殷浩5  殷浩さんと仏典 

中国にいつ頃仏教が渡ってきたかは、

はっきりとしたことはわからない。

前漢ぜんかん半ばころには到達していたようだ。

が、いまいち広がり切れなかった。


なので東晋とうしん代でも、未だ「不思議な異教」

的な扱いからなかなか抜け出せなかった。


例えば、簡文さまも仰っている。


「仏典では精神を磨き上げれば

 聖人になれると謳っているが、

 どうなのだろうな。


 高山の頂に辿り着いたからと言って、

 その山を支配できる、

 と言う訳でもあるまい。


 ただまぁ、修練がもたらす功は、

 決して小さからぬとも思うのだがね」



そんな中、勘のいい人は気づいていた。

そう、例えば殷浩いんこうさんみたいな。

例えば殷浩さんみたいな。


殷浩さん、仏典を一通り読んでみて、

こうコメントしている。


「仏典の中にも、真理はありそうだな」



さあ、ではそんな殷浩さん、

仏典とはどう付き合ったんだろう。

北伐失敗の咎を受けて

東陽とうように左遷されたころの話として、

二つほどエピソードがある。



二つの経典を読んだ。

維摩詰ゆいまきつと、小品しょうひん般若経はんにゃきょう

先に維摩詰を読んだ時には、

般若波羅密はんにゃはらみつの語句多すぎじゃね?」

と不思議がっていたのだが、

慣れてみると、これがまた

玄妙な味わいだったようだ。


次いで小品を読んだ時には、

般若波羅密が全然出て来ないことを

残念がっていた。



ただ小品には夢中になっていた。

二百近くの付箋を貼り、

そのどこもが幽玄にして難解、

人々が全然理解できないところだった。


この辺りについて殷浩さん、

支遁と語りたいと思っていたのだが、

すげなくフラれ、叶わなかった。


ちなみに小品は、いまも残っている。



それ以外の仏典も読んでは

たちどころに理解していた。

ただ、「事数」という概念が

なかなかピンと来ない。


なので気になったところに

付箋を貼っておき、

僧侶の話を聞けるタイミングで

あれこれと質問、

そして、ことごとくに理解した。



また事数のうち六根の一、

視覚と色との関係に関連する議論を、

謝安さまらとともになしたこともあった。


その時謝安さまに問われている。


「眼が様々なもののところに届くから

 ものが見えるのだろうか。


 あるいはあらゆるものが

 目の中に飛び込んでくるから

 ものが見えるのだろうか?」


これに対する

殷浩の返答は残っていない。




佛經以為袪練神明,則聖人可致。簡文云:「不知便可登峰造極不?然陶練之功,尚不可誣。」

佛經は以て神明の袪練せるを為し、則ち聖人に致すべしとす。簡文は云えらく:「峰に登れるに、便ち極むに造るべきや不やを知らず。然れど陶練の功、尚お誣すべからず」と。

(文學44)


殷中軍見佛經云:「理亦應阿堵上。」

殷中軍は佛經を見て云えらく:「理は亦た應に阿堵に上さん」と。

(文學23)


殷中軍被廢東陽,始看佛經。初視維摩詰,疑般若波羅密太多,後見小品,恨此語少。

殷中軍の東陽に廢さるを被るに、始めて佛經を看る。初に維摩詰を視、般若波羅密の太はだ多きを疑うも、後に小品を見、此の語の少なきを恨む。

(文學50)


殷中軍讀小品,下二百籤,皆是精微,世之幽滯。嘗欲與支道林辯之,竟不得。今小品猶存。

殷中軍の小品を讀めるに、二百なる籤を下し、皆な是れ精微なる世の幽滯なり。嘗て支道林と之を辯せんと欲せど、竟には得ず。今、小品は猶お存す。

(文學43)


殷中軍被廢,徙東陽,大讀佛經,皆精解。唯至「事數」處不解。遇見一道人,問所籤,便釋然。

殷中軍の廢さるを被るに、東陽に徙り、大いに佛經を讀まば、皆な精解す。唯だ「事數」に至りては解さざる處となる。遇たま一なる道人を見、籤せる所を問わば、便ち釋然とす。

(文學59)


殷、謝諸人共集。謝因問殷:「眼往屬萬形,萬形來入眼不?」

殷、謝の諸人は共に集まる。謝は因りて殷に問うらく:「眼の往きて萬形に屬するや、萬形の眼に入りて來たるや不や?」と。

(文學48)




仏教絡みは今後も増えてきそうです。できるだけ一所にまとめておきたい。というのも、切れ切れだとわかりづらい。



事数

いろんな概念をカテゴリ分けしたもの。劉孝標が注に書き記していたそれらを、メモとしてこちらにも乗せる。


五陰

 色陰:「もの」の姿かたち

 受陰:色陰を受容する感覚。

 想陰:色陰を認識、把握する。

 行陰:認識把握の上で、解釈する。

 識陰:以上を踏まえ、

    人間存在を把握する。


十二入

六+六、合計十二の認識受容に

関する諸要素の総称。

 六根:

  目、耳、鼻、舌、肌の五感、

  及び、それを認識する意識。

 六塵:

  六根が認識する感覚

  色・声・香・味・触・法。


四諦

 苦諦:人生は苦行だ。諦めろ。

 集諦:煩悩のせいで苦しいんだ。

    諦めろ。

 滅諦:死ぬまで苦しいぞ。諦めろ。

 道諦:苦しみから逃れるためには

    修行しかない。諦めろ。

いや「諦めろ」って言っちゃうと

語弊があるんですけどね。

まーここではライトに行きます。


十二因緣

輪廻転生の各段階。

 無明:なにもない。

 行 :なにかができた。

 識 :できたことに気付いた。

 名色:ある、とわかった。

 六入:「六根」を得た。

 触 :産まれた。

 受 :外界と接触した。

 愛 :成長する。

 取 :因果を受け取る。

 有 :因果を内包する。

 生 :人生の総括。

 老死:次なる生への旅立ち。


五根

いわゆる五感、あるいは

悟りに至るための能力。

 信根:信仰力。

 勤根:修行遂行能力。

 念根:悟りへの思い。

 定根:集中力。

 慧根:深い思索、知恵。

念を軸とし、信と慧、勤と定を

高いレベルで調和させるのが

悟りへ至る道、とする。


五力

五根を実践するだけの能力。


七覚

悟りに至るにあたって、

道しるべとなる七つの感覚。

「覚支」と呼ばれる。

 擇法:良き法を得る。

 精進:修行に勤しむ。

 喜 :悟りに近づく喜び。

 軽安:軽やかな心。

 捨 :執着からの離脱。

 定 :集中力。

 念 :セルフモニタリング。


「悟りに至る」道筋ってやつは、こうして要素を調べてみると、俗世で無駄なストレスから解放されるために心がけておきたいこと、とほぼ一致しているようにも思う。俺氏我欲雑念増し増しマンだけど、余計なストレスに煩わされず我欲に邁進するためにも、これらの諸要素って意識できると良さそうだなー、とは感じるのでした。


っつーか五陰みたいに、「認識」の段階を細分化するのプロセスとかって、意識できるとめっちゃいろんなもんの捉えられ方が変わるんで素敵な奴じゃないですか。

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