3

 滞在中に雪が降り、皇帝の一行は予定よりも少々遅れて帝都に帰還した。馬で五日の道程とはいえ、帝都と他の都市では気候はずいぶん変わるものである。

 帝都でもわずかながら降雪が有ったらしい。けれど、帝都では雪が積もるようなことはほとんど無い。冬時だけでなく、夏の気候も穏やかなものである。

 帝都に戻れば、喧騒はやや収まっていた。わざわざ確認せずとも、陛下はルイーゼ様に、並々ならぬ御寵愛を向けていると行きわたったのでしょう、と侍女の一人はさかしげに言った。噂が静まったのは概ねその通りなのだろうとも思った。

 何せ、噂は静まりはしたが、ルイーゼの元に来る者たちは後を絶たなかったからである。中には口添えの為にと物品を贈って来る者も少なからず居た。そちらの処遇にも困り果て、思いきって皇帝陛下に相談したところ、好きに使えば良いと言われてしまった。これはと思う人物なら、会っても良いとも。

 次いで、そんなものにまで気が回らなかったことを詫びられもした。ルイーゼの方が不用意な発言を恐縮した程である。

 とはいえ、早々目に適うような者など居るべくもない。信頼もあると思えば、自然と目も厳しくなった。

 そんな中、あと一月もすれば新たな年になるとのことで、布告が為された。

 皇帝アゼルヴァイドの年の二年目となる。先だっての山賊騒ぎの裏で反乱を企図した者たちは、迅速に捕えられた。また、先帝の急死にも関わらずついて来てくれた官や民に対する感謝の元、盛大に新年を迎える宴を開くとのことだった。

 身分の上下をも気にすることなく楽しめるようにと、参加する者たちは仮面を付けることも布告された。

 ルイーゼを始め、他の貴婦人方や令嬢・御曹司たちも宴に際する衣装に頭を悩ませていた。何せ、皇帝は喪が明けてからも黒衣で通しているのである。華美に仕立てても良いものかと皆が思うのも当然だった。

 しかし、それと同時に誰が言い出したのか、それとも誰もが気付いていて言わなかっただけなのだろうか。とかく、皇帝陛下のすぐ傍に居る宰相などは先帝の喪が明けてすぐに洒落た格好に戻ったではないかと。

 実際、皇帝が質素を強要したわけではないのである。どころか、宰相の衣装を新調しても良いかという問いには笑みさえ浮かべて応えたという話であった。

 帝国では先帝の時分より、皇帝と宰相が同じ室でもって執務を行っているのである。先帝が誰にも告げずに城を後にしてしまうことがしばしば有ったからだ。執務室での先帝の見張りと場合によっては留守居も兼ねていた。

 現皇帝はそんなことはしない。しないが、平定直後とも言える帝国のこと、宰相が傍に居た方が何かと都合が良かった。

 とにかくも、皇帝と共に居る時間も長い宰相の服装は、洒落たものであり、日に寄っては華美とも見えるものもある。それで咎められることは無いのだからと、話の信憑性はどうであれ、皆は安心して衣装を調え始めた。

 しかし、例外も居た。皇妃である。

 皇妃が衣装を作らせたという話は聞かない。

 ルイーゼはアイネスブルクが後ろ盾とはいえ、そうして寵愛も有るとはいえ、妾妃なのである。皇妃を差し置くような真似はさすがに出来ない。それは、ルイーゼ自身の品にも関わる。まして、いくら出て来ない皇妃だとは言え、そうして表立ってはルイーゼに何も言わぬ者たちとは言え、付け入られる隙など見せてはならない。

 しかし、仮面を着けろというのはどう考えてみても、ルイーゼに対する気遣いに思える。皇妃が居なくとも、皇帝と共に参加すると見るのは当然とも言えた。何せ、皇妃は今までどんな式典にも姿を見せていないのだから。

