何充1  驃騎亡きあと  

何充かじゅう 全5編

 既出:成帝2、王導25、庾亮24

    王敦3



何充が死んだ後、その後継として

褚裒ちょぼうが召喚された。


褚裒が求めに応じ、

石頭せきとう城にまで来てみれば、

そこにいたのは劉惔りゅうたんと、王濛おうもう


褚裒が聞く。


「劉惔殿、何故このようなところに?」


劉惔、王濛を示しながら、言う。


「このお方を

 紹介しておきたく思ったのです。


 かれの清談はすごいですよ」


ほほう、そうなのかね。

褚裒が王濛を見ると、

やがて王濛は言うのだった。


「国には、おのずと

 周公旦しゅうこうたんのような方が現れるのですね」




何驃騎亡後,徵褚公入。既至石頭,王長史、劉尹同詣褚。褚曰:「真長何以處我?」真長顧王曰:「此子能言。」褚因視王,王曰:「國自有周公。」


何驃騎の亡き後、褚公を徵し入れる。既にして石頭に至らば、王長史、劉尹は同じきに褚を詣づ。褚は曰く:「真長は何ぞを以て我に處らんか?」と。真長は王を顧みて曰く:「此の子は言を能くす」と。褚は因りて王を視らば、王は曰く:「國に自ら周公有り」と。


(言語54)




何充、褚裒

ここからは「いわゆる名士ではないけれども、東晋政治史的に結構重要な人なのでピックアップします」的人物の話になります。まずはこの二人。ここに庾冰ゆひょうを加える事で、庾亮ゆりょう桓温かんおんの間で東晋の主導権を握るのに割と近いところにいた人たちが並び立ちます。けど主導権を握った、とはなかなか言いづらい。というのも晋書で扱いが雑な簡文帝かんぶんてい司馬昱しばいくさまがこの時期に主導権握ってたっぽいのです。なので彼ら、大物は大物なんだけど、どうしてもサブ的な扱いをせざるを得ない感じです。


周公旦

周の武王の弟。武王の息子、つまり甥の成王を助け、周の隆盛をサポートした。なのでこの人の存在は「王の親族が国を大いに盛り立てる」代名詞となっている。いっぽうの褚裒さんは康帝皇后褚氏の父親である。つまり外戚であり、そこから引けば王濛のコメントは「褚裒さん、当然善政を布きますよね、布いてくださいますよね?」的確認に近い。王濛ってめったに批評しなかったって言うけど、この辺の物言いとか、結構エグいですわよね……。



そしてこの話、晋書になるとまただいぶ趣が変わってくる。


永和初、復徵裒、將以為揚州・錄尚書事。吏部尚書劉遐說裒曰:「會稽王令德、國之周公也、足下宜以大政付之。」裒長史王胡之亦勸焉、於是固辭歸籓、朝野咸嘆服之。


言ってるのが王濛じゃないし、対象が褚裒じゃない。そもそもこちらにあるように、本来周公旦の立ち位置にふさわしいのは、明らかに會稽王=のちの簡文帝、司馬昱さまだ。なにせ彼は、当時の皇帝たちの叔父とか大叔父である。晋書もだいぶ簡文様の功績削ってる匂いがあるんだけど、世説新語はより簡文様を「清談できる司馬衷」とばかり印象づけたくて仕方ないようですねぇ……(じゅるり)

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