4

 新年を無事に迎えた皇城はやはり沸き立っていた。先年は祝い事よりも弔事が大きかったのは否めない。

 しかし、宴の主旨の通り、この年を乗り切ったのは大きい。

 新帝に不満こそあるが、不備は無い。質素を重んじている風の皇帝ではあるが、宴に饗されているものは文句のつけようもなく素晴らしかった。

 参加した者たちはわずかな安堵と共に、饗応を十分に楽しんでいた。

 帝都を始め、各地では国民たちへも酒と肉が振舞われている。

 宴は七日間続く。その間、皇城の裏側はせわしない。当然だ。皇妃はその様を興味深げに見ていた。傍にはいつものように侍女であるエリザが一人だけである。

「こんな風に動くのだなあ」

 給仕や楽隊や、時に逢瀬、密談の為に広間などを抜け出す者たちや。こそりと動く皇妃の視界では、様々な者が動いている。

 忙しない者たちの邪魔にならぬように、息を顰めながら、侍女も驚くほど身軽に皇妃はそこここを見て回っていた。エリザにしてみれば、意外なほどに皇妃は楽しんでいる。

 参加させぬと言われて、皇妃は分かったと言っただけである。一言も反発しなかった。

 そうしてこうしているのだから、なかなかどうして思いきったことをする。皇妃がこんな風に見学して回っていることを皇帝は知らない。

 皇妃はいつもの簡素な衣装ではない。たっぷりの絹地に金銀の糸で古い意匠を縫い取りし、古き時代に生きたという伝説を持つ、翼の民と呼ばれる者たちの衣装を模した。

 黙っていれば彫像のように見えるかもしれない。

 この格好ならば、誰かに見咎められても宴を楽しんでいるようにしか見えまい。今日は皆が趣向を凝らした仮面を始め、麗しい衣装でもって身を包んでいる。

 立ち働く女官や従僕のお仕着せもこんな時の為の一段上の物になっている。

 エリザはと言えば、今はお仕着せでなく、赤紫の生地と白いレースの貴婦人方が着ている流行りの衣装だ。違いは袖と帯の中に武器が仕込んでいる点である。今日ばかりは使う必要が無いことを祈っていた。


***


 仮面があるだけでこうも違う。

 ルイーゼはそう思った。仮面を着けた宴の初めは南部商業連合であったと聞く。目の部分を隠すだけで、相手が判らなくなるというのも不可思議なものである。

 しかし、顔全体を覆うわけでもない。仮面、それ自体が一つの美術品である。洒落たそれだけで粋を極めたような物を着けて、めいめいが踊りや饗された料理を楽しんでいる。相手が誰だか判らぬ、あるいはそんなフリをするというのも一つのたのしみなのだろう。

 とはいえ、仮面を着けていても明らかな者は居る。

 例えば、一際背の高い皇帝陛下は、仮面など着けていたところで容易に判別が出来る。今日はもちろんいつもの黒衣ではない。灰銀に艶やかな赤と金糸とで刺繍された衣装は、騎士の盛装のようである。

 ルイーゼ自身もやはり仮面を着けている。初めの一曲は皇帝陛下と踊っていた。

 ルイーゼが驚いた程、そうして他の者たちもそうだったろうが、皇帝はずいぶんと優雅にこの場で音に乗って見せた。

 今ばかりは身分の上下は無い。そういう建前だ。だからか、貴婦人方が陛下の傍から絶えない。それも仕方の無いことだろう。ルイーゼとても同じように様々な者が踊りに誘って来る。一人など男装をしている者さえ居た。

 仮面を着けているからこそ、大胆にもなるものらしい。仮装の場ではなかったはずだが、よくよく見ていれば、奇抜な衣装の者も少なからず見受けられる。

 ふと、ルイーゼは自身の髪飾りを思い浮かべた。

 薔薇を模した紅玉の見事な細工は、皇帝からと届けられた物である。共に、大きな紅玉の胸飾りも賜った。それもルイーゼの胸で揺れている。

「似合っている」

 宴が始まる際、皇帝にそう言われて、否応も無くルイーゼの心は弾んだ。我ながらずいぶんと単純なことだと心中で笑ったほどである。

 あの夜訊いてしまったことの真偽は結局判らないままである。自身の恥をさらしただけであった。有耶無耶なままで終わってしまったが、かかずらうと思わなかったとまで言われては、それ以上追及することも出来るはずがない。

 しかし、それで皇帝陛下の機嫌を損ねたわけでも無かった。疑惑を何処へ持って行けば良いのか分からない。はきと訊いて自分が恐れている答えが返って来たならどうするのか。そう思ってしまえばルイーゼの思考もそこで止まる。