 こればかりは女官長に訊いてみても、苦い表情でもって謝罪されるだけであった。ただ、女官長ですら、陛下は妃殿下を宴には参加させぬでしょうとも言う。

 これは、ルイーゼの中にしばらくの間は消えていた疑問を思い出させた。

 すなわち、何故あの娘が皇妃なのかと。何の為にあの娘はここに居るのかという疑問である。

 やはり、これも皇帝陛下に直接訊くより無いとルイーゼは思った。


 ***


「陛下、それはけして良からぬことではございませんが……妃殿下はどうお考えになりましょうか?」

「皇妃が気にすると思うか、女官長」

 皇帝の言葉に、女官長は考え込んでしまう。実のところ、皇妃の人となりを多少とも見て来た女官長にも、皇妃が気にするとは到底思えない。それでもその問いを発したのは、やはり皇帝が皇妃を宴のどの日程にも参加させぬことを女官長に伝えたからである。

 これだけなら予期されたことでも有ったから、苦言を呈するようなことも無かったかもしれない。しかし、女官長はもう一つ、妾妃の為の褒美を見繕うようにとも言われたのである。宴に間に合わせろとのたっしに、女官長は先の言葉を発していた。

「失礼いたしました。お気になさるとは思えません。しかし、口さがない者たちがまた何を言い出すか。そうなったとき、妾妃様だけでなく妃殿下も矢面に立ってしまうことになりましょう」

 その言葉には、皇帝もまた考えたものらしい。

 執務室の椅子に深く腰掛けた皇帝は、ふと何処か遠くを見たようだった。

「だが、山賊討伐の際、功が有ったのは事実だ。異議も出まいよ」

「それは、然様でございますが」

 女官長の目には、いや、他の者の目にすら皇妃に対する皇帝の態度は理解しがたい。

 婚姻を公表して間を置かずに妾妃を娶ったのもあり、女官の中にすら、皇帝は皇妃を離縁する機会を窺っていると噂する者は少なくないのだ。

 しかも、皇妃もまた不満に思っているようには見えない。夫婦であると言うのに、互いのことにまるで関心が無いかのようだ。女官長は思わずも口に出した。

「失礼ながら、皇帝陛下。何故そのように、妃殿下を」

 しかし、女官長が言い差した言葉は、鋭い視線でもって留められた。

「女官長。皇妃に関して口出しは不要だ」

「……申し訳ございません」

 視線を受けて居られずに頭を下げる。殺気と言い変えられるほどの怒気は室内を満たし、女官長の頭を抑えつけたようにも思えた。


 皇妃の元へ戻るよりも、妾妃のところへ行く夜の方が皇帝は仕事を切り上げるのが早い。二晩おきに判を押したようにそうしているのだから、自然、噂にもなる。だからこそ、皇妃とは寝室も別なのだとも言われるのだ。

 その噂を皇帝は否定も肯定もしなかった。耳に入っても一笑にふすだけである。彼にとってそのような噂は下らないの一言に尽きる。

 それは皇妃の耳に入っても同様に違いない。そも、そんな噂が有ることを知っているかどうか。それで良いと皇帝は思っていたし、わざわざ他人のねやの事実を暴きたがる者も居ないと思っていた。噂は噂だからこそ広まるのである。

 だから、その夜、妾妃から噂の真偽を問われたとき、皇帝は非常に驚いた。

「そなたが、そんな噂にかかずらうとは思いも寄らなかった」

 それは一つ、確かな皇帝の本心であった。そうして、それを返されたルイーゼは、あまりのことに羞恥以外に何をか感じる余裕も無くなった。

「も、申し訳ございません……」

「何故、そのようなことを訊いた?」

 問われて、ルイーゼは一つ深く息を吐いた。問いに怒りは無く、初めと同じように呆れが滲む。

「真に、申し訳もございません。あまりにも噂を耳にしたからでしょうか。馬鹿なことを申しました」

「まったくだ。そのようなことをそなたが気にする必要は無いではないか」

 妾妃に対して、皇帝は話さぬことは有っても心を偽ることは無い。この夜もそうであった。率直な言葉を受けたルイーゼは赤面した。皇帝は、夜目にも分かるほどそうされて、つと笑った。

