ふたつ 恨み、売ります

無意味なこと

 ルーシーは、また新たな依頼のために、街を歩いていた。コートは春物に変わっているが、やはり色は黒。それが、照り慣れぬ陽に伸びる影のように、アスファルトに曖昧に滲んでいる。



 神社の前で、アルバイトもしくはこの神社の娘といった風の巫女姿の若い女が、道に落ちたゴミを拾い、清めている。ルーシーは歴史には詳しくないが、昔ならば、おそらく、人は間違っても神社や寺の前にゴミなどを捨てたりはしなかっただろう。


 娘が取り落とし、求めるように足元まで転がってきたビールの空き缶を、拾ってやった。

「ごめんなさい」

 娘は、ちょっと眉を下げて笑い、ゴミを入れる袋を差し出した。

 ルーシーは笑わず、無言でその袋に空き缶を入れてやり、先にゆこうとした。


「もし」

 若い声が呼び止めてきたから、立ち止まった。振り向かないのは、顔を覚えられることに抵抗があるため、あまり人に関わりたくはないからだ。

「ご親切のお礼に、これを」

 娘は、懐から御守りを差し出してきた。ちょっと手に取ると、娘の温もりがそこに残っていた。

「要らない。神仏は、信じていない」

 それを、無造作に返そうとしたが、押し付けるようにして御守りを渡してくるので、仕方なく受け取り、コートのポケットに入れた。


 娘はにっこりと笑った。

「よいお詣りでした」

 口に染み付いているのか、そう言って、ゆったりと頭を下げるのだ。

 立ち去ってから、コートの中の御守りに、まだ温もりが残っているような気がした。もう何年、人の温もりに触れていないだろうか。


 ルーシーが触れる人の体温とは、刃物を突き刺すときの血の温度か、首を締め上げるときの断末魔の熱くらいしかない。

 ただ買い、数え、積み上げる。何のためにかは、ルーシーにも分からない。

 ポケットの御守りは、何から、何を守ってくれるというのだろう。

 ルーシーは、今から、人を殺しにゆくのだ。



 このところ、依頼が以前よりも多い。伸が言うには、ネットの一部で、噂が広まっているらしい。それでもルーシーに接触を持つにはよほど熱心に探さなければならないことに変わりはないから、持ち込まれる依頼は、どれも、どうにもならぬ恨みに満ち溢れていた。


 理不尽と身勝手と、憎しみと。それを受け、恨みを晴らしたいと依頼してくる者もまた、理不尽と身勝手に頭頂部まで浸かっていた。


 今回のはかつて少年犯罪を犯した者で、強盗、強姦などにより服役し、出所してきた者である。


 服役して法律上は罪を償ったことにはなっても、その者が犯した罪は、永遠に消えることはない。少なくとも、当人や、出来事を知る人間が全員死ぬまでは。


 出所して新たな世に解き放たれる前に、あのけだものを、殺してくれ。と被害者の家族は言った。被害者は存命であるが、塾の帰り道に襲われ、財布を奪われた上に強姦されているのだ。やはり当人の恐怖や家族の怒りは永遠に消えることはないだろう。


 今も、被害者は、家族にすら身体に触れられることを怯えるという。夜道を一人で歩くこともできず、事件から月日が立ち、同じ歳の女性が大学を出て働いたり結婚したりしている中、部屋で一人で刺繍をしたり、アクセサリを作ったりして、それをネットで細々と販売しているらしい。そのことも、家族は拭えぬ悲憤として訴えてきた。


「あんたの恨み、買ってやるよ」

 明良ならば、心中お察し申し上げます、などと言うところであろうが、ルーシーは、人の心に寄り添うことはない。ただそれだけを言い、通話を終え、犯人が服役していた施設へと向かったのだ。


 

 ルーシーは、復讐屋である。

 どうしても犯人が憎いならば、依頼者が自分でそれをしないのは何故だろうか。

 結局は、人任せ。これもまた、ある意味での身勝手であり、理不尽である。



 その日の夜、ルーシーはその男の前に立った。

「あんた、恨みを買っているな」

 柔らかな手触りのコートのポケットに手を入れる。

 昼間の御守りの手触りが、そこにあった。

 ルーシーはそれを押しのけ、別なものを握った。

 それを闇の中で、音を立てて広げた。

 街灯の冷たい明かりの中で、光を放つそれはの腹を抉り、喉笛を破った。


 腹の動脈をかき切られて。

 助けを呼ぶ声の代わりに、喉からは、息の漏れる音。

 ゆっくりと、その若い男は死んでゆく。


 自らの未来と生命と引き換えに、彼は依頼者の娘の財布を奪い、本能のままに犯した。その代償が高いかどうかを量る天秤を、人間は持たぬ。

 ただ、依頼者の心の中にあるそれだけは、犯人の死をもってしてもまだ足りぬほどに傾いている。


 依頼者は、それで気が晴れることなどないのだ。犯人の死は、決して戻らぬ時を戻す代わりに得ることができる、せめてもの、副次的な充足でしかないのだ。


 あの日、迎えに行ってやっていれば。あの日、外に出ていなければ。あのとき、ああ言ってやればよかった。もっと、こうしてやりたかった。その還らぬ全てを叶えるには、時を戻すしかないのだ。

 だから、犯人が逮捕され、法で裁かれ、一定期間の務めを終え、それで罪が無くなるという風にはどうしても思えぬ者が、少なくともルーシーの見る限り、多くいる。


 犯罪被害者の会を結成し、共に痛みを分かちあい、国に働きかけ、法による裁きの厳罰化を求めるのもよい。しかし、当人にしてみれば、それも、「せめて、自分の守りたかった、あるいは失いたくなかった人のような人を、増やさぬために」という動機に過ぎない。


 それ自体は、高潔な志である。だが、根本的な解決にはなり得ぬ。

 解決する方法が、無いからだ。



 ゆえに、ルーシーのすることにも、意味などない。

 人の恨みにも、あるはずだった輝かしい未来にも、それを奪われた悲しみにも、興味はない。彼の行動に、何の意味もないのだ。彼は、人類が為しうる中で最も非生産的で、非効率的な手段を用い、をしているのだ。


 だから、彼は、無意味にこの若い男を刺し、刺されたこの男は、無意味に背中を上下させながら息をしようともがき苦しみ、うつ伏せになった腹から血を流している。

 ルーシーはそれをただ見下ろし、命が少しずつ細くなってゆくのを確かめ、立ち去った。


 右手に握った光は折り畳まれ、ポケットに収められた。

 また、御守りのざらざらとした手触りがそこにあった。

 そこにあった温もりは、もう消えていた。

 温もりが空気中に放散され、消えてゆくようにして、ルーシー自身も夜の闇に消えていった。

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