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 皇妃が来る。

 ほとんど公の場に出ない皇妃が来るということで、妾妃の茶会に招かれた者たちはめいめいに別のことを思った。共通しているのは、平民の出である皇妃を程度の違いこそあれ侮っているという一事である。

 全てがアイネスブルクと懇意こんいにしている者だし、皇妃に失礼の無いようにと家格かかくが高い者になっている。裏を返せば、なぜルイーゼが皇妃でないのか、と有る程度は考えている者たちでもある。

 皇妃がどんな格好で来るのか、皇妃がどんな態度を取るか。

 皇妃の行動の全てが注目されている。

 しかし、妾妃の周りがさざめいているのとは裏腹に、皇妃は至って静かだった。誰も、皇妃の動静を漏らさない。そもそも、ほとんど人が居ない。

 あの、人の気配の極端に少ない場所は、そんな効果もあるのだろう。

 だからこそ、皇帝があそこに行かないということも信憑性がある。

 やはり疑問なのは、なぜあの娘が皇妃か、である。ルイーゼはいつもそこで考え込んでしまう。

 謁見の際、侍女たちは別室できちんと持成されたそうだ。仕切ったのは女官の一人で、女官長の腹心とも言える人物だったらしい。

 皇妃の命に従うのは、何らおかしなことではない。だが、むしろそれはあの侍女から出たものではないのだろうか。あの娘がそんなことを考えられるだろうか。

 軽んじ過ぎか、と思いなおす。

 もし、何も知らないフリをしているのなら。それはそれで空恐ろしい。その可能性も否定する材料は足りない。

 近づくのが難しいから、皇妃の一日の行動がどんなものかも判然としない。公務にはついていない。

 時折、城の裏手に広がる森に行くことがあるということだ。元々は何代か前の皇帝が手軽に狩りを楽しむ為に保護されていた森なのだそうだ。そういう森だから、皇家の者以外は立ち入ることが出来ない。そこで、何をしていても分からない。

 ルイーゼの唇から溜息が洩れた。例えば醜聞を探すにしても、やはり材料が足りない。ルイーゼ自身も、自分が妾妃としてきちんと務めているという自負はある。

 しかし、皇妃に謁見が叶わない者たちがルイーゼに謁見を求めるのは少々腹立たしさも覚える。「妾妃」としてというのが一つ。讒言ざんげん混じりの言葉は、聞いていて愉快なものではないことも一つ。そうした者が期待しているような、皇帝への影響力は無いのではないかという、不安とも確信ともつかぬことが一つ。

 特に、最後の一つは大きい。何のためにあの娘が皇妃であるのかと同じくらい、どういう理由でルイーゼが妾妃として呼ばれたのか。

 ルイーゼの内には期待もある。

 幼い時分、ルイーゼは誘拐されたことがある。犯人は、北部を荒らす盗賊だったと後から聞いた。怯えていたルイーゼには、何が有ったのかまるで分からなかったのだが、遊学途中のアゼルヴァイド・フォン・ビスマルクに助けられたのは憶えている。

 末の娘だからと兄たちからはずいぶん子ども扱いもされていたし、それは父もそうだった。けれども、そのとき、アゼルヴァイドだけは違った。

 勇気も礼節も、話す言葉も、全て違ったように思えた。一人前の女性として扱われ、話も聞いてもらい、本当に嬉しかったのだ。

 陛下は、憶えていらっしゃるだろうか。憶えていて欲しかったし、だからこそ呼ばれたのかという思いもある。しかし、単にアイネスブルクの娘だからという理由かもしれず、それならば、やはり何故あの娘が皇妃なのかという、最初の疑問へ戻る。

 皇帝陛下と話す機会もほとんど無い。二日ごとに通って来ていただいているものの、そこで会話らしいことが出来るかというとそうではなく、そうしたところで政事に関わるようなことは話せない。口を出すことが良策でないのは考えずとも分かる。