「噂など真に受けず、そなたはそなたの役目だけ果たしていれば良い」

「はい。心に留めておきます」

 更に頭を下げる妾妃に、皇帝の表情は分からない。否、上げていたところで灯りもほとんど消された部屋の内のこと、気付けなかったろう。皇帝は、わずかに笑んだのち、やはり思い直したように考える風であった。


 ルイーゼは十七になったばかりである。皇妃も十六、七。もっとも、皇妃の年齢は実のところ分からない。そのくらいに見えるというだけだ。

 皇帝は、眠る娘を見やって息をついた。

 早すぎたろうかと思う。しかし、皇家筋に現皇帝以下の年齢の者は既に居ないのである。養子や新制度の確立も考えた。だが、後者に関しては帝国内が平定して間もなく先帝が亡くなってしまったのもあり、出来かけた国の仕組をもまた替えてしまうのは混乱の種となる懸念があった。東の砂漠の民と呼ばれる者たちは非常に油断がならず、何を仕掛けて来るのかという不安は常に有る。

 養子に関しても同様で、まずもって何処から連れて来るかという問題があった。結婚こそ早々に認めさせはしたが、皇妃の記録上の親を決めるにあたっても、悶着は有ったのである。

 皇帝自身も未だ二十五。妾妃を召す方が後のことを考えても都合は良かった。

 しかし、人の心は度し難いものだとも思う。ましてまだ娘と呼べる年齢の者のことだ。

 不満や不備が有るならば遠慮なく告げるようにと言伝て、皇帝は夜闇の中を薔薇の宮から中央宮へと戻る。


 ***


 皇妃は寒空の中、今日も庭から森へを進めていた。いつものように侍女は一人だけ。衣の方もやはり簡素で、いつもの白い衣装に防寒の為にやはり簡素な外套を羽織っていた。

 皇城は、森を背にして様々な宮が中央宮を守るように出来ている。皇城と街の境に、主だった貴族の屋敷も連なっていた。

 その合間を縫うように、緑は路を作って例えば貴婦人方の無聊を慰めたり、逢引の場になっている。

 庭から森への路は、皇妃以外に使う者はほとんど居ない。そもそも、裏の森は元々は皇帝が気軽に狩りを楽しむためにと残された場所だった。何代か前にそういう者が居たらしい。その為、今も皇家の者以外には入れない。

 花の時期ではなく、ただ緑の残る場所を通り、ただ、緑だけが残る場所へと向かう。

 その中途で、ふと皇妃は足を止めた。侍女がそれにならい、次いで人の気配に感づいた。

「ハンスマイヤー。何か、用か」

 皇妃は庭木の影に向かって呼んだ。呼びかけた方には確かに人影が在る。しかし、誰と居るでもない。侍女にも何の声も届いてはいない。そこに、彼は確かに潜んでいた。

 そもそも、この路はだから皇妃が使うものである。

 果たして、呼ばれた通りの男が庭木の陰から出でて、皇妃の前に立った。会釈すらせず、ただ皇妃を見下ろすように、立ちはだかるように、ハンスマイヤー・フランドルは居る。侍女が、皇妃を庇うように動こうとして、皇妃は留めた。

 フランドル伯と呼ばれることの方が多い。既に七十を越えている。帝都の東、小ヴュステの守りと物資の集積地となっている、フランドル領を治める伯爵である。

 その身体は頑健そのもの。背は高く、陽に焼けた顔には深い皺と共に、若かりし頃の戦の傷跡がある。奢脱な衣で隠された部分にも有るのだろう。けして武勇のみを頼みにしている者ではない。けれども、その所為で元々荒々しい造作の顔に、更に凄みは増していた。