 わずかでも想われていたい。そうであって欲しい。

 楽隊の一隊が交代する。ちょうど宴の中頃である。次の曲はまた皇帝陛下と共に。そういう手配のはずであった。

 楽隊が曲を始めるかどうかのところで、大広間の一角から何やら囃す声が挙がった。

 皆が一様にそちらを見た。それほど、その声は広間に異質に響いたのである。ひとときの静寂ののち、ざわめきが広がっていく。指揮者も曲を始めるか迷った風である。

 いったい何が起きたのか、ルイーゼからは見えなかった。

 誰かが追われるように、とりどりの衣装の合間から、皇帝が出る為に空いた場所へと舞い出でた。

 真白い衣がひらりとたなびき、大広間の灯りの下で煌めいた。否、衣装だけではない。それよりも殊更輝いて見えたのは髪だ。

 ルイーゼにも見えた。近くで見たのはわずかしかない、けれども間違えようの無い銀色の髪。白い衣は以前に見たものではない。ルイーゼは幼い頃、翼の民が描かれていた絵本をもらったことがある。それと同じ、白と金の衣であった。

 誰かが、天の御使みつかいだと囁いたのが聞こえた。

 仮面は着けていない。金と青の瞳だ。着けていたとしても、その色を見ることが出来そうな鮮やかな色だ。

「何故」

 ルイーゼは思わずもそう呟いていた。誰かに聞き咎められた風ではなかった。一様に皆はそちらを見ている。

 動いたのは他でもない。一際大きな体躯の、今は騎士のようだとルイーゼが思ったその人である。何か呟いたのがルイーゼの耳に届いた。

 彼の人は仮面を外した。どんな表情をしていたのか、ルイーゼには見えなかった。

 大広間の中央で、娘は皇帝陛下の方を何のてらいも無く見た。ルイーゼが居る場所から彼女の表情はよく見えた。

 珊瑚色の唇が、実に美しく笑みを形作った。

 そうして、ルイーゼの視線の先、騎士然としていると思っても膝を折ることなどしなかったその人は、銀色の娘にひざまずいて、その手を取った。


 歓声が挙がった。

 一連の流れを受けて、楽隊が今度こそ曲を始める。中央の二人は実に優雅に踊りだす。

 皇帝が息をついたのを聞いたのは、そうする原因を作ってしまった皇妃だけである。

 皇妃は、皇帝を見上げてわずかに困ったような表情をした。

「すまない」

 皇帝は苦笑で返した。やり取りはどんな意図にも見えた。曲の中ごろでは、既に踊っている相手が皇妃だと誰となく話していたし、皇妃でないなら天からの使いだろうと冗談を言う者もいた。下賤の者とも言われていた皇妃が見事に踊っているのも、それが為だろうと、もっともらしく付け加えながら。

 曲が終わるか終わらないかの頃合いで、白い娘はつと離れた。そうして今度は入って来た方とは反対側、皇帝の為の通路へと消えて行く。

 瞬きをする間も無かった。真実翼が有るようにすら見えた。

 それを見送った皇帝は、今一度広間の者に向き直る。そうして、膝こそ付かなかったが、やはり優雅に一同に向けて礼を取った。



「カノンさま」

「ああ、すまない、エリザ」

 通路の先で、侍女と落ち合った皇妃はそれでも微笑んで見せた。

「いえ、無事に済んだようで何よりです」

「そうだと良いが」

 言った皇妃は苦笑という態だった。わずかに華奢な肩を竦める。

「後で、怒られそうだ」

 事故である。楽隊が入れ換わった際、大広間の奥まで様子を見ようとしたのがいけなかった。通路近くに居た酔客に、役者にでも間違われたのか引き寄せられたのである。不味いと思ったが遅く、周りの参加者たちまでが興に乗ってカノンを捕まえようとしたのだ。

