5

 皇帝が騎士団を率いて小ヴュステに向ってから、およそ二ヶ月が経過した。冬の終わりが近づく頃に、やはり皇帝を始め、皆が無事に帰還した。

 持ち帰ったのは、砂漠の民との新たな約条と、長く謎であった砂漠の兵器の技術。そうして留学という名目の人質が幾人かである。何故それが急に成ったかの詳細はのちほど文書で公表するという旨が通知された。

 同時に、学術院アカデメイア……大学と大図書館を兼ねている機関の学者、及び帝都の職人たちにも触れが出されている。

 こと、中央宮内は忙しなかった。

 それに加え、帝都のやや短い冬がじきに終わることもあり、そういった変わり目はやはり何処か浮き足だつ。

 しかし、その浮ついた空気の中、一つ妙な噂が走っていた。

 曰く、妾妃の身籠っている子どもは皇帝の子では無いという。この噂が妙だと言われる所以ゆえんは、皇妃がそう公言しているとされていることであった。

 あのように、皇帝が妾妃の元に足繁く通っていたのにその種でないことなど有るのかという具合に語り草になった。まして誰とも会わぬ皇妃が、誰にそんなことを言ったのかと笑う者も多かった。

 更に、その噂を後から追うように皇妃が嫉妬のあまりに錯乱しているのだとも広がった。しかしながら、宴からあまり間が無かった為か、翼の民が錯乱などするものかと可笑おかしな方向に否定された。

 一連の流れをやはり笑ったのは、まず皇帝であった。

「残念ながら、そんな娘ではないな」

 この台詞に、宰相も頷いた。女官長は噂の為に辟易していたが、おおよそ若い女官の間ではこの手の噂が蔓延はびこるのも已むを得まい。

 他の主だった家臣たちも、さすがに噂に追従する者などいなかった。更に下の者たちも同様で、半信半疑ということはあっても、表立ってそんなことを言う者は居なかったのである。

 しかし、飛びついた者も在った。あろうことか、アイネスブルクの三男である。

 エルマー・アイネスブルクという。今年で二十二となるが、未だに婚姻もしていない。武勇を頼みにしている節はあるが、残念ながらそれが発揮されたことはなく、アイネスブルクの三兄弟の中でも殊更評判は悪かった。ルイーゼも、このすぐ上の兄を好きではなかった。思慮が浅く、血の気も多く、自尊心も大きすぎる。

 国境近くの、アイネスブルクからも近いシャンブルク騎士団に配されるという話も有ったが、いつの間にか立ち消えた。

 エルマー自身は花形とも言える中央騎士団に所属することを望んでいた。ルイーゼに推挙を頼む便りも送られて来ていた。しかし、ルイーゼはこれをやんわりと断っている。

 エルマーは諦めなかった。

 しかも、父親はこの出来の悪い三男を兄弟の内では一番愛していた。コンラートが弱ってしまっている昨今、ルイーゼの助けとする為に、また、エルマー自身の望みを叶えるべく、帝都に送り出していたのである。

 この二ヶ月余りをそれ以前に比べればずいぶんと平穏に過ごしていたルイーゼには青天の霹靂へきれきとも言えた。



 薔薇の宮では粛々と準備が進められていた。赤子の為の品も遺漏無く整えられていく。宮は十分な広さであったし、ルイーゼが移って来てから一年と経たずに懐妊したこともあり、今はそれ以上の変化を好まなかったのである。

 目立つようになった腹の中、赤子は実に順調に育っていた。よく動く元気な子だ。

 それにつられてか、あるいは別の要因か。噂好きであった侍女を遠ざけたのも良かったのかもしれない。とかくルイーゼは穏やかに日を過ごしていた。

 エルマーが薔薇の宮を訪れたのは、そんな折、よく晴れた日の午後のことであった。

 見栄えは悪くはない。体格は良く、長めの黒髪を緩く束ねて紺の生地の洒落た衣装で身を包み、自信ありげな風でいた。ただ、大きな瞳と厚い唇は見る者に何処か軽薄な印象を与えもする。教養を軽んじるところが、目に出ているのだろうか。連れている二人の侍従も同様であった。今は、別の間に控えている。

「エルマー兄様。来ていらしてもお相手は難しいと申しましたのに」

「何、構うことは無い。ただ、可愛い妹の顔を見に来ただけなのだ。宴の折には留守居であったしな」

 根は単純な兄である。そういう言葉は心からのもので、疑う余地は無い。

「それに、噂の皇妃にも会ってみようと思ってな」

 しかし、続いた言葉にルイーゼは一瞬だけ言葉を忘れた。驚いたのである。妾妃の兄が皇妃に拝謁を願うこと、それ自体は何もおかしなことはないというのに。

 実際、エルマーもそう言った。むしろ、ルイーゼが驚いたことを不思議がった。

「何、誰にも会わないと言うが、俺が行く分には断るまいよ。父上が謁を求めなかったのが不思議なくらいだ」

 それは、父が皇妃を取るに足りないとしてわざわざ会うことも無いとしたからだ。会おうと思っても会えないのではないか、とはルイーゼも言わなかった。皇妃はルイーゼには面会したのだし、招待にも応えた。

「美しいと言われれば見たくもなるさ。宴の最中に躍り出たとも聞いたし、陛下は娼婦の類でも皇妃に就けたのかな」

「兄様、滅多なことは」

 ルイーゼも、それを考えなかったわけではない。だが、茶会の折に、愛し合うとは何だと訊き返した皇妃は、確かに何も解っていなかった。

 皇妃は確かにそう言った。

「別に良いだろうが。子が生まれればおまえを皇妃とするに決まってる。大方、袖にしたと思った女が縋って来て、どうにもならなくなったのだろうさ」

「まさか」

「大体、婚姻していた、と発表されているのだぞ。結婚の儀も無く、戴冠も無しだ。誰にも見せられぬような者と思う方が妥当ではないか」

 もっともらしく聞こえても、賛同するわけにはいかない。頷けない部分は多々ある。

 けれども、その理由の何と薄弱なことか。ルイーゼは思いながら、息を吐いた。

「何故、誰もはきと陛下に申し上げないのか。それも不思議でならんわ」

 フランドル伯は反対した。祖父は反対はしなかった。宰相を始め、他の大臣はどうだったのか。確か、宰相も苦言を呈したのではなかったか。

「アイネスブルクの名を、過信してはいけません、兄様」

 中央騎士団を始め、各地の騎士団は、今は家名だけでなく、実力の有る者が採用されて地位を上っていくと聞いている。先々帝の時分、ビスマルク将軍の頃からそうなったとも。

 宮廷内でも、また同じことだ。

「過信も何も、無視は出来まい。それこそおまえも居ることだ」

「お止めください。何か有っては困ります」

「皇妃は何も出来ぬだろう。陛下とても離縁するに足る理由が無いからそうしたのだろうし、いっそ手討ちにしてしまった方が早かったのではないかなあ」

「兄様」

 確かに、皇妃に味方らしい味方は無い。ルントシュテット家は名目上は皇妃を出すことになったけれども、アイネスブルクに対するだけの力など無い。他の貴族も同様で、対抗することの出来るのはフランドル伯だけだが、これはあからさまに皇妃を嫌っている。