 しかし、皇妃はただ彼を見上げる。大抵の者を萎縮させる視線を受けても動じずに、怖気づく様子も無く見上げている。

「まったく変わりませんな、皇妃」

「そちらもだろう」

「相も変わらず、可愛げも無い。その綺麗な瞳を抉ってしまいたくなる」

「それは、嫌だな。きっと痛い」

 フランドル伯は一歩、皇妃に向けて進んだ。皇妃は怯える素振りも見せない。

 侍女の方がわずかに身構える。

 フランドル伯はそちらに向けて一つ憐れむような視線をやった。しかし、すぐに皇妃へ視線を戻す。

 肩までしかない銀の髪から、皮靴に覆われた足先まで不躾に見下ろしていく。そうしてから獰猛な獣がするように、殊更緩慢に皇妃と視線を合わせた。

 金と青と、それぞれに色が違う。フランドル伯が相手にしたどの女よりも視線は上だ。否、彼にとって女は組み伏せるものであって、こうして対等に見合うものではない。

 フランドル伯はその顔に、わずかな苛立ちと皮肉を同時に載せて笑みにした。

「私が、何を考えているかお分かりになるか」

わかる」

 伯は、笑みを湛えたままやはり皇妃を見下ろす。

 薄い身体である。女性らしいとは言えまい。足腰は丈夫そうだから、腰の辺りを剥げば印象も変わるだろうか。しかしながら肌の白さは素晴らしく、頬の辺りは薔薇色に染まっている。それが、非常に整った顔に柔らかさを与えていた。

 わずかずつ動くやはり形の良い唇は珊瑚の色をしている。

「分かっていて、それか」

 皇妃は、娘の顔をした。少なくともフランドル伯にはそう映った。否、この娘は最初はなからこうであった。

 つと、フランドル伯は帯びていた細剣を抜いた。ぴたりと娘の首元に突きつける。

 娘は動揺もしなかった。フランドル伯を、ハンスマイヤーを見上げたままである。ここに至ってもだ。わずかな動作で、それこそ侍女が動くよりも先に、ハンスマイヤーの牙はその細首を突き通せる。

「妃殿下!」

 侍女が叫ぶ。その声で、ハンスマイヤーにも人の気配が増えるのが分かる。庭に潜んでいる庭番だろう。

「何故、そのような目をする、皇妃」

 娘は、ただ首を傾げた。動かすことを怖がりもしなかった。

「死が怖くないのか」

「そう、言われても、な」

 今度は答えらしきものはあった。しかし、ハンスマイヤーの気に入る答えでは勿論無い。

「生への執着すら無いのに、何故その地位に在る?」

「アゼルヴァイドが皇帝になったからだ」

「それだけか」

「それだけだ」

 庭番の刃が飛ぶよりも速く、ハンスマイヤーはその剣を収めた。そうして、先ほどとはまた違った印象でもって娘を見据えた。

 美しい娘である。飾っておくには申し分ない。娘である。女ではない。

「気に入らぬ」

 娘はハンスマイヤーを見上げたまま唇にわずかな笑みを浮かべた。可憐であり、無邪気であり、それゆえに酷薄ですらあった笑みは、娘の中の女を確かに垣間見せた。

「どうしたところで気に入るまい。そなたに、気に入られようとも思わない」

 ハンスマイヤーは大笑した。

「あの若造にも媚びるわけではあるまいに」

 その言葉に、娘は笑みを消して何処か不思議そうな顔をした。ハンスマイヤーは更に笑う。どうにも、彼にとっては可笑おかしかった。

「なるほど、よっく分かった」

 フランドル伯は皇妃に向かい、そうして何もせずにその場を過ぎる。花のような香が漂ったのを感じ、彼はまた獰猛に笑った。フランドル伯は振り向かなかった。皇妃もまた同様であった。