 後に退けずに、あの結果だ。

「戻る、か。エリザは、どうする」

「カノンさまが戻るのでしたら、私も戻ります」

「そうか。すまないな」

「とんでもございません」

 また誰の目にも付かないように、するりと通路を抜けて行く。中央宮は迷宮にも例えられることがある。そこを迷いもせずに通り抜け、皇妃は自分の居室へと戻った。



 皇妃はあの娘である。

 分かっていたことだ。さりとて、出ないと言われていた皇妃が現れたのはどういうことなのかと。問わずには居られなかった。ルイーゼの心は、今は乱れてしまっている。

「陛下、妃殿下は、何故……」

 問われた皇帝は、しかし厳しい顔をした。

「さて。後ほど問い質す」

 そう言われては、ルイーゼはやはり口を閉ざすより他に無い。

 ただ、先ほど皇妃が現れたのは、皇帝すら預かり知らぬことであったらしい。

「それより」

 既に仮面を外していた皇帝は、つと笑みを浮かべた。

「手番こそ狂ってしまったが、今一度」

 手を差しのべられてルイーゼは、拒むことなど考えられなかった。


***


 噂になるよりも先に、「無かったことになった」事柄がある。

 アゼルヴァイド・フォン・ビスマルクが帰国した直後、彼と先帝との間で決闘騒ぎが起きた。それも、一人の娘を巡ってのことである。

 先帝が、アゼルヴァイドが連れて帰って来た娘を所望し、彼がそれを拒否した。先帝は憤り、剣帝の儀と呼ばれる決闘条項を持ち出してまで件の娘を欲したらしい。

 先帝とアゼルヴァイド・フォン・ビスマルクは従兄弟同士であり、体格も顔立ちもずいぶん似ていた。おそらくは、剣の技量でも同等であったと思われる。

 実際に決闘が行われたなら、どちらも無事では済まぬと宰相は留めた。まして、先帝は婚姻するまではと筆頭の帝位継承者にアゼルヴァイドを指名していた。

 その二人が決闘するとなっては、諸侯への影響とても考慮せねばならない。先帝の右腕とも認められていたアゼルヴァイドの父であるビスマルク将軍とも亀裂が入るだろう。

 誰より悩んだのはアゼルヴァイドであった。

 彼は悩んだ末に、娘と共に帝国から逃げる道を選んだ。

 当然、先帝は激怒した。しかし、結局その矛を収めた。

 アゼルヴァイドは娘を連れながら、三日間ほどもその行方を眩ませていた。追手の庭番を撒きながらの逃避行である。明らかに目立つ娘を連れ、自身も際立った容貌の騎士が、である。

 最終的に国境付近で間にあった庭番の伝言で、アゼルヴァイドと娘は帝都へと戻った。

 先帝が剣帝の儀を持ちだした時から解決するまで間が無かった為か、このことはほとんど知る者が無い。触れ回るようなことではなかったし、誰も先帝の逆鱗になど触れたくもなかった。自然、この話は無かったことになった。

 コンラートは先帝が不貞腐れていたことをも知っていた。理由を問うたとき、傍に居た宰相が、『駄々を捏ねて失敗したからですよ』と言ったことすら懐かしく思い出せた。

 仔細有って帝都に居なければ、顛末を知ることは無かっただろう。

 アゼルヴァイドが連れ帰って来た娘は、今は皇妃となっている。

 先帝がたおれ、アゼルヴァイドが帝位に就いたとき、彼ならばそうするだろうとコンラートは予期していた。不可能では無かった。諸侯が反対しようとしたところで、先帝はうまく諸侯の力を削いでいたから上手くはいかなかったろう。

 そうして、コンラートは賛成することに決めていた。反対したところで無意味だと判っていたし、娘を皇妃にしても実害は無いだろうこともよく判っていたからだ。

 地位をろうするような娘では無い。アゼルヴァイド自身もそうだ。

 諸国を見ても、帝国に真っ向から刃向える国は今は無い。王国が安定してくればまた話は変わるだろうが、王国とても争いを欲しているわけではない。

 皇帝としてのアゼルヴァイドに私心はほとんど無い。コンラートはそう思っている。そうしてそれは、先帝とは真逆なのだ。

 皇帝だから、世継ぎが必要なのである。出来るだけ自身と血の繋がった者が。

 先帝は帝国を再統一したと言っても過言ではない。それほど帝国内は荒れていた。また動乱に戻らぬ為にも、安定の布石は出来る限り打っておかねばならない。皇家の血筋に、アゼルヴァイド以下の年齢の者は既に居ない。まして、それらは全て傍系だ。

 皇帝でなければ、彼はそんなことはしないだろう。子が出来ないなら養子を取っても構わない。二人で生を送ったとしても何の問題があろうか。

 妾など必要が無い。妻は一人で良い。

 コンラートは唇を噛んだ。最近は身体の調子が思わしくない。

「陛下。ルイーゼは、貴方様が思うほどには、賢い娘ではありますまい」

 皇妃が何者なのか分からないというルイーゼからの手紙の一文に、コンラートは難色を示した。蜂の巣を突くような真似は止めさせねばなるまい。

 こんな手紙を書いてくるようでは、ルイーゼが望む地位に就くことは無いだろう。



「どうしたものかな」

 皇妃の呟きに、応える者は居なかった。傍らのエリザは応えるべきでない時をよく弁えていた。珍しくも皇妃に届けられた手紙は、ただ簡潔な文面で用件が述べられている。

 金と青の瞳はもう一度その書簡を読み返した。とはいえ、一度読めば彼女の頭にはすっかりと収まってしまっている。

 けれども、皇妃としても手紙の内容にはあまり頷けなかった。今一歩遅かった感はある。それに、コンラートの気持ちは理解はするが、当人同士に放ってしまった方が良い。

 妾妃は宴より数日ののち懐妊していることが確認された。

 カノンは当たり前の感想しか抱かなかった。すなわち、めでたいことだということと、ルイーゼの身体を気遣うというごく当たり前のことである。

 女が子を生むというのは実に大変なことだと。けしてそんなことが無い皇妃には、そう思い、わずかながら心配するだけである。実際的なことは女官長や医者に任せるより無い。

 白くけぶった緑色の森を見やる。皇妃の居室からは森が見える。まだまだ寒さは緩まない。アイネスブルク領はここよりもずっと寒いのだろう。寒さは厳しいところだと聞いている。