 皇帝陛下は、少なくともルイーゼには、皇妃への心が解らない。ただ、離縁するなどとも一言だって言わない。ルイーゼへの心も見えない。否、気遣いは間違いなくされている。

 それにすがって良いのかと思い悩んでいるのは自身である。

「何、まさか陛下に代わってなど、そんな大それたことはすまいよ」

「そんなことは当然です。ここ以外の場所では、そのようなことを口に出していらっしゃいませんね? それこそ陛下の耳に入っては」

「何だ、おまえまで皇妃を怖がるのか?」

「怖がってなど。そうでなくて」

「離縁したがっていると噂になるほどのことだろう? 機を見ているとしか思えん。それに、皇妃には明らかな欠陥もあるではないか。それでいて嫉妬深いとは」

 ルイーゼは二の句が継げなかった。事実、その通りでもある。けれども、そうであるからこそ、そういう娘を陛下が皇妃に就けたという事実を無視出来ない。

 また、あの娘が人並みに嫉妬などするのかという懸念、否、何処か恐怖が有った。

「わざわざ、離縁など、するでしょうか」

 皇妃を庇い立てしたいわけではない。そうでない。事実はルイーゼの胸をえぐる。

「弱気だな、ルイーゼ。御祖父様おじいさまの体調もよろしく無いのだし、子もあと三ヶ月、か? しっかりせねば」

「強くあるのと、妃殿下を責めるのは違いますわ」

 しかし、エルマーは納得していないように見えた。辞していくエルマーに滅多なことを言うなと念を押したが、ルイーゼは最近は感じていなかった不安が、また戻って来てしまったのを認めていた。

 そうして、間を置かぬ内に、懸念は現実となった。


***


 皇妃が塞ぎこんだらしいと言う噂は、まったく好ましくない形でルイーゼの耳に届いた。何とエルマーが庭に出ていた皇妃を捕まえ、面と向かって罵倒したというのである。

 春先の外庭のこと、幾人もの目撃者が居たこともあり、顛末はあっという間に宮中に広がった。

 尚も悪いことに、皇帝がそれに激怒した。今度ばかりは噂話の域でなく、真実であった。



「子も生めぬのなら、皇妃の冠は返上すべきではないか」

 言われた皇妃は、まるでその言葉を解していないように見えた。金と青の瞳はわずかに見開かれ、急に乱入して来た男に向けられている。

 男は、エルマー・アイネスブルクと名乗った。

 偶さか皇妃は、今日は森でなく、蕾が色づき膨らみ始めた庭で茶を楽しもうとしていた。中央宮の外庭にはそんな風に寛げるよう卓を設えた場所がいくつも在る。

 そこに着いた皇妃を、エルマーと従者二人は挨拶をもそこそこに臆面も無く見下ろしている。

「アイネスブルクの方と言えど無礼な」

「は! 無礼と言うが、事実ではないか。あまつさえ卑賤の身で皇妃の地位に置かれているというのに、恥を知らないのはそちらだ」

 怒りのあまりに血の気が引いたのが自身でもよく分かった。

「エリザ」

 しかし、静かに呼ばれた名は、エリザに侍女らしい顔を取り戻させてくれた。皇妃は、初めの頃より眉ひとつ動かすこともなくエルマーを見据えている。否、ただ観察しているように見える。

「言いたいことは、それだけか」

 珊瑚色の唇は、震えることもなく言葉を紡いだ。

 エルマーの言葉は、少なくとも皇妃は何も応えるべきところは無かった。恥を知らないと言われても、恥入ったところで子が出来るようになるわけでもない。皇妃の冠を返上とも言うが、カノンにそれを与えたのはアゼルヴァイドである。だから、取り上げるのならやはりアゼルヴァイドだと、カノンは口には出さなかったが、そう考えていた。口に出しても無駄だとも。それらは何一つ気取られることはなかった。

 静かに返された言葉に、エルマーは戸惑ったらしかった。

「それだけとは何だ。そちらこそ、……何か言うべきことは無いのか」

「無い」

 それよりもお茶が欲しいと何事も無かったようにエリザに水を向けた。これには、わずかにエリザも驚いた。当然ながら、エルマーがいきり立った。

「恥も礼も知らんのか!?」

 叫ぶ声に応えたかのように、皇妃はするりと立ち上がる。急に視線の位置が上がった為か、エルマーはやや怯んだ。

「静かなところへ行こう」

 エリザに向けられた言葉は、いつもの微笑を湛えていた。そうしてそれが当然のように歩きだす。エリザも、手籠をまとめて呆気に取られたらしいエルマーと従者たちを尻目に、皇妃について行く。

「おい、待て、この石女風情が!」

 すぐに正気に立ち返ったらしいエルマーが聞くに堪えない罵声を投げて来る。しかも、それだけでは満足せずに追って来る。

 暖かくなってきた庭には、皇妃だけでなく、幾人かの影がある。庭番が頭を始めとして粋を凝らすようにして花を調えているから、今時分からでも十分なほど目を楽しませてくれる場所だ。帝都に留まっている貴婦人方や令嬢たちにも人気のある場所でもある。

