。ルイーゼは、可愛らしい、娘らしい娘なのだろう。
だから、出来るだけ速く済ませて、エリザが戻るより前に宮へと戻って欲しかった。それが、ルイーゼの為だからだ。
今だけは、誰も居ない。
皇妃が通ったと聞いて、急ぎ薔薇の宮から追った。ご挨拶したいからと言えば、誰も疑わなかった。侍女も乳母も、女官だってそうだ。皇妃が一人しか女官を連れていないから、妾妃が連れ立って行かずとも不自然ではない。皇妃もその方が良いのだと思われる。
ただ、何とか追いついたときに、皇妃だけがそこに居ると思っていなかった。
あのエリザという女官はどうしたのだろう。
「エリザなら、今、本を借りに行ってもらった」
顔に出たのか、何も言わずとも皇妃はそう言った。その顔には笑みが浮かんだままだ。空々しい笑みは、以前とまるで変わらない。
あまりにも、変わっていない。
「なあ、ルイーゼ。そうするなら、ここが良い。首や頭では滑ってしまうだろうから」
示されたのは左の胸元。心の臓の辺り。簡素な衣装の向こう、白い肌の向こうで脈打っているはずの。
言われたルイーゼは、背筋が粟立った。
「何を、仰っているのです」
「そう、したいのだろう。違うのか」
「違いません。けど、何故、あなたはそんな風に」
「わたしは、ルイーゼに感謝をしているから。一度だけならルイーゼのしたいようにして良い」
「一度、って。こんなのは一度だけでしょう。分かっているというなら、どうしてそうなのです? おかしいではありませんか、あなたは」
高くなりそうな声を抑える。何を知っているのか。何を見ているのか。おかしいではないか。そうされれば、死ぬなど分かり切ったことではないか。
「感謝なんて要らない。どうしてそんなことを言うの。教えて。何でそうして良いと思うの。あの方のことも、どうでも良いの」
言葉を発すれば、ただ溢れて来る。ぶつけられなかった言葉も、全て。
「一片だって、あの方のことを想っているの? どうして何もしないで居られるの? あの方を、変えて、弄んで、楽しい?」
皇妃は、応えなかった。
「答えてよ!」
「その答えは、全部アゼルヴァイドだけのものだ。だから、言わない」
短剣を、取り出す。使い方など知らない。ただ、自身には触れないように。刃は全て皇妃に。
座り込んでいた皇妃は、わずかも逃げようとしなかった。笑っていたから、それも苛立った。その顔も嫌なのだ。美しい顔も、まるでヒトと違う瞳も。声も。
全て、あの方が見ているから。
刃は、皇妃の示した場所に喰い込んだ。そうして、すんなりと飲みこんだ。引き抜いた。流れる血は赤かった。人と同じように。
「ああ、忘れていた」
「何を」
「痛み。ここしばらくは、ずっと、痛いこと、無かったから」
言う声はか細い。まだ生きている。けれども、刃には毒も塗ってある。伯から祝いと共に渡されていたもの。
「はやく、エリザが戻る、前に、戻って」
何の心配をしている。庭番が、来る前に?
珊瑚の唇から、赤い血が零れる。
「どうして!」
抜いた刃でその顔を撫ぜる。白い顔に赤い線が引かれる。整った顔に、傷が残るように。
皇妃が倒れる。敷布が血で染まる。
「どうして、どうしてよ!」
他人の事ばかりを想うなら、どうしてそれをあの方に向けなかった。
頭蓋に滑るのか、線ばかりが引かれる。瞳は閉じられている。二度と開くまい。
身体に喰いこませる。血が、そこから溢れる。初めほどの勢いは無い。白い簡素な衣装が赤く染まる。ルイーゼの手も染まっている。
「どうして」
ルイーゼは、自身が泣いていることに気付かなかった。それも、皇妃だけは知っていた。
足早に
他にも、資料を探す者たちや、いくつかある入口から入って来る者たちもある。
それを見ながら、目当ての本を探す。果たして、すぐに見つかった。踵を返しそうとしたところで足元から声が掛かった。聞き慣れた声である。
「エリザか」
「陛下」
悠然と通路へ向けて上がって来る皇帝は、いつもと変わらず一人であった。進捗の確認と、本人の興味も有るのだろう。エリザは一礼して道を開ける。通り過ぎるかと思えば、更に声が掛かった。
「カノンは」
「外庭に、お出でになっております」
「余も、行こう」
「かしこまりまして」
礼を返して、先に立って歩き出す。けれども、何故だか胸が騒いだ。
こんなことは初めてだった。思えば、皇妃が、うっかりと忘れていたなど有ったろうか?
