殷仲堪3 廬山の慧遠
後進の育成に力を注いだ人である。
弟子の中にダラダラとした者がいると、
かれはその弟子に言っている。
「わしの言葉は桑榆の光。
夕陽がクワやニレの葉を
彩るがごときもの。
とても遠くは照らし出せぬ。
故に、こう願っておるよ。
そなたら若き者が、朝日のごとく、
時を追うごとに明るみを増し、
遠くまで照らし出してくれることを」
講義のために教壇に登れば、
その講義は常に明朗、
内容は常に使命感に燃えていること、
時が失われるのを焦っていること、
が伺えた。
故に弟子たちは、
師のその姿を前に粛然とし、
いよいよ敬慕の念を募らせた。
そんなかれに、
ここで殷仲堪、慧遠に質問している。
「
なにを根本として打ち立てられている
理論体系なのでしょうか?」
慧遠、答える。
「いわゆる、因果の世界の話です。
何かが起こることによって、
別の現象が起きる。
これらを取りまとめたもの、
それが、易なのです」
ふむ、と殷仲堪、更に問う。
「
東で鐘が鳴った。
つまり、これが易でしょうか?」
殷仲堪が持ち出してきたのは
いわゆる、おとぎ話である。
いや、そう言う事じゃねえよ。
慧遠、もはや突っ込む気にもなれない。
ふふっと笑うだけで
この質問には答えなかった。
遠公在廬山中,雖老,講論不輟。弟子中或有墮者,遠公曰:「桑榆之光,理無遠照;但願朝陽之暉,與時並明耳。」執經登坐,諷誦朗暢,詞色甚苦。高足之徒,皆肅然增敬。
遠公は廬山中に在り、老いたりと雖ど、講論し輟まず。弟子が中に或いは墮したる者有らば、遠公は曰く:「桑榆の光、遠きを照らしたるの理無し。但だ願うらくは、朝陽の暉き、時と與に並みて明るみたるのみ」と。經を執りて坐に登らば、諷誦せること朗暢にして、詞色は甚だ苦し。高足の徒は皆な肅然とし增ます敬う。
(規箴24)
殷荊州曾問遠公:「易以何為體?」答曰:「易以感為體。」殷曰:「銅山西崩,靈鐘東應,便是易耶?」遠公笑而不答。
殷荊州は曾て遠公に問うらく:「易は何ぞを以て體したるを為さんか?」と。答えて曰く:「易は感を以て體を為す」と。殷は曰く:「銅山の西が崩れ、靈鐘は東に應ず、便ち是れ易なるや?」と。遠公は笑いて答えず。
(文學61)
凄い。慧遠さん、
一瞬にして殷仲堪の育成を諦めてる。
慧遠
廬山は、
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