 いかんせん、手紙の主は体調が優れぬらしい。

 肉親の情というのも、分からないではない。多分にそれは、彼女がアゼルヴァイドを想うそれに近いのだと思っている。

 ルイーゼを心配する祖父。気持ちは理解出来る。

 けれども、今、コンラートからの要請に応えるのは、心身共に不安定らしいルイーゼにとってはあまり良くないだろうと思う。

 ルイーゼ自身も不安だろうとも考える。

 まして、コンラートは皇妃に頼みはしたが、適しているとは思えなかった。それに関しては、コンラートすらも書きながら懸念を抱いているらしかった。

 いっそ何もしない方が良い。少なくとも、無事に子が生まれるまで。

 アゼルヴァイドも無論、妾妃を気遣っている。しかし、年が明けて一月。砂漠の民が動きだしたとの報が入っていた。

 ハンスマイヤーすら大人しく領に戻った。宴の為に来て、過ごしやすい帝都に残っていた東の領地の者たちも、冬の最中ながら領へと戻っている。

 小ヴュステは帝都方面とオストエンデ地方を分ける。そうしてオストエンデの向こうが大ヴュステだ。海の側で砂漠は繋がっている。砂漠の民は、その呼称の通りに砂漠を自由自在に駆けるという。

 一部の部族は皇帝と条約を結び、あるいは庇護を望んで帝国国民であろうとしているが、そうでない部族も多い。まして、一時期の弱体化の後である。

 加えて、砂漠の民が持つという不可思議な兵器は常に歴代皇帝の悩みの種だった。

 砂漠の厳しい冬に安寧を求めるからこそか、皇帝が代わったからこその行動なのか。どちらにせよ、アゼルヴァイドはしばらくそちらにかかりきりになるだろう。

 もう一つ、王国国境に近い西側は今冬は雪が多いという。波乱の種は尽きはしない。


***


 皇妃には構わずとも良い。

 祖父は言った。皇帝すらもそう言った。

 しかし、ルイーゼにはその言葉には頷けなかった。理由が明らかでないから余計に不安になる。ここに来てフランドル伯が話していたことも気に掛かった。

 茶会の様子や、宴での有様を思い出してみれば、むしろフランドル伯の話す方が正しくすら思える。

 そんなことは無いと思いたいのだ。まして、病で弱っているらしい時折震えるような筆跡を見れば、祖父の言葉はその弱気故なのではないかと思う。

 ならば皇帝陛下は。

 この一カ月と半分で、薔薇の宮に訪れてくれた日がまるで無い。

 ただ、執務室から出る日も無いと言う話すら有った。出ても行く先は騎士団であることが大半らしい。また、東へ向かうのではないかという話も出ている。

「ルイーゼ様、あまり窓のお傍にいらっしゃいますとお身体に障ります」

 乳母がそう告げて、膝掛けを勧めて来る。

 身体の調子はとても良い。悪阻は辛いと聞いていたが、そんなこともない。アイネスブルクで育ったルイーゼには、ここの冬は楽なくらいだ。他に考えるべきことが無いからこそ、心が不安ばかりを膨らませる。

 窓枠の細工を撫ぜて、絡まる蔦をなぞっていく。

 そこに、もう一人、侍女がやって来て言伝をしてきた。曰く、皇帝陛下の秘書殿が目通りを願っているという。

 ルイーゼは訝しんだ。秘書官は頼れるのは妾妃様以外に居ないとまで言い、ずいぶん悄然としているらしい。ルイーゼは会うことに決めた。


 秘書官は、正確には「元秘書官」となったらしい、カミール・フライシャーは、聞いた通りまったく悄然として項垂れていた。初老に入ろうという年頃で、小なりの貴族であった。以前までなら秘書官になるようなことも無かったろう。しかし、若い頃は城の従僕として真面目に努め上げ、その仕事ぶりが先々帝に評価されて身の回りの世話をするようになり、秘書官という役職を与えられた。

 とはいえ、その後の先帝の時分にはやはり侍従の延長のようであった。秘書の役回りはどちらかといえば宰相の持ち分ではあった。

 現皇帝もまた彼を重用していた。今度はきちんと秘書という役回りを示され、カミールは十二分にそれに応えていたと言って良い。

「身重の妾妃様にこのようなことを訴えるのは真に心苦しいのですが、最早頼れるのは妾妃様以外に……」

 項垂れた様子で、しかしはきと言葉を紡いでいく。カミールは先日、秘書を解任されていた。その代わりにカミール自身の故郷に近い騎士団領に監察官補佐として出向くことになる。けして悪い人事ではない。どころでなく、抜擢と言って良い。

「それだけなら、何もここに来ることなど……」

「まったく、まったくその通りでございます。しかし、陛下はわたくしの後任を妃殿下に任せると話しております。それがどんなに可笑おかしなことか言うまでもございません。宰相閣下も留めておりましたが……。陛下のご様子では」

 そうであるなら自身が残る。妃殿下にお任せするのは、前例が有りますまいとカミールも進言したらしい。

 しかし、ここでカミールは言葉の選択を誤ったのである。

「妃殿下には申し訳ございませぬが、あの方が十分に陛下のお役に立てましょうか」

 侮りも有った。皇妃とはいえ、宴にわずかに顔を見せたきり。何も出来ない小娘がなるような役ではない、長年勤めあげたという自負も大いに手伝った。

「下がれ。しばらく顔を見せるな」

 皇帝の答えはそれだけだった。カミールは唖然として皇帝を見つめた。

「陛下」

「下がれと言った。聞こえなかったか」

「しかし、何とぞ再考なさってくださいますよう」

 それ以上皇帝は応えることもなく、宰相が下がるよう促して来て、その場からカミールも辞したのである。

 閉まりかけた扉の向こうで宰相が何事か取りなす声が聞こえたが、詳しくは聞きとれず、居ても立ってもいられずに薔薇の宮を訪れたのであった。

「陛下は、妃殿下について何を考えていらっしゃるのかまるで分かりませぬ。捨て置いたと思えば、急に傍に置くような真似をなさる。しかし、それなら何も秘書に置く必要など無いではございませぬか。皇妃として、お出でになれば良いではございませぬか」