「陛下。急ぎます」
振り返ることはしなかった。皇帝の応えも無かったが、背後の気配は消えることも無かった。
学術院から、中央宮を突っ切るように庭の外れへと抜ける路を行く。迷路のようになっている中央宮はそういうことも可能だった。慣れぬ者は、知らぬ間に外に出てしまうことすらあるという。
エリザは、半ば駆けている。皇帝も咎めなかった。まして、誰かに見咎められることも無い。
外庭の、その場所が目に入ったとき、エリザは我が目と耳とを、疑うことになった。
「どうして」
泣きながら刃を振る彼女は、エリザに、皇帝に気付いていなかった。
「何をしている!」
わずかな間が空き、叫んだのは皇帝であった。その声はよく響いた。しかし、周りには他の誰の姿も見えない。庭番はとも思ったが、そこで思い出す。命令は生きている。
「ルイーゼに何事も無いように」と皇妃から発せられた命令は、事此処に至ってすら生きている。妾妃自身がそうしても生きている。
エリザが瞬きをする間に、皇帝は身を翻し、妾妃の髪を掴んで皇妃から引き離した。惰性のままに振られた妾妃の手の中の刃が、皇帝の左手に傷をつけたのがエリザにも見て取れた。
咄嗟に、エリザも叫び、動いた。
「いけません、皇帝陛下!」
そう呼んだことで、アゼルヴァイドはわずかに動きを止めた。
妾妃を掴んだ腕を留めるべく、抑えるように動く。
「何を」
「いけません! お放しください!」
勢いを失くした妾妃は、そのまま地に落ちる。立つことは出来ずに座り込んで、呆然としたまま皇帝を見上げている。涙もまた止まったようである。
「妃殿下の命でございます。妾妃様を傷つけてはならぬと」
「何だと」
皇帝が皇妃を見返しても、何の反応も無い。赤く染まった白は戻ることは無い。皇帝の唇は
「カノン、カノン!」
最早、妾妃など目に入っていない。顔も裂け、肉が見える皇妃に
「何故」
呟いたのはルイーゼであった。呟いたと同時に叫んでもいた。多分、もっと早くにそうするべきだったのだ。
「どうしてですか! どうして、アゼルヴァイド様はそんな女に縛られているのです!」
わずかに、風が凪いだ。静かなまま、アゼルヴァイドはルイーゼを見た。多分、初めてそうした。
「そうだ。確かに、私はこの娘に縛られている」
「もう、良いではありませんか。そんな女に縛られずとも」
ルイーゼは懇願していた。哀願するその表情は、やはりただの娘であった。女でもあったかもしれない。エリザが傍に居なければ、アゼルヴァイドの大きな身体に縋っていただろう。そうしたいのだろう。
「私が望んだことだ。私には、カノンが必要なのだ」
確かに、その言葉はルイーゼに向けられた。そうして、確かに届いた。ルイーゼの表情が変わった。真黒い瞳はそれだけが虚ろになったように見えた。その先にルイーゼが何を見たのかは、分からなかった。
アゼルヴァイドはカノンに向き直る。抱き上げようとして、有ろうことか体勢を崩した。
「陛下!?」
「毒、塗ったの。あの人が、ちゃんと、居なくなるように」
「何ですって」
「だって、あの人が、居なければ、また、アゼルヴァイド様は」
刃もまた地に転がっている。毒の跡など分からない。分かるのは、赤い皇妃の血だけだ。
「陛下、手を」
「カノンを、」
「いけません、今は御身を!」
叫んで、ようやくに近くに居たのだろう庭番たちが現れる。エリザがアゼルヴァイドを押し留め、傷のついていた左手側の腕を縛り上げる。間に合うかは分からない。既に回っているかもしれない。
朦朧とし始めたのか、瞳の焦点が定まっていない。それでも、倒れている娘を抱き上げようとする。それをやはり数人の庭番で押し留め、無理やり担ぎあげた。
「薔薇の宮にまだ残っているかもしれません」
誰かが
エリザは、血に濡れた刃を拾い上げた。