 無粋なのは追って来る怒鳴り声だけだ。

 寛いでいた人々の内、主らしい女が気の毒そうな目を皇妃に向けた。周りの娘や侍女と思しき者たちも、やはり驚いたのか皇妃とエルマーとを見比べている。

「騒がせてしまっているな」

 ぽつりと呟かれた声は、庭に居る者たちへの詫びであって、それ以上でも以下でもなかった。エルマーに対しては何一つ関わる意義は無いと判断しているようだ。

 しかし、どうにも無視されることには慣れていない手合である。騒ぎの為に他の庭番も、距離を保ちつつ皇妃の傍まで来ていた。

 いくつか声が聞こえ、エルマーの二人の従者が駆けて来て、早足で歩いていた皇妃の行く手を塞いだ。同時に、エルマーがエリザには目もくれず、皇妃に手を伸ばそうとする。

 エリザはその手を掴んで足元を崩し、勢いのままに組み伏せた。後ろ手を回させ、こういう時に使う為の丈夫な糸でもって縛り上げる。

 従者二人もまた、それぞれ庭番に取り押さえられている。エルマーが呻いた。腰の剣帯も外して、念の為手の届かぬ場所へと放る。抗議の声が挙がったが、誰も、皇妃も何も言わなかった。

 冷酷なほど、金と青の瞳はエルマーを視界に入れなかった。

「如何いたしましょうか」

 皇妃に問うたのは従者を捕えていた庭番である。この間にも特にエルマーは口汚く皇妃を罵っていた。抑えた腕に自ずと力が籠り、エルマーの身体に軋みを挙げさせる。今度は声も悲鳴染みたものに変わる。

「アゼルヴァイドに任す。面倒事をすまないと伝えてくれ」

 ああ、そういえば、と今初めて思い当ったように皇妃は付け加えた。ようやくもう一度、皇妃はエルマーを視界に入れた。

「ルイーゼの兄だったな。ルイーゼに負担が掛からぬように」

 エリザから見える従者二人の顔は、何が起きたのか判っていない風であった。エルマーもまた、同じような顔をしているのかと思ったら、妾妃に対して幾分かの同情を覚えてしまう。胸中に沸いたその心持を代わりの庭番が来るまでに打ち消した。

 エリザの手が空いて、手籠を拾い上げると同時、皇妃はその形の良い珊瑚色の唇に、鮮やかな金と青の瞳に、やはりいつものように微笑を浮かべた。

「ありがとう」

 いつもの笑みに、いつも通りの言葉。いつも通りに返す礼の下、やはり、エリザは安堵と不安とを同時に覚えていた。



 庭番から仔細に渡り報告を受けた皇帝は、続く皇妃からの言伝に、何とか苛立ちを抑えようとする風であった。

 最近は執務室と学術院を往復している感がある。

 今も、そうであった。大きな丸い天井と棚の隙間から光を分散させるように堂内に入れている窓には特殊な硝子が嵌めこまれている。この硝子越しになら、収められている書物が陽光で焼かれてしまうことも無い。石造りで頑丈な建物である。

 段になるように造られた場所には、余すところなく時代も場所も様々な書物が収められている。下方には閲覧者の為の机が設えられている。今は、砂漠からの資料や設計図と、帝国の資料とを見比べる学者が机の大半を占めていた。

 アゼルヴァイドはそのとき、それらを見下ろせる位置で将軍を待っていた。しかし、先に庭番が来たことで、わずかに怪訝な顔をした。訝る顔は、すぐに怒気に染まった。

「それで」

「エルマー殿と従者に関しましては、現在はアイネスブルク邸に留め置いております」

 間は数秒も無かった。

「即刻追い出せ。二度と帝都に入れるな」

「かしこまりまして」

 庭番は一礼し、その場から音も無く立ち去って行く。

 その後、皇帝も現れた将軍に対して何一つ変わった様子は見せなかった。



 ルイーゼに報せが行ったのは退去の間際である。

 エルマーはこの処置には不服であった。妾妃の兄であり、アイネスブルクの三男でもある。皇妃に対しての非礼を詫びるのは吝かではないが、帝都に二度と入れないというのは行きすぎであろうと抗弁したのである。しかし、抗弁が有ったことも皇帝の耳には入れられず、護衛に扮した庭番数名と共にエルマーを始めとする三名は帝都より追放された。

 わずかの間も認められなかった。それほど皇帝が激していると知れた。

 ルイーゼには、退去させる旨、皇帝からの命であることが伝えられ、万一にも彼をかくまうことなど無いようにと通達された。

「何ということを」

 これに関して、ルイーゼが言うべきことは何一つ無い。あまつさえ皇妃に触れようとしたなど、一体何を考えたのか、兄ながら理解に苦しむ。

 ルイーゼに対する処罰は何も無かった。注意が有っただけで、皇妃からもルイーゼには何も無いと言う。特に後者は信じられなかった。報せを持って来た使者に、皇妃の様子を訊いてみたものの、すぐに部屋にお戻りになったと言われたきりである。

 ただ、塞ぎ込んだようであるとも添えられた。

 然も有ろうとも思った。怒るのでなければ、ルイーゼが同じ立場ならば間違いなくそうなる。

 使者が戻って、ルイーゼは息をつく。

 今は一刻も早く皇妃に対してお詫びする。知らぬふりなどするつもりは無かった。急ぎ手紙をしたため、こちらから赴いて詫びる旨を伝える。しかし、意外なほど流麗な字体と簡潔な文面の手紙には、それには及ばぬと記されていた。もう一つ、ルイーゼ自身の身体を気遣う旨もだ。

 ルイーゼは安堵とも困惑ともつかぬ心持になった。

 しかし、皇妃がそれで良いと言っても、まるで関係の無い者たちが黙ってはいなかった。

 エルマー・アイネスブルクが公衆の面前で皇妃を罵倒したというのに、妾妃は何も思わぬのかと言う。昨今ではアイネスブルクには何ら非の打ちどころが無く、一層に安泰と言われていた為に、この事件は格好の的となった。

 侍女たちは隠していたし、何も変わることは無かったが、近在の縁者や客人からは手紙も来る。ルイーゼに同情するものもあれば、叱責、どこか嘲笑するものまであり、これが自身でも意外なほど堪えたらしい。ルイーゼは、懐妊してから初めて体調を崩した。


 今は安静にしているより他に無いという医者の弁は、確かにその通りだろうと思った。実際、心持の問題であろうと自身でよく分かっている。

 侍女も遠ざけて、寝台で横になっているだけ。しかし、一通、手元に手紙を持っている。皇妃からのものである。

 あの皇妃付きの侍女の代筆かとも思った。しかし、署名は代筆すべきものではないから、やはり全て本人が書いたのだろう。皇家の紋が入った便箋に、美しい文字。

「どういうことなのかしら、本当に」

 下賤の者と言われていた。茶会や宴の折など見る度にそうでないのかとも思った。今も、そんな風に思えない。茶会のことを思い出してみても、粗野なところなど何一つ無かったのだ。ならば、全体どういう素性の者なのか。

