謝安57 鼎の軽重を問う 

郗鑒ちかんさまの息子にして郗愔ちいんの弟にあたる名士、

郗曇ちどん謝安しゃあんさまに宛てた手紙の中で、

王濛おうもうの息子、王脩おうしゅうについて書く。


「あるちびすけが、

 かなえの軽重が問われている、

 と言っていたそうですよ。


 さてこれは、司馬昱しばいくさまの徳が

 衰えられた兆しなのでしょうか。

 そのせいで桓温かんおんどのの台頭を

 許してしまっている、といったような。


 それとも『論語』に載るがごとく、

 後生ごしょう畏るべし、ということで、

 ちびすけの話は話半分に聞いておけ、

 という事なのでしょうかね」




郗重熙與謝公書,道王敬仁:「聞一年少懷問鼎。不知桓公德衰,為復後生可畏?」


郗重熙は謝公に書を與え、王敬仁を道えらく:「一なる年少、鼎を問えるを懷うと聞く。桓公が德の衰えたるを知らざるや、復た後生畏るべしと為さんか?」と。


(排調39)




この話、だいたいのご本では「桓公」を春秋五覇、斉の桓公に比定し、そこから謝安さまに結び付けています。ただこのもってき方には問題があって、王脩が生きていたのは 334 -357 で、謝安が「桓公」、つまり政権の第一人者になったのは 373 年です。王脩は謝安が「桓公」になったことを知りません。


まぁただ、そうするとこの時代で「桓公」と呼ぶべきは司馬昱と桓温のどちらになるんだろうね、となってしまう。その辺をちょっと探ってみます。



鼎の軽重を問う

鼎とは、の時代より代々伝わってきた、しゅう王朝の権威を象徴した器。その周も時が下ると権威が衰え、南の大国、楚に大いに脅かされていました。あるとき楚王はわざわざ周の都近くでの閲兵を行います。言い換えれば示威行動です。


お前、何してんだよ。周王が遣わせた使者にそう聞かせると、不遜に楚王は答えています。鼎とは、果たしてどれほど重いのだ? と。周の権威なぞどれほど重いんだ、と言い返した感じです。


となると「楚」の者が「権威を軽んじた」となるでしょうか。


そこから転がすと、郗曇は「桓温(西府、つまり楚に拠点を置いていた)が司馬昱(当時は撫軍大将軍、皇帝を大いに補佐するという、一応周を建てる名目であった春秋五覇の立ち位置に最も近い人)の権威を奪い取ろうとしていた」と考えており、それを王脩の言葉に仮託した、となりそうです。


上にも書きましたが、王脩は王濛おうもうの息子。「簡文帝のぐずぐずした采配のせいで寿命を縮め、簡文帝を恨みながら死んでいった」王濛の。ポジショントーク的には「司馬昱クソ」という気持ちを持ちやすいと思われても仕方ない人物です。


後生おそるべしについては「こーのおませさんがっ☆」くらいのニュアンスしか感じないんですけど、どうなんでしょうね。ほんによくわからんことだらけの条だなあ。

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