 カミールの言い分はルイーゼも共感出来た。

 皇帝の身の回りの世話をするというのは、宰相以外にそれも宰相よりも個人的に皇帝に近しい位置に居ることになる。それを皇妃に務めさせるというのはどう言って良いのかまったく分からなかった。

「妾妃様の言葉なら、陛下も」

「それは、買い被りというもの。ですが、お話しはしてみたいと思います」

 ルイーゼは皇帝と会うことに決めた。どんな理由であれ、皇帝と顔を合わせたかった。



「陛下。先ほどの話は本気でございますか」

 カミールが辞した執務室は、今は誰も通さぬようにと命じられていた。

「まさか皇妃を補佐官として向ける訳には行くまい。正直に言えば、秘書など居なくとも良いのだし」

「カミール殿はそうは思わなかったでしょうな」

 皇帝はわずかに肩を竦めた。真面目で、命じたことは何に於いても優先させ、遺漏いろう無く貫徹させる秘書は、身の回りの世話をさせる他にも使い手があると判断してのことである。

 東から目を離せなくなっていることに加え、監察官補佐に空きが出来てしまったこと、カミール自身も時折故郷のことを溢していたから、丁度良かろうと考えてのことだった。

 カミールの後、秘書官を無くすことも考えたが、それはそれでカミールも不満だろうし、かといって、それこそ長年務めて来たカミールの後任となると生半可な者では皇帝自身が不満になるだろう。この問題に長く頭を悩ませたくなかったのもある。結果的には間違いであった。

「だろうな」

「陛下。こと、妃殿下に関しましてはお気持ちは理解しているつもりです。ですが、カミール殿の意見とは別の理由で、私も反対です」

「ほう?」

「妃殿下が陛下を操っているとの妄言は、消えておりませぬ」

 役者のような風貌の宰相が言えば、言葉はむしろ可笑しな現実味すら帯びた。皇帝はつい笑った。しかし、すぐに顔から笑みを消した。鋭く見据えられて、宰相は言葉を繋ぐ。

「これでまた妃殿下が陛下のお傍に来るとなれば、皆、穏やかではいられますまい」

 皇帝は眉をひそめた。

「嫌な話だ」

「単に、しばらく空けるか、補佐官を別途指名した方が良いでしょう」

「まったく、その方が早かった」

 あまりにも忙しいから、ついそんなことを口走った。アゼルヴァイドがそんな失言をするのは滅多にない。

 恋しくなった、と言い変えても良い。

 日頃、そんなことはおくびにも出さぬ彼である。女官長がたしなめることがあるのも事実だし、噂されるほど皇妃に対して関心を向けないのも事実である。

 けれども、アゼルヴァイドにとっては明白な事実として、彼の妻はカノンなのだった。

 元より、彼は実のところ女性関係の分野は不得手である。それ故に、一途な面があった。

 妾妃について、確かに彼は気に掛けている。懐妊の知らせに喜んだのも本心だし、妾妃として間違いなく信頼は置いている。しかし、「愛しているか」などと、もし誰かに問われたなら、言下に否定するに違いない。

 幸か不幸か、ルイーゼは、彼に対してそんなことを問い質すことはしない。

 また、誰も皇帝に対してそんなことを問わない。

 息をつき、人を通すよう命じる。一刻ほどは何事も無かったが、その後、従僕の一人が急な言伝を持って来た。曰く、妾妃様がお目にかかりたいとのこと、と。必要ならばこちらから中央宮に伺うとまで伝えられる。

「のちほど、余の方から出向くと伝えておけ」

 言われた従僕は一礼して行く。

「カミール殿が泣きつきましたな」

 笑った宰相を苦々しく見やった皇帝は、しかし返す言葉は持たなかった。


***


 何処で習い覚えたのか、流麗な字体である。皇妃が下賤の出だと人は言うが、宴の折より、その声は少しばかり鳴りをひそめた。

 あのような場で踊ることは生まれの良い者の常識でありたしなみでもある。まったくの下賤の者であるならそんなことも出来まいというのが専らの話であった。

 皇妃は、傍で見ているエリザが驚くようなことが多々あった。こうして文字を読み書きしていることもである。下層階級の者なら出来ることではない。しかし、皇妃は分厚い本を読み、先ほどからも文面を考えることは有っても、手紙を書くのを苦にしている風でも無い。