「申し訳ありません」

 フランドル伯が去って、開口一番そう言った侍女に、皇妃は何の感情も見せなかった。否、どうして彼女がそうするのか、本当に分かっていないようにも見えた。

「何故、謝るのだ、エリザ」

「妃殿下、」

「戯れだ」

 言い募ろうとした侍女に、皇妃はそう言った。その真意が掴めず、エリザと呼ばれた、常日頃より皇妃に従う彼女は却って怪訝な顔をした。

「何事も無かった。ふざけが過ぎた。ハンスマイヤーは、少なくともわたしは不問だ。でなければ、わたしも罰せられよう」

 近づいていた庭番にもその声は聞こえたろう。それを受けて、エリザは思わずも驚愕し、皇妃に詰め寄る形になった。

「しかし、妃殿下。確かにフランドル伯は」

「何事も無かったろう」

「ですが」

「わたしにならいくらでも、刃を向けて構わない。エリザに向かなくて良かったとも思う」

 そう言われてしまえば侍女は何も言えない。フランドル伯の動きに、何も出来なかったのは事実である。

 彼女もまた庭番の一人だ。皇妃の身の回りの世話をしているのは押し並べて庭番である。傍目にはただの侍女であり、女官である。従僕に紛れている者たちもいるし、庭の中でまったく庭番をしている者たちも在る。

 皇帝の意向である。

「わたしには、構わないのだが」

 珊瑚色の唇からひとり言のように洩れ、皇妃はその足を庭へと向け直した。庭の奥には、庭番の頭であるクラウスが居る。髪は真白いが顔は若々しくも見える。皺ひとつない、とは言わないが、おどけるような仕草や表情は彼の年齢を不明瞭なものにさせていた。いつも黒の襤褸ぼろにも見える外套を着て、庭を懸命に手入れしている。

 そも、庭番は正式名称を帝国森林管理局と言う。庭の整備や秩序を保つのが彼らの役目である。彼らが庭と称するのは帝国全土に及んだ。もし、その必要があれば、彼らの持つ鋏は皇帝へも伸びる。

 皇妃がクラウスの元へ着いたときには、既に皇帝からの知らせもクラウスへと届いていた。フランドル伯を警戒する旨である。

 そもそも、フランドル伯は最近は領地に籠切りであったのだ。

 まず、現皇帝からして気に喰わない。未だ若い皇帝が幼い時分よりそうだったのだから筋金入りである。加えて、皇妃の義親のルントシュテットは、どちらかと言えばアイネスブルク侯に縁が近い。妾妃は言わずもがな、アイネスブルク侯の孫娘である。

 それが、どんな気まぐれか皇城へと姿を見せている。

 フランドルは重要な拠点であり、フランドル伯自身も無能という言葉からは程遠い。警戒するのも当然だった。

 皇妃はその指令にもう一つ付け加えた。庭番の頭は快諾した。


 ***


 御機嫌伺いと称して会見を申し入れて来た相手の名を聞いて、ルイーゼは至極驚いた。使いですらなく、フランドル伯自身が現れるとは思いも寄らなかったのである。

 折しも、宴に参加するため、帝都に入っていたルイーゼの父と長兄が薔薇の宮を訪れていた。

「ご家族が来ているところ申し訳ない。偶さか宮の近くに参った故、不躾な真似をしてしまったが」

 開口一番そう言ったフランドル伯である。大きな傷の残る顔から漂う荒さは否めないが、それを言葉と物腰で和らげようと努めている風だ。

 少なくとも父と兄はそう思ったようである。

 しかし、ルイーゼにはあまりそうは見えなかった。戦場らしい戦場に出た経験など無い。けれども、その傷は見たことも無い血に塗れた戦場を思わせた。同時に、皇帝が斬り捨てた者たちを思い出してそれを打ち消した。

 フランドル伯は侍従も連れていない。細剣を帯びてはいるが身一つである。宰相といい、自身の祖父といい、皇帝もまたそうであるが、先帝の元で働いたことの有る者たちは、総じてそんな風らしい。ルイーゼはそんなことまで考えて、また、目の前のフランドル伯に意識を戻す。