 そう思えば、あの皇妃はどうだろう。

 何も知らない、何の得の無い娘をそこに据えておく。誰も行くことなどないし、話すこともなければ、余計なことが耳に入る確率はぐっと下がる。

 何とか、納得が出来た。

 とはいえ、野心が無いではない。

 あのとき向けられた笑顔を忘れるなど、ルイーゼには出来なかった。


 ***


 妾妃の為の宮は、薔薇ばらが多くあしらわれた壮麗なものだ。薔薇の宮と呼ばれている。皇帝もまた彼女を「薔薇の君」と呼んでいた。 

 その一室には、今、薔薇に負けず劣らず美しく装った貴婦人方が集まっていた。

 茶会に招待された者は皇妃を除いて五名。それぞれが侍女も連れている。彼女らもまた飾っているから、室内はさながら宝石がぶちまけられた様相を呈していた。

 ルイーゼの侍女や女官たちもまた、彼女らを持て成す為、朝から忙しくしていた。珍しい茶や菓子、果実なども揃えられていて、見た目にもそうして貴婦人方の肥えた舌も満足出来るようになっていた。

 まだ現れないのは皇妃だけである。とはいえ、刻限にはまだわずかにある。しかし、既に貴婦人達の間では、皇妃殿下はやはりいらっしゃらないのではないかという話が始まっていた。

 そうであれば、アイネスブルクを侮辱したとでも言えるし、ルイーゼを抑える形で皇妃となった娘に対し、溜飲りゅういんも下がるというものである。アイネスブルクの縁戚にも当たる彼女らの間に、そういう気分は多分にあった。

 ルイーゼは、彼女らをたしなめながらも、それに同調したい自身を感じている。

 けれども迂闊うかつなことは言えない。縁戚だとて、誰が敵になるのか分からなかった。こればかりは、誰も真に信用は難しい。この場には居ないが、それが出来るのは祖父と、

「妃殿下がお出ましに」

 ルイーゼの思考は中断した。


 皇妃はその金と青の双眸そうぼうで、集まった者たちを見回した。そうして、ルイーゼに向かってあの微笑を浮かべた。

 着飾った者たちが集まった中、皇妃はいつも通りというべきか、白の簡素な衣装を着て、しかしそれを何ら恥る様子も無く、当然のようにそこに立っている。侍女はやはり一人だけ。やはり、この間見た侍女で、今日のこの場にあってもやはり女官のお仕着せだった。

「妃殿下、ようこそ、お出でくださいました」

 ルイーゼは、礼をすることで驚いたことを押し隠した。顔を上げたときには、笑みを浮かべているように。

 招待された者たちも、それぞれ皇妃と挨拶を交わす。

 今日は、一応は格式ばった会ではない。歓談のための場だ。そうであるのだが、挨拶を受ける皇妃は、ずいぶん醒めた目で彼女らを見ているようだった。

「妃殿下は、噂通りの方ですわね。ずいぶん質素でいらっしゃる」

「そんなに石を着けていても重いだけだ」

 言われたシュタット伯の夫人は何とも言えず俯いた。皇妃は、それこそ一顧だにしなかった。内心、やはり呆気に取られながら、ルイーゼは急ぎ場をつくろう為に口を開いた。


 皇妃は、水を向ければわずかに口を開く。その回答は意外と如才じょさい無い。それこそ子どものような率直さがそう思わせるのだろうか。少なくとも、ルイーゼはその様子には他の者たちよりも好感を持ち始めている。

 ルイーゼも本は読む。詩歌や物語も好むが、それこそ子どもの時分は植物や動物の話だとか、海のものたちの話だとかも読んでいた。それを教えてくれたのは祖父だけで、父などは女の子らしいものをと遠ざけてしまったけれど。幼い時分のことというのは、忘れがたい。そうして、皇妃は、夫人方の噂や流行りの劇などよりもそちらの方に関心を示した。

 ふと、ルイーゼの口から話題が零れた。

「陛下は、昔、ご遊学なさっていたと聞きますが、そういったお話はなさらないのですか?」

 一瞬、場が静まった。

「しない」

 皇妃の答えは冗談のように素気なかった。

 また、夫人方がざわめきだす。

「では、いつもどのような」

 そう訊いた者が居る。ルイーゼも気になった。

「近頃は忙しい」

 主語が抜けているが、これは皇帝陛下だろう。先帝が急死してしまったが為に、東の地、オストエンデを初めとする都市群は、砂漠の民たちと共に蜂起しかねないとの噂もある。噂の域ではあるが、そのためにお忙しいと言われれば、納得出来る。

 ルイーゼの所に来るときも、翌朝はずいぶん早く起きて中央宮に赴いている。どころか、夜の内に辞されることもある。時間を縫うように来ていただいていると思うと恐縮すら覚える。