 話す言葉と同じように虚飾の無い文面は、他の者の手紙よりも確かにルイーゼを気遣ってくれているように見える。

 話せない理由が在るのだとすれば。

 例えば王国の貴族の類であるとか。考えてみれば、誰もそんなことを思わなかったのだろうか。時期が時期である。王国との戦の折に、先帝は斃れた。だから、そんなことは無いと安易に考えていたのではないか。

 しかし、それならば、皇妃となった段階で王国から何がしかの動きが有って良い。両国の対立を終わらせる為にも、王国にとっては有利になるはずだ。

 けれども、王国も、皇妃に対して沈黙している。

 兄の言うように、娼婦の類であったのか。そちらを考えた方が、様々なことに納得が出来る。この美しい手紙にもだ。

 否。それならば、あの容貌は。まったくの銀色の髪だ。あれを見れば、真白いのと純銀の色がまるで違うといやでも分かる。金と青の瞳もだ。仮に娼婦の類だったなら、あんな娘が居たならば、それを知っている者が居てもおかしくないではないか。

「考え過ぎているのかしら、ね」

 あるいは、翼の民なのかもしれない。それなら、良いだろうか。その背に翼は見えないけれども、そういうことならば。

 ルイーゼは笑った。それなら良いと思い始めている。もう一度、手紙を見直す。そうしたところで、わずかに慌てたように、扉が叩かれた。こんな風に叩かれるのは、良い時と悪い時がある。

「どうしたのです、はしたない」

 身体を起こして呼ばわれば、乳母が慌てて扉を開いた。寝室へと来るからそうだろうとも思ったが。

「申し訳ございません。ただ今、陛下がお見えになりまして」

「何ですって」

 あの夜のように、乳母の背の向こうに黒衣は見えない。それを期待してしまった自身に、わずかな苦笑を覚えた。だが、今日は良きことではきっと無い。寝間着のままで会うわけにはいかなかった。

「今から着替えます。お待ちいただいて」

 戻って来た乳母は、それには及ばぬという返事を持って来た。

「そも、見舞いに来たのに起こしてしまってはと仰せでございました。休んでいるならば、それに越したことは無い、と」

「見舞い、ですか」

 起こしていた身体から緊張が抜けた。

「ええ、陛下は確かにそう仰いました。また出直すと仰ってお戻りに。次は使いを立てるとも。安心してお休みくださいますよう」

 ルイーゼはしばし口が利けなくなった。

「あ、あのようなことが有ったのに、ですか。ずいぶんお怒りだと聞いていたのに」

「はい、然様でございます。ルイーゼ様が体調を崩したと聞いていらしてくださったのでしょう。本当に、ご安心ください。まったく、ルイーゼ様には何ら落ち度は無いと仰っていただいたも同然です」

 そうなのだろう。少なくとも、エルマーに怒ることが有っても、ルイーゼには蟠りなど無いと示してくれた。

 頬が、熱くなった。きっと赤くなっただろうと一人恥ずかしく思った。

 その日の夜は、幾分も調子が良くなった。大人しくしていた赤子も早く外に出たがっているようにも思える。

 夕餉の後に、しばしまた物思いに耽った。そうして文机に向う。皇帝と皇妃とに礼を述べる手紙を書こうと。侍女にインク壺と紙を用意させたところで、見慣れぬ紋の手紙も運んで来た。

「これは?」

「それが、届けて来た者は読んでいただければ分かる、とだけ。どうしたものか迷いましたが、念の為、お目にかけておこうと思いまして」

 あからさまに不審である。差出人の名も無く、紋は見慣れず、ただ上質な紙であるとだけ分かる。

「封を、開けてちょうだい」

「はい。失礼いたします」

 かそけない音を立てて封が開かれる。中身に不審な点は見えない。侍女がそれを確認して、手渡して来る。

 ルイーゼは侍女を下がらせて、その手紙を読んだ。

 内容は驚くべきものであった。ただ、容易に信じられない面もあった。何より、この手紙の差出人はどうやらフランドル伯である。ただし、別の紋の入った紙を使い、文中で伯であることを示したのは一度だけ。

 憚るような手紙は、その理由の一つに庭番と呼ばれる存在を挙げていた。

 何処に混ざっているか分からない、帝国に仕える存在らしい。一応、帝国森林管理局と名は付いているし、土木に関する業務も請け負ってはいるが、実際には殺人なども厭わない、恐ろしい密偵の集団であると述べられている。これが、今は皇妃に与えられているとフランドル伯は言う。

 仮に事実であったとしてもだ。帝国に仕える者たちをまとめるのが皇帝や皇妃であるのは何もおかしなことではない。

 そうは思ったがフランドル伯の手紙は、更に俄かには信じられぬことが書いてあった。

 そうしたのは、彼女に惑わされた先帝であると伯は断言している。

 容易に信じられることではない。だが、ルイーゼが知らなかったこと、例えば前後しての先帝とアゼルヴァイド・フォン・ビスマルクの決闘騒ぎや、その後の性急な王国侵攻は、どれもあの娘がそそのかしたのだと。結果として、先帝は恐らくは彼女の目論見通りに斃れた。

 けれども、目算は一つ外れたのだろう。アゼルヴァイドが貴女を妾妃としたのも、正気が有る故だろう。だから、急ぎ子を成そうとしたのだと。

 そうして、今も娘はアゼルヴァイドの命と、それに続く者の命……ルイーゼの腹に宿る赤子までも絶やそうとしている。

 身辺に気を付けて欲しいと、手紙は締めくくられていた。

 何故、あの娘がそこまでするのかという疑問にも、伯は手紙の内で先回りするように答えている。

 翼の民には二つの種族が居たのというのは、子どもでも知っている。天の御使いとも言われた白い翼を持つ民。彼らは人の助けになった。

 もう一つは黒の翼を持つ民である。彼らは真黒い翼を持ち、性は悪であって、人を弄び、従属させることを好んだという。彼らは翼を持ってはいても地を駆けるより無く、また、その翼を隠すことも出来た。

 最後に、白の翼の民と翼の無き人間が、彼らを退けた。心配ごとの無くなった白の翼の民は、西の大陸へと移り住んだ。そうして、今もそこで暮らしているらしい。また黒の翼の民が現れぬように。

