石虎   海のカモメ   

後趙 武帝 石虎せきこ


五胡十六国時代の

著名な仏僧の一人、仏図澄ぶっとちょう

かれが後趙の政権運営に

参画していたことについて、

支遁しとんがコメントした。


「仏図澄にとって、石虎は

 カモメのようなものだったのだろう。


 荘子にもあるだろう。

 カモメと仲良くしていた男の話だ。

 彼は常日頃、数百からなるカモメと

 波止場で戯れていた。


 だがある日、その男の親が、

 一羽捕まえてきてくれ、

 と頼んだ時には、

 カモメは男に近寄らなかったという」



 

佛圖澄與諸石遊。林公曰:「澄以石虎為海鷗鳥。」


佛圖澄と諸石は遊ぶ。林公は曰く「澄は石虎を以て海の鷗鳥と以す」と。


(言語45)




仏図澄(「崔浩先生」より)

五胡十六国時代以前にも西方伝来の異教、即ち仏教はおらぬでもない。しかし存在感を増すのは間違いなく五胡十六国時代以後である。このひとは石勒せきろく、石虎の庇護を受けている。中原にのさばる儒と言うゲテモノに対し、恐らく漢族でない石勒は拒否感を得ていたのであろう。ところで思想史を辿ると、仏教的思想は道家、即ち老荘思想と非常に親和性が高かった。また東西両晋時代に渡って麻疹の如く蔓延した「清談」志向は老荘に準拠している。実を求めた後趙朝と、虚に耽溺した晋朝貴族層のナレッジベースに老荘という共通項を得ているのが、なかなかに皮肉が効いていてよろしい。


石虎(「崔浩先生」より)

石勒の甥。石勒の跡を継いだのは息子、石弘せきこうであったが「石弘なんぞより俺の方がふさわしいだろ」と簒奪、殺害。劉聡りゅうそうと同じパターンである。しかもこの人が怖いのは、一回嫌がる石弘を強引に帝位につけ、その上でわざわざ殺しているところだ。ここには石勒の配下の権勢を大きく削ぐ意図があったようだ。

暴君と言うイメージがあるが、後世の曲筆であるという説も出回っている。そのようなわけで実態を捕えるのが難しい人物だが、石勒の後継者選びを尊重しなかったのと同じく、自らの後継者の扱いについても杜撰であったのは間違いがないようだ。そのため死後後継者争いが泥沼化し、更には養子として迎え入れていた冉良ぜんりょうの息子、冉閔ぜんびんによって石虎の一族は皆殺しにされた。

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