 しかし、他の者たちはそうは思わなかったらしい。

「妃殿下のところにも、来られないほど陛下はお忙しいのですか」

 この言葉には揶揄やゆが混ざっていた。またもシュタット伯夫人だ。皇妃はまるで応えようとしなかった。それをどう取ったのか、他の夫人方もさざめきだす。

「ルイーゼ様のところには、」

 と言い差した者も居る。皇妃を見れば、その金と青の瞳はあのときに見た鮮やかさでもって、こちらを見ていた。

 珊瑚色の唇が、声を出さずにわずかに動いた。

 それは、確かに、大変だな、と読めた。

「妃殿下と陛下は、愛し合ってらっしゃいますの?」

 興が乗ったのか、アーベルド卿の夫人がそう皇妃に向けて訊く。さすがにたしなめようとしたとき、皇妃は今度は応えた。

「愛し合うとは何だ」

 皇妃の影で、侍女がわずかに苦笑したようにも見えた。ざわめきがその場を押し流す。それがどういう意味を持つのか、ルイーゼには測りかねた。言葉通りに受け取るのなら、やはり皇妃の元には陛下は通ってなどいないということになる。

 寝室が別という噂も有った。それが、真実だと。そう思って良いのだろうか。

 彼女が皇妃なのは、やはり、余計なことを周りにさせないための措置なのだろうか。思えば、それこそ祖父は先帝とも、現皇帝とも懇意にしていると言って良かった。それでいて、祖父から何か言って来たことなど無い。

 安堵とも違和感とも言えぬ心を消化出来ないまま、茶会の時間は過ぎていった。

 

 ***

 

 妾妃の周りは、茶会を境にして更に騒がしくなった。噂を積極的に流す者が在るからだ。皇妃は飾りであると、否、飾りにすらなっていないと。止めることも出来ず、さりとてそれを否定することも出来ず、ルイーゼはその中心に居た。

 居心地は、けして良いものではない。狂騒というのは、実に厄介だ。そんな噂が広がり、それをルイーゼが流していると思われたら、非常に拙い。しかし、彼の人の耳に入っているのかいないのか、薔薇の宮に現れる皇帝の態度は平素と変わらぬものだった。

 けれども、その夜、その口から発せられたのは、ルイーゼにはにわかに信じがたいことでもあった。

「わたくしが、同行する、のですか」

「勿論、危険の無いよう配慮しよう」

 どうか、と訊いて来る言葉を拒む力も、拒む理由もルイーゼには無かった。

 同行せよと言われたのは、端的に言えば山賊退治である。王国との国境となっている山からほど近いダルモニという領地に山賊が現れるらしい。王国から来ているのでは、というもっぱらの噂であった。事実であれば由々しき事態である。

 帝国と王国とを分つ山脈は、厳しい場所ではあるが、けして人が通れないわけではない。どころか、先帝は騎士団を連れてそこを越えている。王国からというのも根拠の無いものではない。

 そうして、その討伐にルイーゼが同行する。

「なぜ、でございましょう」

 ようよう訊いたルイーゼに、皇帝はわずかに笑ったように見えた。

「説明せねばなるまいか」

「いいえ、いいえ」

「嫌だと言ってもかまわないぞ。配慮すると言ったが、危険はまったく無いとも言えない」

 平素に比べ、優しくも聞こえた言葉に思わず首を横に振った。

「行かせていただきます」

 また一つ、皇帝は頷いた。

 続く、その夜の口づけは、いつもよりもずいぶん甘く感じられた。


 同行のための準備はすぐに始められた。寝起きも食事も共に、と皇帝陛下から伝えられている。そうなれば尚のこと、共に行く侍女も、運ぶべき道具類の細部に至るまでも、慎重に選ばなければならなかった。

 アイネスブルクを初めとする、北方に領地を持つ者たちは、武門に連なる者も多い。現在の副将軍もアイネスブルクの縁者である。それに、そもそも皇帝陛下があまり華美な物は好まないだろう。

 忙しさにかまけて、ルイーゼは噂のことなど気に留める余裕も無かった。妾妃を連れて行くというのも内々の話でなく、既に宮廷中が知っていた。追従は相変わらず煩わしかったが、出立してしまえば耳に入ることもあるまい。

 しかも、敵と呼べる敵は皇妃以外には居なかった。陛下が噂について何も言わないのは、ある意味ではその証左だった。

 一日だけ、不安な日が有った。

 皇帝陛下が、来ることが出来ないと使いしてきた時が有った。それを伝えて来たのは、皇妃付きの侍女だった。怪訝に思いはしたが、翌日の夜にはやはり変わることなく陛下は居らしていたから、それ以上に気を回すことを止めた。