 ルイーゼも幼い時分に幾度も読んだ。

 フランドル伯は、皇妃こそ再度現れた黒の翼の民だと述べた。

 二通の手紙を見比べる。そうしたところで、内容が変わるわけではない。けれども、やはりフランドル伯からの手紙は信じるのは難しい。

 砂漠の民のことも、彼らが助力を申し出たのはやはり皇妃のことが有るからと言われては、やはり頷けない。戯言にも程がある。

 ルイーゼはフランドル伯からの手紙を細く裂いて捨ててしまった。

 ただ、皇帝が正気と幻惑の合間を行き来しているのではないかという一文は、ルイーゼの中に残った。皇妃に対しての皇帝の態度はおかしいと、女官長や秘書の言う通りだとも感じていたからでもあった。


 ***


 良い春の日和である。暖かくなった帝都は膨らんだ蕾も綻んで、美しい姿を見せていた。

 一方で、急に暖かくなった空気は、やはり懸念していた通りのことも引き起こした。

 国境の山に近い、特に北側の領地群は、常よりも多い雪の量に備えていたものの、急な雪解けはやはり水害となった。

 シャンブルク、及びシュスシルトの騎士団が方々へと出向くことになり、手薄になった国境付近の山脈に、今度は間違いなく王国騎士団の影が現れた。帝国側と同じように雪や付随した災害の対策かとも考えたがどうやら違う。先帝が使った国境山脈を越える道を探しているらしかった。

 当然ながら放置するわけにはいかない。国境付近の二つの騎士団砦とダルモニ他二つの街に中央騎士団の分隊の派遣や、それに伴う輜重しちょうの移動などでやはり宮廷は忙しい。

 常態でもある。忙しいと思うのは皇帝でなかった頃には、今と比べれば、ずいぶんのんびりと暮らし歩いていた所為だろう。

 アゼルヴァイドはふとそんなことを考えた。まだ二年目が三月ばかり経っただけだ。

 向いていないなどと、口に出すことは無い。先帝が生きている頃にもずっとそう考えていたが、やはり口には出さなかった。

 母は先々帝の妹であった。降嫁した後も帝位継承権は継がれるのが法である。だから、アゼルヴァイドもまた帝位を継ぐ権利を持っていた。

 とはいえ、それを意識したことなどほとんど無かった。何せ、幼い時分より従弟は自身がいずれ皇帝になると公言していたし、アゼルヴァイドもそれに異を唱えたことは無い。どころか、従弟であるフェルディナントがそのつもりであるならば、やりおおせると信じていた。自身が帝位に就くことは、有り得ないだろうとも。

 従弟……先帝はまったく健康であったし、何時でも先々を見ていた。資質についても、幼年期こそ疑う声も有ったが、今となってはそんな声も無くなった。斃れたということ以上に、皇帝であったと認められているからだ。

 母は早くに亡くなったが、父もアゼルヴァイドに帝位を仄めかすことすらしなかった。

 父は自身にも他人にも厳しい人であった。

 物思いから立ち返り、また手元に視線を戻す。案の定というべきか、最近では多いのだが明らかな誤謬ごびゅうを発見した。つい、溜息が出た。宰相が、皮肉めいた調子で言葉を接いで来た。

「また、でございますか、陛下」

「まただ。まったく、どうなっている」

「御機嫌が、悪いようでございますな」

「……そんな当然のことを言う者が宰相であるとは驚きだ」

 宰相は片眉を上げて、その言葉の調子と同じだけ皮肉を乗せたような笑みを浮かべる。そんな顔をすれば、容貌と相まって舞台にでも立っているかのようだ。

 皇帝も若いが、宰相とても地位に比べればやはり若い。ただ、先々帝の見る目は正しかった。

「当たり前のことでも、言わねばならぬこともございます。第一、この手のことは増えるのは確かに困りますが、原因が判っているのであれば、それはやはりご指摘しませんと」

「ほう」

「何せ、私としてもこの状況には些か辟易しておりまして」

 執務机を立ち上がった宰相は、皇帝と、机を挟んで対峙した。机の上の幾枚かの書類を宰相が取り上げる。

「ですので、陛下には今日は一日お休みいただくのが肝要と存じます」

「何を言っている」

「人というのは、『見られている』と思うと余計な力を入れてしまうもの。しかも、皇帝陛下がこのように執務室に籠り切りでは、私を始め、臣下一同休むことも出来ませぬ」

 宰相の弁には一理あった。加えて、と宰相は続ける。言葉を待ったが、それより先に宰相は皇帝の頭の先から大体胸元の辺りまでをためすがめす見返した。視線を受けた皇帝が苛立って言葉を発したのと、宰相が答えを続けるのは図ったかのように同時であった。

「何だ」

「お顔が怖いのです」

 アゼルヴァイドは何とも言えぬ顔をした。反論の余地が無いのである。まして、執務室に籠ってしまっているのは、書類上の誤謬や手違いが増えたことにも起因する。その原因が結局のところ自身とあっては、黙するより、そうして、諫言かんげんの通りにするより他に無い。

「休む」

「かしこまりまして、皇帝陛下」


 臣下一同も、これを聞いて安堵した。何せ、現皇帝は娯楽らしい娯楽を嗜むことも無いのである。執務以外となると騎士団にて鍛錬するくらいのもので、美食美酒の類を求めることも無い。周囲から例外に見えたのは妾妃についてだけである。

 また、エルマーのこともあり、女官や従僕が噂話をする余裕も減っていた。エルマーのしたことは勿論簡単に許されることではないが、妾妃の兄にもやはり厳重な措置を取ったことと、多忙も有ったがここ数日は特に厳しい顔をしていたから、自然と中央宮の空気も重々しいものになっていた。

 ただ、その中で、妾妃の見舞いに行ったことはやはり妾妃への寵愛は変わらぬということにもなり、子が生まれたのちはいったい二人の女をどうするのかとも囁かれていた。

 皇帝にしてみれば、どうするも何も無い。皇妃と妾妃をすげ替えることなど有り得ないというのに噂はいつでも人好きのする方向へと走って行く。

 娯楽に関しては、東方大陸の王たちのように、大量の食事を並べて楽しむような趣味も無いし、酒は好まない。呑めないのではない。むしろこれに関しては人並み以上に呑めるのだが、いかんせん酔わないのである。必要なときに飲めるのならそれで良い。

 美術工芸品や書籍のようなものも同様で、必要ならば目を通すし、素晴らしいと認めればそう言う。幸いに、そういう目は確からしい。ただ、趣味として読書をするようなことも、最近では無くなった。弦楽の類に関しては、こちらはまったくの不調法である。素晴らしいものは分かりはするが、自身で行うのは、こればかりはまったく難しかった。