 こんな娘を何処から連れて来たのか、皇帝は即位する以前からも語ることは無かったし、皇妃もまたそれ以前に何をしていたのか言おうとしない。

 ペンを止めた皇妃は息をついた。

「なあ、エリザ」

「はい、如何いたしましたか」

 金と青の瞳がエリザを見て、瞬間、エリザの背はぞくりと震えた。

「不躾なことを聞くが、エリザは、婚姻を考えたことは無いのか」

「無い、と言えば嘘になりますが……残念ながら、ご縁が無かったのでしょう」

「そう、か」

 わずかな年齢差しか無いはずなのだが、時折こういうことが有った。心の内を見透かすような瞳だと思う。恐ろしいことには、例えば、皇妃は人の名前などはすぐに看破してしまう。実際、内まで読まれていてもおかしくはない。

「好き、だったか」

「その時は、とても。今は、……未だに腹立たしく思うこともございます」

「そうなのか」

「想いというのは中々消えてはくれませぬから」

 皇妃は一つ頷いて納得したらしかった。一瞬、何が見えてしまったのかと思う。

 そんなことまで考えて打ち消した。そう思ってしまうのは、流言を信じるにも似ている。

 ただ、たとえ奥の奥に仕舞い込んであるものが見えても、皇妃は何も言わないだろうとも思った。

「子が生まれるのは十月十日、だったか。春が終わる頃と言ったかな」

「はい」

「子を成すのは……」

 言いかけた言葉を、皇妃は留めた。

「カノンさま?」

 つい、エリザは声を掛ける。やはり、平静では居られぬのかと思ったのである。しかし、皇妃の表情はそんな風では無かった。そこにあるのは苦悶でなくて、静謐に見えた。

「ルイーゼの母御も亡くなっているのだったか」

「然様でございます」

 皇妃は一つ頷いた。そうして、先ほどから認めていた手紙を読み返す。ペンを持ちなおし、乱れることなく署名した。


 エリザはその仕草にそっと息を吐いた。並の娘であったなら。幾度かそう思った。思うだけで口にはしなかったし、最近では慣れている。鈍磨しているとも言えるのかもしれない。それでも、フランドル伯に対したときの皇妃には肝を冷やした。

 今も、そうだ。

 美しい字体による署名は、皇妃自身を表しているように見える。

 皇妃なら、考えようと思えば政事に於いても才を発揮出来るのではないかと、そんなことまで考える。

 けれども、皇帝は皇妃に対してそんなことをまったく望んでいなかった。これからもそうだろう。妾妃に対しては、有る程度は許容しているのだろうとも、エリザは思っている。

 アイネスブルクの直系である。まして、妾妃とするのではなく皇妃に望まれてもおかしくはない家柄と器量、才覚も有るだろう。彼女の行動は慎重であり、今のところ、皇妃に対する考え以外はおおよそ正確である。

 縁者を無暗に近づけようともしないし、会う人間もなかなかどうして一角とも言える者が多い。敵を作らぬようにも心がけていて、それが実に上手くいっている。

 兄が三人居るが、その内二人は既に結婚していて、縁者は多いのだ。ただ、この三人の兄たちは、父親も含めて、何処か力量不足という印象が付きまとう。隠居の身とはいえ、アイネスブルク侯が抜きん出ているからでもある。

 ルイーゼは、事前の噂でも彼らに比べればずいぶんと評判は良かった。器量も良く、学術の面でも女性ながらずいぶんと優秀で、事実その通りだ。詩吟も巧みだし、話一つとっても、エリザも感心するほどであった。

 ルイーゼが皇妃であるなら、間違いなく皇帝の助けとなったろうし、本人もそれを望んでいるに違いない。

 そうはならなかったのは、偏にアゼルヴァイドの意思である。現皇妃であるカノンを立てるのは、宰相すら難色を示したと聞いた。実のところ、エリザもそうであった。婚姻するより前から子を成せないというのがまずはっきりしていたし、素性も、本人もまったく覚えていない。

 けれども、皇帝となったアゼルヴァイドは、そういう娘を妻にすると言い、それを押し通した。理由など一つしかない。

 反発は、全てカノンへ向けられた。もし、カノンが人並みの娘であればまた違ったかもしれない。だが、その容姿からして毛色が違う。銀の髪も、左右で色の違う瞳も、帝国内どころか旅の経験があっても見ることはまず無い。

 翼の民と呼ばれる、古くに居たとされる人々が銀色の髪を持っていたと伝えられるだけである。彼らは人に様々な技術を教えたとされる。また、魔法を日常的に使っていたとも。皇妃が皇帝を操っているなどという噂はそういうところからも来ているのだろう。

 背丈だって、ともすれば並みの女性の頭一つ分程も高い。エリザも、やや見上げる形になる。

 民の方はと言えば、美しい皇妃には割合好意的だった。美しいという噂以上のことが無いからとも言えた。

 現在、皇帝はやや心配になるほどには忙しい。それも、先帝の治世があまりにも短かった為だ。その間わずか一年足らず。本格的に政事に関わるようになった時期から数えても五年に満たない。

 しかし、そのわずかな間に進めようとしていたことが多岐に渡る上、先例も無く斬新なことも数多い。追って成そうとすれば、皇帝を始め、臣たちも自然とせわしくなった。

 先帝フェルディナントと現皇帝は、容貌の上では確かに似ていた。とはいえ、顔立ちは似ていたものの、性質は違った。

 先帝は破天荒と評される。おまけに、政事からも宮からも離れていたエリザが呆れる程度に、庶民からですら、「皇帝は何処に居るか判らない」と言われるほど行動が素早かった。拙速とも見える行動に、宰相や将軍が呆れたのも一度や二度ではない。