「驚かれたかな」

「はい、失礼ながら。フランドル伯がこちらに立ち寄るなど思いも寄らず。お知らせいただければ、何がしかご用意も出来たのですが」

「はは、正直な方だ。何、ご存知の通り、妾妃殿の祖父御そふごとはまったく反りが合わぬが、妾妃殿や次期アイネスブルク侯に遺恨があるものでもない」

 そうだろうかと思いはしたが、それこそおくびにも出さなかったルイーゼである。この言葉に、一層喜んだのは父であった。

「フランドル伯からそのように仰っていただけるとは、年来の憂いも晴れようというもの。以後、親しくしていただけるならこの上ない幸いでしょう」

 握手を求めた父に、フランドル伯もにこやかに応じた。そうして、兄やルイーゼを褒めそやす。フランドル伯の口から出るものでなければ、もう少し楽に聞けたかもしれないが。

 一しきりそうして、フランドル伯はごく自然に話を変えた。ただ、ルイーゼにはわずかにフランドル伯の瞳から笑みが消えたように見えた。

「しかし、まったく陛下にも困ったものだと思いませぬか。何を考えてあんな娘を皇妃にしておくのか。ルイーゼ様という良き方もいらっしゃりながら」

「それは」

 言い差したルイーゼを遮るように、父が応えた。喜色と共に応えてしまった。

「伯もそのようにお考えですか」

「実を言えば、陛下が言い出したときに留まるよう申し上げたのだが、聞き入れられなんだ。けれどもこうするなら尚の事、お止めいたすべきだった」

 ルイーゼは眉をひそめる。何故、フランドル伯がこんなことを言い出すのか分からなかったからである。こんな風におもねる人物ではない。

 ルイーゼの表情は自然と厳しくなった。

「フランドル伯がお止め出来なかった程、強く、陛下はそうなさったということですわね」

 父や兄が何か言うよりも先に、ルイーゼは言い放った。ここでおかしなことを口にされても困る。まったく分かりやすい罠に嵌りに行かずとも良い。

 ただ、その言葉はルイーゼ自身にもわずかな傷を付けた。

 フランドル伯は、おそらくここに来て初めて本当に笑った。

「まったく、その通りだ。ただ、それに賛成したのは貴女の祖父御だ、ルイーゼ様。存知ておりましたか」

「いいえ。初耳ですわ」

「然様でございましょうな。ただ」

 そこで、フランドル伯は珍しく言い澱んだ。口に出すべきか迷っているようであり、それがまた不思議であった。しかし、不思議と思いながらも今度は不自然には思えなかった。

「魔性のような娘だ。誰が籠絡されていたとしてもおかしくはありますまい」

「何を仰りたいのです、フランドル伯。そも、無礼ではありませぬか」

「何、陛下があんな娘を皇妃にしておく理由が他に考えられんと思ったまで。実は先ほど妃殿下にも目通りしようとしたが、何処へ行くとも知れぬ格好で庭を横切っておったわ。あれには呆れた」

 ルイーゼは眉を顰めた。ルイーゼの父と兄も色めきだつ。

「……陛下が、そのような理由で地位をもてあそぶようなことをするとは思えませんわ」

 言った声はしかし震えていた。フランドル伯はふとその目を細めた。

「なら、他の理由を教えていただきたいものだ。そう言われた方が、私としては得心が行きますがな」

 フランドル伯は何処か嘲笑うように見えた。


 皇妃が子を生めないから妾妃を娶る。理屈としては正しい。これ以上無いほど正しい。

 ルイーゼにとって、それだけとは認めたくない。けれども、噂が無かったとして、それだけと認められたろうか。

 フランドル伯が辞してルイーゼは息をついた。顔色が悪くなったルイーゼに、父も兄も労わりの声を掛けて来る。

 家族は何処まで信じて良いのかと思う。父も兄も悪い者ではない。ただ、特に父はどうにも人が良過ぎるように思える。今も、フランドル伯を信じ切ってしまったのではないかとすら思う。

 悪くはないから良いと言い切れるかというとこれも違う。兄は兄で武芸に優れてはいるものの、それを振るう機会は少なくなっていくに違いなく、これは二番目、三番目の兄も同様のきらいが有った。

 家族の顔を思い浮かべれば、祖父以外に真実頼れる者が居ない気がした。

 あの人はどうだろうかと思い浮かべた顔は、ひどく厳しい表情をしている。そう在るのが当たり前になってしまったように。

 ルイーゼは溜息をついてしまって自嘲した。心配する二人には笑みを投げる。

 心配は無い。疲れただけだと言えば、二人ともそれで納得したようであった。

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