 鍛錬は好きだ。けれども、休めと言われ、全く休むつもりで居た以上はこれも選択から除外された。遠乗りも考えたが、さすがに宮から離れるのは止した方が良いし、どうにも視察するのだという風に心が傾く。

 アゼルヴァイド自身思うのだが、こういう可笑おかしく不器用な点が、皇帝というものに向いていない一因だろう。アゼルヴァイドの知る皇帝……先帝や先々帝は、いつ見ても何がしか楽しそうにしていた。帝位に就いていても、そういった心持の均衡が取れていたように思う。一度ならず会うことになった王国の先代女王も同様であった。

 アゼルヴァイドにはそれが出来ない。アゼルヴァイドにとっての帝位は義務であり、義務でしかない。

 あまりにもアゼルヴァイド自身にとって受け入れられない状況で転がって来た帝位は、楽しみという言葉からは程遠い。

 それならば自身にも、帝国それ自体の為にも厳しく在る方が良い。

 彼自身が純善たる娯楽として没頭するのは、今のところ一つだけだ。一人と言った方が良い。

 半ばは無理に妻とした銀色の娘だけなのである。



 日を置いてルイーゼから届いた手紙には、謝罪などではなく、今一度お会いしたいとあった。

 それが伝えられたとき、エリザもやや安心した。皇妃は、その手紙をやはり何度か見返していたが、つと微笑んだ。実に優しくそうしたから、傍に居たエリザもつられてわずかに笑んだ。

 何せよ、おかしな噂など関係なしに彼女ら二人が話すことが出来るなら、それに越したことは無い。

「こちらから行った方が良いかな」

 身重であり、エルマーの件よりわずかに体調を崩したらしい妾妃を気遣っての言葉だろう。すぐに紙とペンを用意すれば、変わらぬ流麗な字体でその旨をしたためた。丁寧に封をしてエリザに手渡される手紙は、間違いなく妾妃の宮へと届けられた。

 更に返って来た手紙には、人の目の無いところでお会いしたいとあった。こちらも乳母だけを連れていくと。妾妃の心持の変化は、あと二月もしない内には身二つになるという不安もあるのかもしれないと、エリザは感じた。

 皇妃は、何を思ったのかは判らなかった。ただ、先の手紙で見せた笑みは無かった。

「……森が、良いだろうか。あそこならば誰も来ないが。ルイーゼは……大丈夫だろうか」

 珍しく、悩むように発せられた皇妃の言葉は、身重であるから、という以上に何か不安を感じている風であった。

「カノンさま。確かに森ならば、人目は全くございません。他には誰も居らしませんし、どなたにも……伯のように待ち伏せねば気取られることも有りませんでしょう。当日は、念のために庭番も置いておきましょうか」

「それは良いのだが……。会えば判るだろうか。ルイーゼは、どうしたか」

「何を、ご懸念なさっているのです。差し支えなければ」

「これは、ルイーゼが書いたのかな」

 これ、と指したのは二通目の手紙である。字体も署名も一通目と変わりないように、少なくともエリザの目には映っている。

「確かに、妾妃様が認めたものと、見受けられますが」

 そう言ったところで、続く文面にはエリザも怪訝な顔をした。ルイーゼと会う旨を誰にも伝えることなく居て欲しいという。確かにまた噂になっては煩わしかろう。ただ、皇妃が話す相手など、皇帝とエリザ、他には庭番の頭であるクラウスだとか、或いはエリザの代わりの庭番、ごく稀に宰相に限定される。

 皇妃の周囲にほとんど人が居ないのは、妾妃もよく分かっていると思っていた。疑い出せばキリの無い問題ではあるが、訝かると同時に理解も出来はする。

「そう、だよな」

「お身体の変化もございますし、不安もおありでしょうから」

「そう、なのだとも思うが……」

 珊瑚色の唇が引き締められた。

「エリザ。クラウスに、ルイーゼの侍女が何処から来ているか、誰と繋がっているか、今一度全員調べるよう伝えてくれないか」

「かしこまりまして」

 エリザは、皇妃からの了承の手紙を今度は彼女自身が届けた。その足を庭番頭が居る外庭へと向けて、やはり皇妃からの依頼を伝える。

 庭番の頭もまた快諾した。それが、帝国の為となるならば、庭番は何についても動くのである。

 庭番が、皇妃の周りに居るのは皇帝の命である。皇妃となるのが確実になった際、ただの女官が二人、犠牲になったからでもある。皇妃となる娘を狙ったものであった。このときに、カノンも怪我を負っている。

 事態を重く見たのは皇帝であり、庭番頭のクラウスであった。

 クラウスは、早い段階で皇帝となったアゼルヴァイドがこの娘に対しては感情を剥き出しにするのにも気付いた。些か、度が過ぎることが有るのもだ。そうであるなら、帝国の安寧の為にも彼女が何事も無く過ごしていてくれるのが良い。

 また、クラウス自身も初めて、彼女に庭番の、それも頭であると看破された。有り得てはならぬことを、娘は易々と超えたのである。

 庭番の頭は歴史には記録されぬことを知っていることも多かった。けれども、クラウスの知識をもってしても、銀色の娘に関しては何も判らなかった。

 判らなかったが、信じた。

 そういう経緯があり、クラウスは皇妃に対して全幅の信を置いているらしかった。

 調べは近日中にとの応え。そうして、妾妃からの手紙には、間を置かずに会いたい旨が記されていた。


 いつものように、森の中に入る。中央宮の裏手に当たるものの、庭を伝ってここに来られる者は早々居ない。制度の上でもそうだし、鬱蒼とした森に入ろうと思う者など皇妃以外には居ないのだ。幾度か、根こそぎにしようという話も有ったのだが、そうするには余りにも広く、深い。獣は、大きなものはほとんど居ないのだが、それでも以前一度だけ熊が迷いこんで来たことがある。

 それに、帝都は城壁が無い。万一のときには皇城の守りにもなろうということでそのままになっている。

 ルイーゼへの手紙には、森への道順も記しておいた。森に入った後はエリザが案内する。予定の刻限までは、エリザは皇妃と共に居た。

 会う場所は、皇妃が気に入っているのだろう、泉の近くの場所である。

 森の深みへと入る点の手前、入口のように、丸い泉がぽかりと開いている。そこだけは森もまた広場のように開けている。泉までも広く開いているし、傾斜もほとんど無く、足を滑らせる心配も無い。

