まとわりつくもの

 尾けられている。

 伸は、何となくそう感じた。感じたからには、振り返ってその相手を確かめるようなことはしない。彼は、ルーシーの手伝いをしながら、自分の恨みを晴らしてもらうつもりなのだ。

 何なら、自分でそれをしてもいい。最近は、そう思うようになっていた。


 ルーシーは、たぶん、狂っているのだ。

 警察でも裁判官でもなんでもないただの会社員が、人の恨みを勝手に買い取り、殺人を行うなど、どう考えても常軌を逸している。


 しかし、ある一方で、伸は、それが正しいことのようにも思えていた。

 ルーシーでなくては、晴らせぬ恨みもある。それで、罪が消えるわけでもないし、誰が救われるわけでもない。しかし、ルーシーにしかできぬことがあると、彼はどこかで思っている。

 そして、自らの得意なインターネットやパソコンの技術でもって、その手伝いをすることに意義を感じている。


 彼にも、ルーシーのことは分からない。どこの生まれで、どんな少年時代を過ごしていて、どんな食べ物が好きなのか。

 ルーシーという男については、福田明良としてあかり葬儀社に務めているほかには、何も分からないのだ。よく伸のワンルームマンションに入り浸るが、どこに住んでいるのかも知らない。


 飯を食う時は、二人でコンビニの弁当やカップラーメンを食う。ルーシーの嗜好が分かると言えば、せいぜい、そのカップラーメンが決まって豚骨味であることくらいか。煙草も吸わず、酒も飲まない。復讐の代行を楽しむでもなく、一体、何を糧に生きているのか。


 そのルーシーと、家で待ち合わせをしている。すぐに怒鳴り声を上げる嫌な店長のいる居酒屋でのアルバイトの給料を受け取り、マンションへと帰るところなのだ。

 

 やはり、尾けられている。

 伸は、歩幅を大きくした。後ろの気配も、それに付いてくる。

 彼自身は、誰かに尾行されるようなことをした覚えはない。

 あるとすれば、間違いなく、のことだ。


 もうすぐ、マンション。

 もし、尾行している者が伸の家を特定しておらず、生活圏のみを特定して尾けているのだとすれば、逃げ込むことで、家を知らせることとなる。


 マンションは眼の前であるが、それを通り過ぎ、交差点を曲がった。

 前方に、人影。

 足を止めざるを得ない。

 頼りない街灯の光に、その影は浮かんでいた。

 後ろからも、人影。尾けてきた者だろう。

「復讐代行屋の身内か」

 男の声。やはり、ルーシーの方の客だった。

「復讐代行屋?」

 伸は、わざと明るい声で言った。

「来てもらうぞ。探すの、苦労したんだ」


 この男どもが何者かは分からぬが、おそらく、ルーシーが誰かの恨みを買い取り、殺した者に繋がりを持つ者であろう。

 復讐に対する復讐。

 恨みを晴らすことで、それはまた新たな恨みを生み、連環のように繋がってゆくものらしい。


 しかし、伸は、だからといって、自らの身をこの男共に差し出し、ひどい仕打ちを受けてルーシーのことを吐かされ、彼らの復讐を果たさせてやるほどお人よしではない。

 前方の男に向け、突進した。

 昔、運動部に籍を置いていたことあるが板にはつかず、体も細い。喧嘩など、もってのほかである。その伸の突進を男は軽くいなし、転んだ伸の腹を思い切り蹴りつけた。

 伸の横隔膜は収縮し、肺は絞り上げられ、胃の中のものが出てしまいそうになった。それを、咳き込むことで、身体がひとりでに回避した。


 また、男の足が来た。伸は、生物としての反射で身を丸めたが、男のつま先がみぞおちを抉り、また息が止まった。

 咳き込んで転がりながら、サッカーボールの気持ちが少し分かる、と馬鹿馬鹿しいことを考えていることに、少し驚いた。


 きっと、どこか暗いところに連れて行かれるのだと思った。指を折られたり、顔を殴られたりして、ルーシーのことを吐かされるのだ。それならば、伸はルーシーのことを何も知らないから、吐きようがない。大丈夫だ。

 いや、そうすると、更に強く、長く責められることになる。やっぱり、もっとルーシーのことを知っておいた方がよかったのかもしれない。


 耳鳴りを聴きながら、伸は、自分の人生のつまらぬことを思った。彼が恨みを果たしたい相手というのは、姉を殺した者だった。姉は、ある日、どこの誰とも分からぬ者に、いきなり殺された。あれから五年、未だに、伸は誰に恨みを抱けばよいのか分かっていない。


