桓玄12 いとこと殷仲文 

桓玄かんげんは、常々自らのいとこたちよりも

殷仲文いんちゅうぶんのことを重く見ていたフシがある。



例えば、桓謙かんけんについては。


人々は良く、桓謙と殷仲文とを

引き比べていた。


そんな中、桓玄がふと庭先で、

殷仲文の姿を見かける。


その姿を見て、桓玄は周囲に言っている。


「うちの桓謙が、

 どうすりゃアレに及ぶって言うんだ?」



また桓謙の弟、桓脩かんしゅうについては。


元々桓玄、桓脩については

かなり軽く見ていた。


そんな桓脩、荊州けいしゅうから

京口けいこうに出鎮したときに、

立派な桃の木を持ってきていた。


桓玄、桓脩のもとに出向いて

桃をくれよ、と言う。

しかし、いい桃はもらえなかった。


このことを桓玄、

殷仲文に充ててしたためている。


「『国語』にも載っていたよな。

 徳が明らかであれば、

 蛮族の肅慎しゅくしんとて矢を献上してきた。


 しかし、どうだ!

 おれの徳が未だ及ばぬせいで、

 おれの庭先のものすら

 まともに手に入れられん」




舊以桓謙比殷仲文。桓玄時,仲文入,桓於庭中望見之,謂同坐曰:「我家中軍,那得及此也!」

舊きは桓謙を以て殷仲文と比す。桓玄の時、仲文の入りたるに、桓は庭中にて之を望見し、同坐に謂いて曰く:「我が家の中軍、那んぞ此れに及びたるを得んや!」と。

(品藻88)


桓玄素輕桓崖,崖在京下有好桃,玄連就求之,遂不得佳者。玄與殷仲文書,以為嗤笑曰:「德之休明,肅慎貢其楛矢;如其不爾,籬壁閒物,亦不可得也。」

桓玄は素より桓崖を輕んず。崖の京下に在りて好桃を有せるに、玄は連なり就きて之を求め、遂には佳き者を得ざる。玄は殷仲文に書を與え、以て嗤笑を為して曰く:「德の休明なれば、肅慎も其の楛矢を貢じたり。如し其れ爾らずんば、籬壁の閒の物、亦た得べからざりたるなり」と。

(排調65)



桓謙・桓脩

共に桓沖かんちゅうの息子。桓玄に従い、簒奪後は大権を得ている。しかし劉裕りゅうゆうのクーデターにより没落。桓脩はクーデター勃発時に真っ先に殺された。桓謙は桓玄の死後も戦い抜き、後秦こうしんしょく五斗米道ごとべいどうらと結んだが、最終的には戦死。二人とも桓玄陣営の中ではかなり存在感が大きく、そんな二人のことすら軽く扱っている節のある桓玄は敗北してもしょうがないだろう……と言う感想になる「ように仕向けられている気がする」。なんでこう劉宋の人たちはいちいち桓玄の鼎を軽くしたがるかなあ……奴が軽けりゃ軽いほど、劉裕のクーデターの功業が軽くなるでしょうに……。

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