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 わずかに一月ひとつきの間を置いて、ルイーゼは妾妃として宮廷に招かれた。

 ルイーゼは不満など無かった。当主である祖父が皇帝からの要請を受けた以上、それに逆らうのは意味が無いことであったし、何より、現状は彼女にとって最良とは言わないまでも、確かに喜ばしいことであったから。

 だが、彼女も不安はぬぐえなかった。得体の知れない皇妃の存在である。

 現在の皇妃はルントシュテット家の娘ということになっている。と言っても、これは「皇妃」とするのにただの娘では不都合だったために、ルントシュテット家の養子にした上で、皇妃として立てたからだった。

 ルントシュテット家自体は長く続く名家であるものの、決して力がある貴族ではない。その辺りもルントシュテットの家が養子にする上で選ばれた理由だろうか。

 そんなことは例を探せばままある話で、特に珍しくはない。

 ルイーゼが皇妃に対して不信感をいだくのはおおやけの場にはまるで出て来ず、どんな人物かを知っている者もほとんどいない点にある。病弱だというのがその理由だが、城の裏手に広がる森を歩きまわっているという噂もあり、真偽のほどは分からない。

 まして、どうして皇帝がそんな人物を皇妃にえているのか。

 こればかりはまるで考えが及ばない。皇妃は子を成すことが出来ないという噂まである。

 普通の男女なら、情愛じょうあいが理由になるだろう。皇帝と皇妃であっても、それならばルイーゼにも納得が出来る。ところが、皇帝は女官長が難色なんしょくを示すほど、皇妃に対してそんなものを示す様子が無いという。少なくとも、そんな噂が出るほどの仲だと思うしかない。

 ルイーゼは、鏡に向かって溜息をついた。

 見返して来る自分は、母によく似ているらしい。真黒でまっすぐに伸びた髪に、少し厳しそうな同じ色の瞳。白い肌と、小柄ではあるが、すらりとした、しかし程よく丸みを帯びた体。まとった寝間着まで完璧な線を描いて見える。そうでなくてはならなかった。

 それを確認して、溜息の代わりに唇の端を持ち上げた。

「ルイーゼさま、」

 慌てたような乳母の声と、無礼にも何の確認もなく開かれた扉に、笑んで見せた顔はすぐに怪訝けげんなものになった。同時に、その瞳は驚きで見開みひらかれた。姿見すがたみに映りこんだその人の影に信じられずに振り向いて、けれども、言葉は唇から先には出てこなかった。

 その人は乳母を下がらせ、何らこたえを求める風でもなく言葉を発した。

「ルイーゼ・アイネスブルクか」

 まるで、何か罪を犯したような気がした。周囲が凍りついたような錯覚すら覚えた。こんなに冷たい声を発する人だったろうか。

 慌てて膝をつくも、なおも自身の声は戻らない。ひざまずいたことで、大柄なその人が更に大きく見える。見下ろして来る瞳に、以前に見た優しい光は無かった。

 目の前に居るのが皇帝であるということ、それがアゼルヴァイド・フォン・ビスマルクであるということを理解するのに時間を要した。だが、それをとがめられることは無かった。ただ、戸惑って見ていた為か、ふと皇帝は笑みを浮かべたようだった。

 それで、ルイーゼも少し安心出来た。

 しかし、どうして皇帝陛下自らここに居るのか。どう問えば良いのか、どう応えれば良いのか、まるでわからずにルイーゼは居た。

 いや、どうして皇帝がここに居るかなど分かってはいるのだ。離宮に落ち着いて三日。皇帝陛下がいらっしゃると使者が来ていたのに。それでも、こんな風に訪問されるなど、まったく思ってもいなかった。先触さきぶれも無く、ただ一人、伴も連れずに。

「確認しようか」

 ほんのわずかに声に温かみが差した気がした。気がした、だけだった。温度の無い言葉で告げられるのは、至極義務的な事柄で、こんな場に相応しいとは思えなかった。否、どんなものが相応しいのかは、ルイーゼは知らなかった。