 勿論、誰も来る心配も無い、はずであった。

 皇妃がいつものように、敷いた敷物に靴を脱いで座り込む。今日のことは誰にも、皇帝にすらも知らせなかった。なるべく、ルイーゼの言う通りにしようとの配慮である。これにはエリザの方が不安になったが仕方ない。けれども、庭番は最初の提案通りにルイーゼが通るであろう道と、念のために薔薇の宮の周辺にも配置された。無論、気取られぬようにである。

 良い日和であった。良く晴れた空に、暖かな風が吹いている。森の緑も瑞々しくなり、泉も清廉なままわずかに吹く風に漣を立たせていた。慕うように小鳥が飛んで来て、皇妃の膝に止まった。笑った皇妃が、その珊瑚色の唇で、不思議な歌を歌い始めた。

 異国の言葉のように聞こえるそれがどういうものなのか、皇妃自身もよく知らないらしい。数曲が在るらしいのは傍で聞いていて知った。今は、何処か子守唄のようにも聞こえる。安心させるようなものである。

 つと、茂みを踏み鳴らす音が聞こえた。刻限には大分早い。庭番が森を歩くときに音を立てることなど無い。警戒した先に、音の主が明るい陽の下に現れた。

「あ、アゼルヴァイド?」

 皇妃の驚きは、共にエリザのものでもあった。偶然とは時に恐ろしい。常には厳しくしている顔に笑みを浮かべた皇帝は優しく皇妃の名を呼んだ。

 エリザは一礼してその場を離れる。

 こちらに向かっているであろうルイーゼを留めさせねばならなかった。



 ルイーゼは約束の刻限より余裕を持って、庭を伝っていた。常よりも長く歩くことにもなるし、外のこの道はどういうわけか迷路のようでもある。小柄な彼女では庭木に隠れてしまうような箇所もあった。伴は乳母だけで、人目が無い場所をと指定したのは、侍女の意見に因るところも大きかった。

 それならば皇妃も必ず了承するだろうし、ルイーゼも何をか気遣うことも無い。

 皇妃からは人目の無い場所であるなら、と裏手の森が示された。外庭も中庭も今時分には見物する者たちも多い。

 あの森ならば、誰の目にも止まる心配は無い。完全に人目の無い場所というのもわずかに不安に思ったが、初めに言い出したのはこちらである。他の侍女たちにも固く口止めをし、今、ここを歩いている。

 視界の端に映る花々は美しい。刈り込まれた植え込みだとか、遠くも庭木の隙間から覗く貴族の邸宅の屋根だとか、ほとんど知られていない場所を歩くのは楽しかった。

 皇妃が使う道の所為か、足を取られるような箇所も無い。足元を乳母が注意してくれているが、それでも何ら心配することが無いのが、表情からも窺える。

 前を見れば、鬱蒼とした森の影が大きくなっていた。そのふもとの辺りに、人影が見えた気がした。

 ルイーゼは見間違いかとも思った。黒衣であったように思ったのだ。だが、森の影になった所為もあり、まだ幾分距離も有ったから確かなことは分からない。

 皇家の為の森だから、皇帝陛下が来ても何もおかしなことはないが、それならば、ルイーゼにも伝えられるだろうとも考えた。まったくの偶然だとは思いも寄らなかった。

 森の入る点よりもやや手前で、皇妃付きの侍女が顔を出したのが見えた。こちらを認めて近づいて来る。

 無論、あちらの方が歩くのも速い。すぐにこちらの眼前まで来て一礼した。それ自体は作法通りであり、所作も綺麗なものであった。しかし、続いた言葉はルイーゼには納得が出来なかった。

「申し訳ございません、妾妃様。今日はこのままお戻りくださいますよう」

「何故です。確か、エリザと言いましたか。そなたは、何故私がここに居るか存じているでしょう」

「はい、存じておりますし、手紙を届けたのも私でございます。ですが、ここをお通しすることは出来ませぬ」

 ルイーゼは訝しんだ。急に皇妃が言を翻す理由が判らなかったのだ。

「そんな方だとは思えませんわ、エリザ。もう少し教えてくれませんこと。でなければ、無理にでもそこを通ります」

「陛下が、先にいらしてしまいました」

 侍女の言い方がむしろ滑稽に聞こえた。皇帝が来たといっても、妾妃であるルイーゼが憚る確実な理由になるだろうか。自身の言葉もずいぶん剣呑になったのが判る。

「それが、私とは会わない理由になるとは思えないのだけれど」

「いいえ。妃殿下が妾妃様を退けようというのではないのです。陛下が……皇帝陛下は妃殿下と共にいらっしゃる際、どなたにも邪魔立てされるのを好みません。どうか、お戻りくださいませ」

 その言葉に反発したくなった。否、そうでないと信じたかったのかもしれない。一方で戻るべきだと理性と呼ぶ心は告げる。

 そうであったが故に、ルイーゼの我を張るかたくなになった心が優った。

「通しなさい。陛下がいらっしゃるなら、ご挨拶しなくては」

「どうか、お考え直しを。いけません、本当に」

 この侍女がこんな風に取り乱すようであるのにもルイーゼは可笑しかった。ただ、先にあるのは叱責かもしれず、しかし、それでも良いと思った。

 ほんのわずかでも、皇帝陛下に目を向けて欲しいと思ってしまったのだ。



 進むというルイーゼに、エリザは戸惑った。ルイーゼに話したことには一片の嘘も無い。まして、ここ数日、皇帝は寝室にも戻らずに居た。多忙であったというのも事実の一つだ。ただ、わずかに別の理由も混ざっていることも、エリザは勘づいていた。

 その状態で、こんな日に皇妃と目見まみえたなら、何をしているか分からない。否、分かりはするが、説明するわけにはいかない。説明したとしても、ルイーゼはアゼルヴァイドがそんなことをするわけがないと信じないのではないかと、エリザはそうも考えた。

 昼日中から、情事に耽るなどと、確かに以前の彼なら考えられなかっただろう。けれども、皇帝となったアゼルヴァイドが唯一執着しているのは、皇妃以外に無い。その発露とも見えた。

 勿論、それが政務に影響を与えることも、彼が政務をないがしろにすることも無い。皇妃もまた、皇帝に対して何か願うことも無い。まったくの無欲である。傍から見ているエリザとても、知らなければ噂に追従したくなるのも無理は無いと思える。