***


 妾妃を山賊の討伐へと連れていく。それは、もちろんアイネスブルクにも伝わっていた。物見遊山でもするつもりかと言う者もある。

 アイネスブルクは帝都の北、海こそ氷に阻まれているものの、豊かな耕地に恵まれ、国境の騎士団からも近い土地だ。土地の名は、代々の領主の名でもある。

 もっとも、領主と呼ばれてはいても、その実はもう違う。先々帝の頃にほとんどの権限は剥奪されていた。どこの領地も同じ状況である。アイネスブルクは、比べればかなり良い方ではあった。

「変わらぬな」

 報せを受けたコンラートは呟いた。呟きは誰にも咎められることはなかった。アイネスブルクの屋敷にて、同席していた者たちはコンラートを除いて皆が浮かれていた。あの、皇帝が山賊の討伐などにまでルイーゼを同行させるのは、やはり寵愛有ってこそのことだと。ルイーゼが子を生めば、アイネスブルクも安泰だと。

 当主であるコンラートの冷めた目にまるで気付かず、彼の娘婿や、ルイーゼの兄たちは喜んでいるのだった。

 皇帝がルイーゼを連れて行く理由の一つは、確かにルイーゼに子を生ませる為だろう。コンラートが考えられうる限り、確かな理由はもう二つある。一つは、アイネスブルクに対する牽制けんせいだ。

 そもそも、山賊が、あるいは騎士団の類が王国から来るというのは今の時分は有り得ない。可能性としてまったく無いではないだろうが、先だっての戦で露呈したのは、やはり新たに立った女王の未熟さである。この上、現段階で皇帝に侵略の口実を作らせるのはまったく得策ではない。

 また、そうでなくとも山賊が居たとして、それが皇帝の手を煩わせねばならぬほどの勢力を短期間でおこしたというのはやはり考えにくい。まして、皇帝が本当に物見遊山などは論外である。

 それを踏まえた上で、ダルモニの街に山賊以外の者、たとえば皇帝に反旗をひるがえしたい者が居ると考えると、ルイーゼを連れて行く意味はがらりと変わる。

 アイネスブルクからもダルモニには騎士団領を経由するが街道は通っている。牽制と考えるのが妥当である。

 もう一つは、反旗を翻そうとする輩に対するものでもある。油断を誘うことも出来るし、最悪盾にも、あのアゼルヴァイドならするだろう。万一にもルイーゼに何か有った場合、それを口実に、国境付近は全て直轄地となる。

 どちらにしても手放しで喜ぶなど出来ないというのに。

 ルイーゼを妾妃に上げたこと自体は良い。溜息を殺し、浮かれる者たちを叱咤しったする。浮かれ騒ぐよりも先に、ダルモニ、国境騎士団領、及び帝都への密偵を増やして情報の収集を急がせる。

 とはいえ、皇帝はアイネスブルク自体には何もして来ない。今、そんなことをせずとも良いのだ。コンラートが居なくなるのを待つだけ。それで良い。

 悩むことはもう一つある。ルイーゼに知らせるべきか否か。ここに来て、コンラートはルイーゼを惜しんでいる。

 しかし、才能があるものを愛しているのも事実である。

 この局面をルイーゼはどう捉えているのか。冷静で居られているだろうか。そうして、どう行動するだろうか。

 もし、コンラートの予想を越えて、彼女自身が望む地位を得られるのなら、それは確かに喜ばしいことである。


 ***

 

 帝都からダルモニの街は馬でおよそ五日の距離にある。

 途中、アーベントにも立ち寄り、皇帝の一行は順当にダルモニに到着した。山を背にした町は昼日中であるのに静まり返っているように見えた。山に雪も積もっているから、既に町中にも雪が残っているのかもしれない。