「不安か」

「、はい」

「案ずることも多々あるだろうが、そなたがするべきことは何より余の子どもを生むこと。それ以上も以下も無い」

「はい」

 安心して、良いのか。

 そう思った時には温かい手に抱き上げられて、寝台に乗せられていた。強張こわばる体を想像したよりも遥かに優しく撫ぜられて、ルイーゼはそれでようやくに息をついた。ついた息が熱くなっていくのに、さほど時間はかからなかった。


 ***


 現皇妃の身の周りの世話をする者は実に限られている。「皇妃」という立場からはずいぶん少ない。公式に人と会うことなど滅多に無いし、誰かが会見を望んだとしても、断られるのが常だそうだ。

 他の貴族の夫人や娘たちとも違い、自分で服を着ることは彼女にとっては当たり前のことだ。服自体も実に簡素である。それこそ、一人でも着られるような物だ。とはいえ、さすがに部屋にまったく一人で居ることはなく、侍女が一名だけ常に付き従っている。

 普通の貴婦人なら衣装を着るのにも化粧をするのにも、その為だけの侍女が幾人も居る。ルイーゼもその例に漏れない。

 居室もさほど広くはないという。皇城は中央宮の一角にひっそりと有る。

 掃除も衣服の手入れも、各々決まった女官たちが行っている。皇妃の身の周りに居る一人も含め、出入りするのは決まった者たちだけだから、他の侍従や女官は、皇妃の部屋がどの辺りにあるかすら知らない者は多い。まして、先帝は妃を迎えぬままに亡くなったから、皇妃自体が不在の時間も長かった。城の中の者も、それに慣れきってしまっている。

 けれど、あまりにも目立たない。

 どうしてそんな風かと言えば、「皇帝がそうさせているから」だ。くまでも噂だが、寝室でさえも皇帝とは別らしい。

 ほぼ全て、ルイーゼへの客人が語ったことである。半分は追従ついしょうと共に話されたことだ。これらの言葉の後は大抵、いずれは貴女様が皇妃に、と続く。辟易へきえきする。

 とはいえ、その言葉もそれほど根拠の無いものではない。そも、皇帝が即位して早々に妾妃をめとった理由が、皇妃が子を望めない体だからというのである。どうも、こちらは確からしい。まして病がちでもあるのなら、ルイーゼが子を宿し、皇妃が亡くなってしまえば自然とそういうことになるだろうし、そうでなくても、皇妃を廃そうという者もいるようだ。

 嘘か真か、皇妃は皇帝を裏で操っているという者まで居る。皇帝の為にも、という一見もっともな理由もある。

 皇妃に不満を持つ者は多い。可笑おかしいのは、皇妃に会えた者はその中には居ないことだ。

 ルイーゼも直前で断られるやもしれぬと考えている。申し出は受けてもらえはしたが、会う者をどうやって決めているのか、それも定かではない。本当に病がちであるなら、体調にも左右されるだろう。

 聞いたとおり、中央宮の片隅に皇妃の部屋は有った。見張りの姿も有るには有るが、言われなければ、それが皇妃の間の為だとは分からない。

 侍女の一人に、参上を告げさせる。すると、静かに扉が開いて、一人だけ女官が出て来た。皇妃付きの侍女というのはこの者だろう。黒髪を肩の辺りで切り揃え、女官のお仕着しきせを着ている。妾妃とその侍女たちを見やって、実に綺麗な礼を返してくる。そうして、皇妃の部屋でない、別の控えの間を指した。

「付きの方々はどうぞあちらへ。妃殿下は妾妃さまとだけお会いになります」

 めんらったのは共に謁見するつもりで来た侍女たちである。彼女たちもまた、中流以上の貴族の娘たちであるし、家格はともかくも地位でいえばルントシュテット家よりも上の身分の女も居るのだ。

 わずかなざわめきにも相手は動じない。ルイーゼも、意外には思わなかった。

「ご安心ください。あちらも準備は出来ております」

 機先を制される形で言われて、見苦しくないよう、それに従うように伝える。何せ、あちらは皇妃付きの女官……あるいは侍女なのである。これから後にどうなるかはわからないが、今はあちらに従うのが筋だ。