 また、妾妃に関する態度と噂は、皇妃と皇帝からも目を逸らさせるには十分過ぎた。その噂の半分は意図的なものであったと誰が知れよう。

「命令するわ、貴女に。私を案内なさい」

「失礼ながら、妾妃様。私に命令出来るのはただ二人だけでございます」

「なら、勝手に通ることにします」

「いけません。森の中は暗く迷いやすく有ります。まして、稀ではありますが獣が出ることも未だにございます。そのお身体に何か在っては」

「そんなところに貴女の主は招いたのですか」

「お一人で……乳母殿とご一緒でも、道を知らずに歩くのは難しいと申し上げております。案内が在れば別です。ですから、元々は私が案内役となったのです」

「それならば案内を完遂するのが、貴女の役目でなくて」

 話して分からない相手ではない。ルイーゼの心が頑なになっているだけで。

 エリザはまた、その心を理解はする。彼女は皇妃ではない。あんな娘など早々居ない。ルイーゼは聡いとはいえ、未だに十七。こんな状況での皇妃やエリザに対して、どんな考えを抱くかも解る。

「考え違いなさいますな。私が妃殿下のお傍に居るのは、ひとえに皇帝陛下の命でございます。そうして、ここをお通しせぬのも同じ。如何に妾妃様と言えども、同じく妃の称号が与えられようとも、厳然たる違いが在ること、妾妃様もお分かりでしょう」

 反駁はんばくしようとしたルイーゼの唇は開いて、言葉を見つけられぬままにまた閉じられた。傍らの乳母が何とも言えぬ表情でこちらとルイーゼとを見比べた。

「お戻りなさいませ」

「嫌です」

 感情的に放たれた言葉は、エリザを動かさなかった。しかし、ルイーゼが皇帝の子を間違いなく身籠っているのが問題だった。その一点に於いて、彼女の身に何事も起きぬように努めるのもまた庭番の役目である。

「ルイーゼ様」

 不安気に乳母の口から言葉が発せられる。主を心底想うその瞳は、おそらくはルイーゼよりもエリザの心を動かした。

「こちらの方の言うことはごもっともでございましょう。お気持ちは痛いほど分かりますが、ここは堪えて戻りましょうぞ。陛下に妻がいらっしゃること、兼ねてからご承知であったはず。今、重ねて無理を通してしまっては、陛下の心証にも、そのお身体にも、御子にも障ってしまいます」

 ルイーゼは、しかしその言葉を聞き入れなかった。ただ、泣きそうな顔をして、首を横に振る。そうして、エリザの方へそろりと歩を進めた。

「ルイーゼ様」

 乳母が唇を噛んだ。その身体を留めようと動くが、やはりその身体に対する気遣いは、ルイーゼの歩みを留めるまでには至らない。

 エリザもこの森の全てを知っているわけではない。入れるわけにはいかなかった。

 エリザは動かずに、ルイーゼの肩を抱き留めるように、その身体を止めた。妾妃が小柄であったのが幸いした。

「いけませぬ。どうか、乳母殿の言葉を容れてくださいませ」

 エリザに抱きつく形になったルイーゼは、既に泣いているように思えた。実際にはそうでは無かった。けれどもその表情は、エリザの忘れようと努めていた心を思い起こさせた。

「危のうございます、妾妃様」

「離して」

「いたしかねます」

「どうして!」

 答えなど求めていなかったに違いない。意味づけしたのはエリザの方である。自身の冷めた声音は事実を述べた。そうさせたのは自身の内に残る心だろう。

「どうしてか、と申されましても。陛下は即位よりも以前に、あの方にお会いしたことだけは確かでございます。そうして、皇妃とされたのもまた、陛下のご意志であることは疑う余地もございませぬ」

 ルイーゼは目を見開いてエリザを見た。何に驚いたのか、エリザには判じかねた。

「教えて、いただける? 先帝陛下もまた、あの方を所望したと、そう聞いたことが有るわ。真実ですの?」

 エリザはわずかに迷ったが、結局答えた。

「……未だ、語られることがあるのですね。それもまた、事実でございます」

「そう」

 ルイーゼはエリザにもたれていた身体を立て直した。エリザと乳母もそれを助ける。特に乳母は安堵したようである。しかし、立ち直ったルイーゼの表情は始めよりも胡乱に思えた。何が変わったというわけでもない。エリザに向う視線の奥には敵意があるままだ。

 足音らしき音が背後の森から届いた。このどうしようも無い均衡をも破る音だ。

 それが、どんな風に転ぶかは、エリザにも判らなかった。


***


 陽も届かぬように見える森からの音はやけに大きく響いて、ルイーゼにも届いていた。

 風ともつかぬ音。森自体は静かに見えた。音がしばらく止んだようにも聞こえ、そうして、音を立てていた主の影が見えた。

 ルイーゼに見えたのは常と変わらぬ黒衣を纏った大柄な皇帝の姿である。その両腕には、真白い衣を着せ掛けられた娘が抱かれている。裾から見える両の足には靴も無く、まったくの裸足のまま、気を失っているようだった。

 銀の髪も皇帝の腕に預けられて、金と青の瞳は、今は閉じられているらしい。

 力無くしな垂れ掛かる様は、まるで心の無い人形に見えた。

 それより上、皇帝の顔を、ルイーゼは見たはずである。

 皇帝もまた、ルイーゼを見たはずだった。否、本当に見られていたかは疑わしい。その場に居た者たちに、一言も声は掛けられなかった。

 ただ、エリザが道を開けて一礼し、乳母もまた、それに倣った。ルイーゼも、そうすべきであった。立ち竦んだ彼女は、しかし皇帝には何の感慨も与えなかった。

 皇帝は、表情も変えずにルイーゼを避けて歩いて行く。

「―――アゼルヴァイド様」

 ルイーゼは、振り向きざまにそう叫んでいた。ついぞ、そんな風に呼んだことは無かった。否、幼い頃にそう呼んだ。そのときに返って来たのは笑顔であった。

 馬鹿げたことをしていると自覚はしていた。分かっていても、自身を止められなかった。

 皇帝は歩みを止めて、わずかにルイーゼを見た。ほんのわずかだけ。続く言葉には怒りすら見当たらず、ただ、義務に因って発せられたようにすら思えた。

「その名を呼んで良いのは、皇妃だけだ」

 ルイーゼは、そこからどうやって宮まで戻ったのか憶えていない。

 ただ、気付けば宮の文机で、真白い紙を前に佇んでいた。

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