 名目は山賊の討伐だから、随行している騎士は百人。妥当なのかどうか、ルイーゼには分からなかった。

 ダルモニの領主との話し合いには、ルイーゼも同行させられた。無論、他にも近衛騎士団隊長とその副官も一緒だ。ルイーゼの席は当然のように皇帝の隣だった。

 ダルモニの領主は、グスタフ・アーマン・ダルモニという。四十を越えたばかりだが、肥えた体はそんな風には見えなかった。

 好奇とも驚愕とも見える視線をルイーゼに送った以外には得てして皇帝を前にすればそうするだろう、というごく当たり前の態度である。些か、卑屈にも見えた。

 軍議の終わり間近、ほとんど指示されるままだったダルモニが皇帝に対して口を開いた。

「ルイーゼ様もご同行なさるのでございましょうか」

「無論だ」

 ダルモニは何とも言えない表情になった。呆れとも憤懣ともつかない。

「陛下。恐れながら、このような掃討に妾妃様を連れて歩くのは如何なものか。どうか、こちらの館にお留置きくださいませぬか」

「そのような気遣いは要らぬ」

「ですが」

 言い募ろうとするダルモニを皇帝は視線だけで黙らせた。慌てたように礼をするダルモニの表情は分からなかった。

薔薇の君ルイーゼは余の傍に。十二分に安全な場所だ」

 そこまで言われてしまえば、他の誰も反論出来るはずもない。結局、それでこの軍議は終了した。

 ルイーゼの目には心なしか、皇帝の機嫌が良いように見えた。


 ここで行われようとしているのが自身を暗殺する計画であると、皇帝はとうに把握していた。首謀者はここの領主であるダルモニ。近衛騎士団の一隊長である、ダニエル・ハーゲン。そうして、皇帝が到着した後に、その騎士団を率いて来るはずだった、シュスシルト要塞を守る騎士団の長である、ライムント・アーダム・ディックハウト。

 ただし、ライムントはここには到着出来ない。副団長より密告が既に有り、皇帝がダルモニの街に移動していた間に捕縛が完了している。こちらへの知らせは、別の部隊を配置して阻止している。

 また、他の二人もあまりの人望の無さか、その裏付けを取るのにさしたる苦労は要らなかった。皇帝とは別に、密偵を入れていた宰相が呆れかえるほどだったのだから、推して知るべしである。

 皇帝を誘い出し暗殺する。そのまま帝都に進軍して中央騎士団を討ち、当座はルイーゼを帝位に就かせる。そうしておけば、少なくともアイネスブルクは味方になり、そうなれば、他の領地、騎士団も彼らのもとに下るということらしい。上手くいけば、王国からの援助も有ると一見それらしく聞こえることまで、ライムントは話していたそうである。

 あまりに稚拙ちせつである。

 ダルモニに関しては、他にも監察官より帝都に申告されていない税を住民に課していたことが確認されている。だから、この件が無くとも処罰する予定だった。ハーゲンに関しては、どうやら借財があるらしい。為にこの計画に乗ったようだった。

 だが、聞く限り、予想と期待に負うところが大きい。いささか大きすぎる。これでは、この計画に乗る方が馬鹿げている。道理で王国から将軍の使者が密かに来るはずだ。

「勝手に援助を期待されてはなはだ迷惑している」とは、使者の、そうしておそらく王国将軍の率直な意見だったろう。

 とはいえ、こちらとしてもまったく油断が出来るかというとそうではない。論理に寄らない計画は、時にこちらの予想を越えて来る。だから皇帝も迎え撃つことにしたのだ。

「阿呆どもが」

 口の中で呟いたそれを、ルイーゼが聞きつけたらしかった。不安気な表情を浮かべた娘を見やれば、何か口を開こうとしている。

「……陛下」

「何か?」

 ルイーゼにも何も知らせていない。その必要は全く無い。今の彼女の役割は毒見と盾である。 

 これで、この娘がたぶらかされるようなことが有れば、それはもう自身の見る目が無かったと悔やむしかない。

 街の城壁の外、やや離れたところに陣を張っている。山賊の掃討は明朝。ダルモニの話によれば、その辺りの時間が一番被害が大きいそうだ。ダルモニが、手の者に城壁の外の民家の略奪をさせている。その為、近隣の住人はここ最近の間城壁の中に避難していた。

 城壁近くまで来ることが多くなり、しかし、こちらから出て行っても風のように山へ戻ってしまうとはダルモニの弁である。

「陛下は、何故……」

 何を訊きたいのかまるで分からぬルイーゼの言葉を、皇帝はいぶかった。

「何故、私を同行させているのでしょう?」

「聞きたいのか」

 聞かせればどんな顔をするのか。正直に言って聞かせて動揺されてもそれはそれで困る。

「お役に立っているのか、分からずに居るのは不安でございます」

「間違いなく役に立っている。だから案ずることは無い」

 言えば安心したようだった。アイネスブルクの、あの狸の孫娘とはいえ、こんなところに連れて来るのは間違っていただろうかと思い直す。

 とはいえ、

「他の者では不足でな」

 事実を伝えれば、妾妃はわずかに、どこか嬉しげに笑みを浮かべた。次いで頭を下げて来る。

 皇帝とは難儀なものだとアゼルヴァイドは思う。ふと先帝を思い出したところで、天幕の外に人の気配がした。

薔薇ばらの」

 そっとルイーゼを呼び、引き寄せれば、驚いたように身を竦めた。

 次いで、外から聞こえて来るのはこちらを呼ぶ声である。少々意外だった。何せ、相手はシュスシルトの騎士団を少なくとも明朝までは待つだろうと踏んでいた。計画はそうなっていたが、とかく金が欲しい二人だ。当然、自身の取り分は増やしておきたいに違いなかった。