 そうして、皇妃の間の扉は開かれた。


 噂の通りだろうか。確かに部屋自体はそれほど広くない。けれど、大きな窓とバルコニーがあって、壁も象牙の色だ。その所為でずいぶん明るく広く見える。

 なるほど、豪奢ごうしゃという点では見るべきところは無いかもしれない。しかし、明るいが落ち着いた雰囲気だ。家具の細工も中央宮の常、見事と言うに尽きる。

 大きな窓を覆うように、薄いレースがかけられている。

 それに背を向けて、こちらを見ている女。瀟洒しょうしゃな椅子に着いて、ずいぶん穏やかな様子でこちらを見た瞳の色は、瞬間、ルイーゼの言うべき言葉を忘れさせた。

 鮮やかな、金と青に捕えられた。

 しかし、その目には何の感情も浮かんでいないように見えた。それで、ルイーゼは幾分自身を取り戻した。

「お初にお目にかかります、皇妃殿下。ルイーゼと申します」

 妾妃としてこの場に来ることに、ルイーゼはわずかな躊躇ちゅうちょも無かった。望みはある。皇妃となるに相応しいのは自分であるという自負もある。

 対する皇妃は、その顔色も表情も声音も何一つ、その穏やかな様子から変わらなかった。

「よろしく、ルイーゼ」

 微笑ほほえんだ様子は、ただの娘のように映る。それ自体が光を発しているような銀の髪に、非常に整った顔かたちは確かに美しい。それでいて、いや、だからこそかもしれない。作り物めいて見えることも事実だった。