 ただ行き場のない憎しみだけが、傷口を覆っても覆っても溢れ出てくる血液のように心の中からこぼれてゆき、その度ごとに心が痩せ細ってゆくように思う。

 果たして、そのような人生に、意味があるのだろうか。どうにかして、まともな生を取り戻したいとも思っていた。しかし、無理なのだ。伸は、自分のその恨みを、どうにかせぬ限り、先には進めないのだ。


 だから、伸にとってのルーシーとは、救いの神にも等しい。

 恨みを晴らしたところでどうなるわけでもないし、姉が戻ってくるわけでもないが、そうすることで、ようやく先に進めるのだ。少なくとも、自分でそう思っていた。


 どうにかして、逃げなければならないと思った。

 捕まり、一生引きずることになる傷を受けたり、はずみで死んでしまったりしたら、何にもならないのだ。

 ルーシーと、自分を守ることで、はじめて伸はために歩めるようになるのだ。おおよそ、人のすべきではない手段を用いて。

 だから、ルーシーは、神様なのかもしれない。今、伸のうつろな頭の中で、それはもはや祈りになっていた。



 ルーシーは、無論、神などではない。

 神は呼んでも来ぬことが多いが、ルーシーは、じっさい、来た。だから、神ではなかった。

 それを、伸は、街頭の薄っぺらい白の中、一点だけ光を飲み込むようにして立つ黒の存在によって知った。

 その黒は、白を背負い、なお黒であった。


「なんだ」

 思ってもいなかった距離にいきなりその影が現れたから、二人の男は驚きを隠せない。

 ここで、刃物を抜き連れた男達を相手に華麗なチャンバラを演じ、それを懲らしめ、動けぬ伸に手を差し伸べたならば、ルーシーは人であったろう。しかし、違った。


 彼は無言で、歩む速さを変えることなく進んだ。突然のことに対応しきれない男が、ポケットに手を入れた。そのときには、ルーシーの右手に握られたものが、男の腹に入っている。

 拳が腹に当たるまでそれを差し込み、手首を一度曲げ、更に捻り、傷穴を大きくする。男は、知覚が追い付かず、声も出ないようであった。その知覚が追い付き、苦痛への反射として声を出す前に、ルーシーは男の腹から赤黒いもののこびり付いた光を取り出し、逆手に握り直して喉を突いた。


 押し退けると、男は倒れた。即死はせぬが、どうせ死ぬ。その物体にルーシーはもう興味を失い、もう一人の方に歩き出した。男はこの季節特有の花粉へのアレルギーがあるのか、鼻を一度啜った。


「お、お前、ルーシーか」

 復讐代行屋のことを、調べているのだろう。だが、恐らく、誰かの使い走り。この男がルーシーに直接恨みを抱いているわけではなさそうである。


 どうでもよい。

 誰が、何を恨み、何をしようが。

 彼は、ただ数える。

 今夜は、ふたつ。


 男がポケットから取り出した刃物を、蹴り飛ばした。そして、また同じようにして腹と喉を抉った。


「伸」

 伸は、咳き込みながら起き上がろうとした。ここで、伸に手を差し伸べれば、彼は汚れながらもヒーローになれる。しかし、違った。

 上体だけを起こしたルーシーを見上げると、ちょうど頭のところに街頭が重なっていて、黒い影が光を放っているように見えた。

 その日蝕のような光る黒が、ぽつりと言葉を発した。

「喋ったのか」

 手には、二人の男の血が滴り落ちる、折り畳み式ナイフ。


 伸にとってのルーシーは、やはり神ではなかった。そして、人でもなかった。

 その名前のない存在を、このときの伸は恐怖の対象として知覚した。



 さっさとマンションに戻り、伸はベッドに横たわった。

 いつものことだが、ルーシーはテレビも点けず、散らかった部屋の中、小さなテーブルの前にぽつんと座っている。


 部屋に戻るとき、ドアの前に、コンビニの袋が置かれていたのに伸は気付いた。約束の時間にルーシーはここにいて、通りを足早にゆく伸を見、コンビニ袋を置き、追ってきたのだ。そして、助けてくれた。


 そうでも思わなければ、伸は泣き出したいほどの恐怖に支配されてしまう。それを避けるため、眼を閉じながら、必死にそう思い込もうとした。


 ルーシーが、いきなり立ち上がる。伸は、思わず眼を開いた。

 ルーシーが、玄関口にあるキッチンの流し台へと向かい、カップ麺の蓋を開く。

 どうやら、三分経ったらしい。

 蓋を開き立ち上る白い湯気が、まるで恨みを訴えかけるようにして、ルーシーにまとわりついていた。

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