 その結果は素晴らしいものが多い。最期の時以外は、という注釈は必要かもしれないが、それでも後継者が居ると信じて逝った。

 留守にすることも多かったにも関わらず、政務は滞ることは無かった。

 天性のものであったのだろう。

 現皇帝となったアゼルヴァイドはどうか。統治の才はまったく無いとは言えまい。しかし、何もかもまだ始まったばかりだ。ただ、今までにあった彼の評判はすこぶる良い。

 人品、武勇、共に優れた理想の騎士であるとまで言われていた。この評判の半分は先帝が出歩く際にアゼルヴァイドを騙っていた所為でもある。しかし、八年間帝都、帝国から離れていたアゼルヴァイドは、噂を事実だと認められるほどの資質を持って帰って来た。

 騎士であった。それが、先帝が逝くと同時に皇帝となった。先帝を守ることが出来なかったから、きっとその責も感じている。

 今のアゼルヴァイドは皇帝だ。だから、好意どころか自身の信条に関わらず、必要だと思うことなら何でもしている。唯一の例外はカノンとの婚姻であって、それだってまったく難しいとなればしなかった可能性すらある。

 妾妃は、どうやら「アゼルヴァイド」を好いている。

 責められるべき感情ではない。好く、慕う、想いを寄せる。何も可笑しな事は無い。けれども、彼女は騎士から皇帝となったアゼルヴァイドを受け入れているのだろうか。

 身体を重ねるのは愛おしいからだと。そういう、以前のアゼルヴァイドなら当然のことを曲げてでも行うように変わったと気付いているのだろうか。

 エリザが考えるのは、それこそ差し出がましい。けれども、エリザの中には妙な不安が付きまとう。

 目の前の皇妃カノンはずいぶんと静かだ。微笑していることが多いが、感情の起伏はほとんど見えない。皇妃となる前からそうであった。エリザはただの娘から皇妃となるまでのわずかな間に、好意も抱いたし、同じくらいに不安も抱いた。今もやはり、その静謐の内に安堵と自身の不安を感じている。

 皇妃は知識が無い。それを補うように本を読んでいる。けれども、書物だけでは判らぬこともある。人の心の動きは度し難い。

 皇妃は、敵意を向けられたとき、それ自体を理解していないのではとも懸念している。フランドル伯への対応は、それこそ彼に限ったものでないかもしれず、そうであるなら。

 この噂だけを介した関係は、いずれは破綻する。


***


 薔薇の宮には、今は生きた花は無く、装飾の薔薇だけが花開いていた。誰が作らせた宮かまでは知らない。帝国と呼ばれている割に、王国と分裂してからというもの、安定した時代はほとんど無かった国である。国としての体裁が有ったのは、王国や砂漠の民の圧力が有ったからではないかと思っている。

 実際、王国が安定し、こちらを歯牙にも掛けなかった先代女王の時代の半分は、帝国は波乱の時代であった。

 アゼルヴァイドの伯父であった先々帝の更に前。一人は間違いなく暗殺され、その前の皇帝は、一応は病死。一応は、と言いたくなるほど不審な状況での死であったらしい。

 庭番も、頭以外はほとんどが絶えていた。何故そんなことになったのか、クラウスは語らないが、南部の商業連合も一つ噛んでいたようである。

 アゼルヴァイドは今しがたまで居た中央宮を見やった。沈んだ陽の名残の中、象牙色の壁は浮き上がっているようにも見える。

 迷路のようになっている中央宮は、王国と一つの国であった時代からのものである。しかし、何故そんな造りになっているのかは、誰も、博識であるクラウスすらも知らなかった。計画性が無かったんだろう、と言ったのは幼い時分の従弟……先帝であった。

 こちらを認めた侍女が頭を下げ、そうして迎え入れて来る。

 無論、女官のお仕着せなど着ていない。華美でこそないが、簡素というほどでもない。下の者の印象は妾妃への印象にもなるから、けして不調法にはならぬようにと気を遣っているのだろう。

 アゼルヴァイド自身はといえば、旅をしていた頃の癖も有って、簡便な物を好む。帝位に就いてからは殊更に黒衣をも好んだ。

 度が過ぎるのでなければ質素だろうと、華美であろうとも構わないと思っているから、周囲の服装に関して口を出したことは無い。

 明るく暖かく保たれた客間の柔らかな椅子の上、やはりずいぶんと暖かそうな格好で宮の主である妾妃は居た。小柄な体が着膨れている。アゼルヴァイドは些かの驚きと共に口を開いた。