 そんな風に注意してみれば、その微笑びしょうも何処か空々そらぞらしいものに映った。ところが、それを察したのか、別の理由か、皇妃はわずかにその表情を変えた。

「嫌、か」

 何が、なのか。まるで意図が掴めなかった。

「わたしの機嫌をうかがうのも、何かの役目なのか」

 ルイーゼは、一瞬、何を言われたのか分からなかった。理解はしても、やはりその意味が分からなかった。だから、正直に答えた。

「御機嫌をうかがっているつもりはございません。ただ、そうするのが礼ですから」

 皇妃はその言葉に納得したようだった。

「そうか、詮無せんないことを聞いた」

 だが、何をどんな風に理解したのか、その言葉からはやはり分からなかった。

 ただ、ここに来て、ルイーゼは思い当ることが一つ有った。

 皇妃は市井しせいの出である。こんな風にされることも、理解の外なのかもしれない。

 そう気付いてしまうと、ルイーゼの方も惑ってしまった。やはり、本当にただの娘なのかという、そんな感想に寄りたくなる。

 そうであるなら。

 ……それはそれでルイーゼには好ましいものではなかった。

 けれども、彼女のそんな予想を否定するのは、先だっての皇帝、アゼルヴァイドの様子である。

 まるで人が変わってしまったような、という印象は拭えない。それは彼女だけの印象ではなく、ただの噂というでもなく、彼の昔を知る者、多数の意見だ。

 そんな風に自らを変えた者が、わざわざ何も出来ない娘を皇妃に据えるか。

 容易に信じられなかった。

 しかも、この部屋には実に最低限の物しか置かれていない。あまりにも、簡素に過ぎはしないか。

 そう思って見れば、皇妃は皇妃であるにも関わらず、装うこともしていなかった。白の衣装はそれだけで、何か流行はやりを追うこともなければ奇抜というでもない。

 どちらかと言えばやはり市井の者が着るものに近い。刺繍も紋様も無い。染められてもいない。のままの絹だろうか。いっそ珍しい。

 皇妃だというのに。

「座らないか、ルイーゼ。それとも、もう良いか」

「もう、良いとは、それこそ失礼だとは、思いませんか」

「ルイーゼは皇妃に会いに来たのだろう。義務ならこれでしまいだ。わたしは妾妃に何も言わない。妾妃についても何も言わない」

「それは」

「義務でないなら」

 そう皇妃が言ったところで、侍女が皇妃の前に茶器を支度する。どうするのか、と態度だけで示して来る。

「……いただきましょう。ですが、妃殿下」

「カノン」

 それが、皇妃の名前だと。知ってはいたが、本人の口からそう言われるとは思いも寄らなかった。そう、呼べということなのは分かった。

「妃殿下に親しくしていただくこと、そのお気持ちは嬉しゅうございますが」

 それ以上に言葉は出なかった。親しくするつもりは無かった。いや、そう言われることなど予想もしていなかった。

 ただの庶民の娘から、急に皇妃のかんむりを与えられた娘。もっと有頂天になるものではないのか。そうでなければ、もっと戸惑い萎縮いしゅくするものではないのか。

 目の前の皇妃はどちらでもなかった。

「その、そのようにするのは難しいことです」

「そうか」

 戸惑いも慢心も無い。本当に?

 それは、諦観ではないのか。噂ではなく本当に、皇帝陛下は彼女のもとに来ていないのではないか。

「そうお呼び出来るように、もう少し妃殿下のことを知りとうございます。近い内に茶会など催そうと思うのですが、妃殿下をお招きしてもよろしいでしょうか」

 これは、本心だった。

 まったく、分からない。ならばなんとかこの場から、この皇妃の場から自分の場所へと連れ出すのが良い。しかし、これは一種の賭けである。これまでの皇妃の噂に照らし合わせれば、むしろ断られるのではないか。

「かまわない」

 けれども、そんな考えも皇妃は砕いてしまった。あっさりと承諾されてしまえば、安堵よりも不安の方が先に立つ。

 敵ではないのか。考えが過ぎるのだろうか。

「楽しみにしていよう」

 微笑は変わらない。

 その後、卓に着きはしたが、何をどう話したのか、ルイーゼはほとんど覚えていない。当たり障りの無いことを話したように思う。対する皇妃の表情はあまり変わらなかった。

 考えてみれば同年代なのである。だが、ルイーゼが知っている同じ頃の年齢の者は少なかったし、そうでなくとも傍に居る者は親しくしているが、友と呼べるかというとこれも疑わしい。

 喜ぶべきなのか、それとも、変わらない表情を疑うべきか。

 分からないのは、皇妃なのか、自身の心なのか。それとも。

 何にせよ、ルイーゼにはこの娘がどうして皇妃なのか、まるで分からなかった。


***


「茶会、か」

 薄暗い部屋に、静かな声が響いた。懐かしむ風でもあり、どこか揶揄やゆするようでもある。実際、皇帝はその響きを楽しんでいた。

「はい、茶会でございます、陛下」

 皇妃の部屋だった。前には皇妃付きの侍女がひざまずいている。

 妃による茶会など、もう幾年も行われていない。皇妃が空位だった期間は二十年近くになる。先々帝の皇妃は皇帝ヴィルヘルムの在位六年目に病が流行った折亡くなった。このときにアゼルヴァイドの母もまた亡くなっている。

 先々帝は病弱を理由に、その後は皇妃も妾妃もめとることはなかった。だが、皮肉にも在位は健康そのものだった先帝よりも長かった。先帝は、妃を娶る前に戦死した。

 主だった臣下の夫人を招き、茶会を開く。妃としての地位の誇示であり、確立でもある。茶会や夜会、著名な学者を招いての勉強会、有名な詩人を招いての宴。

 どれだけ、趣向を凝らせるか。どれだけ、贅を費やせるか。

 妾妃には自由を許している。公費も十分に割いている。彼女はそれを巧みに、有意義に使っている。実際、頭の良い娘である。その程度のことは何の問題も無くやってのけるだろう。妾妃として十分に。

 問題があるとすれば。

 アゼルヴァイドはそう胸中で呟いて、打ち消した。

「任せよう」

かしこまりまして」

 報告を終えた侍女は退出していく。アゼルヴァイドは侍女が退出した側とは逆の扉を開いた。

 大きく取られた窓は厚いカーテンで覆われている。灯りは一つだけ。そうして大きな寝台が一つ。その上に丸くなるようにして、銀色に輝くような娘が眠っている。入って来た者にはまったく気付かない。

 それを見て、アゼルヴァイドはふと笑みを漏らした。

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