 押し込むでもなく、ただ丁重にこちらを呼ぶのはダルモニだ。相手は権威には弱い。外の様子が手に取るように分かる。ルイーゼが居るから手荒なことは出来まい。ここで少しでもアイネスブルクの機嫌を損ねることは出来ない。

 対し近衛隊長はさっさと事を済ませたい。実際、やるならその方が成功の芽はある。だが、それも近衛隊長一人では難しい。近衛隊百人、ダルモニ領に私兵を蓄えていたとしても千が限度だ。それでは帝都に上っても中央騎士団の相手にならないのは明白である。殺したのち隠匿しておけば良いとも思うのだが、やはりルイーゼの前でそれをし兼ねるという一事に於いて彼らは一致しているのだった。

 入れと命じれば、入口で近衛隊長が剣を向けて来る。その後ろにダルモニが居る。他に三人は傍に居る気配がする。ルイーゼが小さく悲鳴を挙げた。

「さて、何のつもりかな」

「なに、御身を面倒事から解放して差し上げようと思いまして。何とぞ、ルイーゼ様をそこに置いて出て来てくださるとありがたい」

 ハーゲンの口上に、思わずも皇帝は吹きだした。

「せっかくだが遠慮しよう。死んでしまっては楽しむものも楽しめぬ」

「楽しみたいのでしたら、あの下賤の妃殿下と共に天へ送って差し上げましょうぞ」

 皇帝は影で手にしていた短刀をハーゲンに投げつけた。狙い違わず、短刀はハーゲンの眉間に突き立った。ぐらりとその身体がかしぐ。

 首謀者三人は生捕りにする予定がこれで狂ってしまった。

 自身の短慮を心中嘆きながら、ルイーゼを置き剣を取り直す。

 ダルモニはまろぶように下がった。天幕の入り口近くで控えていた、予見した通り三人が一斉に剣を向けて来る。

 皇帝は冷ややかに彼らを見据えた。


 剣を向けていた者たちを斬り捨てたのが、ルイーゼにも見えた。皇帝陛下がダルモニに血刀を向けるとルイーゼの目にすら見苦しいと思うほど、彼は狼狽ろうばいした。それを陛下がどんな表情で見ているかは分からない。

 見る間にダルモニは気絶させられて皇帝自らの手で縛り上げられた。

 何か、ルイーゼの耳に鋭い呼び子のような音が聞こえた。次いで、皇帝陛下の前に斬り捨てた者の倍ほどの数の従卒と思しき者たちが現れる。

 皇帝陛下が何事か告げれば、彼らは死体を持って去って行った。血の匂いがする。また、天幕の前に立ったまま、さらに何事か言葉を発した。天幕の前、ルイーゼからは見えなかったが、伝令がやってきている。

「陛下……」

「すぐにダルモニの屋敷を抑える」

 呼びかけに応えるようにか、皇帝陛下はそう言った。


 門はすぐに開けられ、ダルモニの屋敷は制圧された。また、皇帝が密かに進軍させていた中央騎士団の一隊とも合流し、ダルモニの使っていた山賊役の傭兵を掃討させている。

 夜明け前には全て完了し、皇帝はダルモニの書斎に陣取って細々とした指令を与えていた。周辺の住民に被害が出ているのは事実であるから、それに関する補償も必要だ。

 皇帝は休む素振りなど微塵も見せなかった。

 ルイーゼはと言えば、こうなってしまっては何をか口を出すことも出来ない。ただ、二部屋を設けられて、侍女たちと過ごすのみである。

 休んでいて良いとは言われたし、侍女たちの部屋も別にある。不都合などあるべくも無い。しかし、ルイーゼはわずかな不安を覚えていた。具体的な形のない漠然とした不安は、ルイーゼの心に本当にわずかな、しかし確かな染みを作っていた。

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