ルイーゼは、それを見上げていた。柄を向けられて判らぬままに受け取る。
「お気持ちは、よく分かります」
「分かって、くれる?」
「はい。とても」
ルイーゼは空虚な笑みを浮かべている。乱れた髪を直すこともしない。だらりと下がった髪も乱れた服で居るのも、彼女には既にどうでも良いのだろう。
「嬉しい」
「カノンさまも、きっと分かっていらっしゃいましたよ」
「そう、かしら」
「そうです。だから、アゼルヴァイド様が、あなたのことなんてまるで見ていないと、言えなかったのだから」
「……そうなのね。とても、優しいだけなのね」
「ええ。とても」
「やっぱり、嫌い」
ルイーゼは、今度はにこりと心底笑んでいた。
エリザは笑わなかった。笑えなかった。ただ、ルイーゼがすることを見ていた。
笑みを浮かべたルイーゼは、刃を上に向ける。エリザは、庭番としては留めるべきであった。皇妃が知ったならきっと悲しむ。
ルイーゼがアゼルヴァイドの子を生んだのを本当に喜んでいたのはカノンだ。最初に気付いたのも、きっと彼女だと思った。だから、ルイーゼのしたことは赦せなかった。
エリザの好きなものを傷つけたのが赦せなかった。何も分かろうとせずに、子ども染みたことをしたのが赦せなかった。
その気持ちも、よく分かっていた。理解してはいけないものでもあった。
ルイーゼは、自身の喉に刃を突き立てた。くうと唇から音が漏れてエリザに届く。誰にも支えられぬ身体は地に伏せる。わずかに震えて、ルイーゼは息絶えた。
エリザは、カノンを見た。皇帝がしていたようにその傍らに膝をつく。敷布は赤いまま。黒くなるようには見えず、鮮やかなままである。簡素な衣装もそうだ。鮮やかな紅に染まったまま。
整った人形のような顔からは既に血が止まり、傷も消えている。動いていなかった胸がわずかに動き出す。唇と、通った鼻筋とに手を当てれば、微かな吐息が当たった。
「カノンさま」
呼びかけても返事は無い。
影が差したと思えば、庭番の頭であるクラウスが立っていた。
襤褸のようになった外套を羽織り、ざんばらの真白い髪とわずかに皺の刻まれた、しかし年齢の判らない顔には、今はおどけた様子は浮かんでいない。だから、エリザは驚いた。
「仕方の無いお人だ」
薄い唇は引き結ばれたまま言葉を発した。
「うぬが戻る前にご自身が起き上がれると思ったのだろうな」
失礼、と言うが速いが、軽々と皇妃の身体を抱き上げる。
「如何、いたしましょう」
「誰ぞ仕立てあげる。今、皇子の母が妃殿下を害したと触れ回るわけにはいかぬ。無論、こうしたこともだ」
「かしこまりまして」
陽の高い内に、近衛が帝都中を駆けることになるだろう。居もしない皇妃と妾妃を害した者を捜す為に。哀しいかな、未だ祝いに沸く最中のことである。緩んだ警備を潜ったとなれば、信憑性も多少は増すだろうか。路は、いくつか塞がれてしまうかもしれない。
今一度、エリザはルイーゼの骸を見下ろした。
乱れた髪に引っかかっていたのは、薔薇の髪飾りである。結っていた髪を留めていたのだろう。何を思ってこれを着けていたのか。簡便な衣装とは至極不釣り合いに見える。確か、胸飾りと揃いのものだ。宴の折に皇帝が作らせていた物のはずだ。黒い髪に紅玉がよく映えて美しい。
思い違いをしていたのは、アゼルヴァイドも同じであろう。ルイーゼがこんなことをする娘だと微塵も思っていなかっただろうから。信じていたと言って良い。
だから、こんな慣れぬことをしたのだろう。彼なりの謝罪と礼であったろうに。
うつ伏せていた身体を仰向けに直してやる。握っている短剣を外さなくてはいけない。真黒い瞳が未だ笑うように開いていたから、エリザはそっと瞼を閉じてやった。
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