「暑くはないのか」

「乳母が、ずいぶんと心配するのでございます。窓辺にも寄るなと言われてしまいました」

 ルイーゼも苦笑と共に応えた。

「ところで、カミールのことか? そなたの用件は」

「はい、然様でございます」

 予想通りの応えに、アゼルヴァイドは少々落胆を禁じえなかった。

「その事なら考え直した。それだけか」

 言われたルイーゼもわずかに俯いた。けれどもすぐに顔を上げて口を開いた。

「それだけではございません。もう一月もお顔すら拝見していませんでしたから」

「そう、だったか」

 思い返せば確かにその通りである。それほど政務に没頭していたらしい。

「すまなかった。だが、頻々と来るとは言えぬ」

 アゼルヴァイドの念頭には東、主に砂漠がある。騎士団を動かすにも時期は悪い。だが、無論、放置など出来るべくもない。それこそ帝国と、アゼルヴァイドの威信に関わる。

「春までに落ち着けば良いが」

 東、オストエンデと南の商業連合からの情報を鑑みれば、簡単には収まるまい。砂漠……大ヴュステの奥で政変が起きたらしく、押し出されるように砂漠の民が移動している。

「……はい。そう願っております」

 アゼルヴァイドはこの段階で腰を下ろすことすらしていなかった。きびすを返そうとしたときに、また声が掛かる。

「陛下、その」

「何だ」

「もうしばらく、こちらにいらっしゃることは出来ませんか」

 アゼルヴァイドは今一度妾妃に対して向き直った。

「夕餉をご一緒したく思います」

「そなたに毒見をさせるわけにもいかぬよ」

 ほんの三月ほど前にはそうさせたが、何喰わぬ顔でアゼルヴァイドは返した。今となっては状態が違う。妾妃の顔はやはり曇った。当然かとも思うのだが、それでも夕餉を共にする気はさらさら無い。

「……妃殿下とは」

 ぽつりと呟かれた言葉は、アゼルヴァイドを不愉快にさせるには十分過ぎた。ルイーゼとても何をか考えての発言では無かった。わずかな嫉妬が口を突いてしまった。

「何故皇妃を引き合いに出す。皇妃とは食事などしない」

 冗談のような話であるが、アゼルヴァイドはカノンとは食事も別である。体質というべきか、カノンが肉や魚の類を摂ることが出来ないからだ。彼女が口にするのは専ら野菜や果実、蜜などである。それだけではアゼルヴァイドの身体が持たない。

 そもそも引き合いに出すのもおかしい。

 こんな場合でなければ皇妃と夕餉を共にするなどおかしなことではない。皇妃を優先することもだ。

「……失礼、いたしました」

 アゼルヴァイドはただルイーゼを見据えていた。

 俯く妾妃はあまりにも小さく頼りなく見える。わずかに沸いた怒りも削げた。

「不安が有るのは理解出来る。余に不満が有るのも仕方ない。だが、こちらもすぐには如何ともしがたい」

「不満、など」

「無いと言うか? 流石に嘘と判る」

 ルイーゼは何か逡巡しているようだった。ただ、その様子もすぐに消えてまた顔を上げた。漆黒とも呼べる瞳は何か意を決したようでもあった。

「陛下は、妃殿下を如何様にするおつもりなのですか」

「秘書官についてなら、考え直したと言ったはずだが」

「そうではなく、離縁するとの話まで耳に入りましたが、真実でございましょうか」

 アゼルヴァイドは、自分が笑ったことを自覚した。怒りすら沸かぬほど馬鹿馬鹿しかったのだ。

「そなたは、侍女を全て替えた方が良い。そんな噂までも真に受けて耳に入れる者が必要と言うのなら、それでも良いが」

 身体の不調は無いようだが、どうにも精神が不安定らしいとアゼルヴァイドは結論付けた。以前にも同じようなことを話していたが、日数を鑑みればそのときから身籠っていたのだろう。

「噂に振り回されていては赤子にも悪かろう」

 ルイーゼは、安堵ともつかぬ表情をした。呆けたようにも見えた。何処か笑んだような表情のまま、彼女はゆっくりと言葉を繋いだ。

「度々、申し訳もございません。本当に。訳も無く鬱々としてしまったり、こんなことを真に受けてしまい、ときおり、侍女にも、当たってしまうのでございます。乳母は身重であるからとは言うのですが」

 かといって侍女も簡単には替えられぬともルイーゼは言った。やはりアイネスブルクの者が居て欲しいとの希望は妥当とも見える。替えようにもやはり冬だ。帝都付近まで出て来るのは女の身では、より難しいだろう。

 申し訳ありませぬと、ルイーゼは今一度深く頭を下げた。


 ルイーゼの乳母に、可笑しな噂などは伝えぬようにと言伝て、アゼルヴァイドは薔薇の宮から中央宮へと戻った。折しも、小ヴュステの入口に当たるカルステン、及びその名の通りヴュステに造られた要塞都市であるヴュステシュタットからの急使が到着した。



 訊いてしまった。

 けれども、優しく告げられた応えはルイーゼの求めていた解答ではない。しかしながら、こうして妾妃であるルイーゼが懐妊していようとも、そうして無事に子が生まれても、この地位は動くことは無い気がした。多分に、それは当たっている。考えてしまえば悔しい。

 そっと嬰児えいじが宿る腹を撫ぜる。皇妃には出来ぬことである。

 今はただ健やかにと。祖父のことも、赤子のことも、祈るしか出来ない。

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