成帝2  後継者問題2  

何充かじゅう庾冰ゆひょう成帝せいていの補佐役であった。

成帝がわずか二十二歳の若さで

崩御した時、後継ぎは決まっていなかった。


何充が推したのは嫡子、のちの哀帝司馬丕しばひ


だが庾冰をはじめとした群臣は、

後趙こうちょうが余りにヤバすぎるこの時期に、

まだ四歳のこの子を皇帝にするのは

危なすぎるだろう、と、

成帝の弟、司馬岳しばがくを推戴した。

康帝こうていと後に呼ばれる。


さて康帝、玉座につくと、

まずは何充を見る。


「んー、んっんー、さて何充君、

 朕が登極できたのは、誰の手柄かな?

 ん? んん?」


うぜえ。

何だこいつ。


けど、何充はさらっと返す。


「陛下が即位なさったのは、

 まさしく庾冰の功績と申せましょう。


 陛下の神威が各地に行き届いたことに、

 臣はまるで関与しておりません。


 臣の建議が受け入れられておれば、

 この国に、いまの盛明は

 もたらされておりませんでしたでしょう」


うわ、おちょろうと思ったのに

平然と返してきやがった。


康帝さま、居心地が悪くなった。


なお康帝はこの後間もなく崩御。

あとを継いだのは穆帝、司馬聃しばたん

当時一歳。沖幼はどうした。




何次道、庾季堅二人並為元輔成。帝初崩、于時嗣君未定。何欲立嗣子。庾及朝議以外寇方強嗣子沖幼、乃立康帝。康帝登阼會群臣謂:「何曰朕今所以承大業、為誰之議?」何答曰:「陛下龍飛、此是庾冰之功。非臣之力。于時用微臣之議、今不覩盛明之世。」帝有慚色。


何次道と庾季堅の二人は並べて元輔を為す。成帝の崩ぜるの初め、時に君を嗣がるの未だ定まらざれば、何は嗣子を立てんと欲せるも、庾及び朝議は外寇の方強なるを以て嗣子を沖幼とし、乃ち康帝を立てる。康帝は阼に登り群臣に會す。何に謂いて曰く「朕の今、大業を承くる所以は誰の議が為ならんか?」と。何は答えて曰く「陛下の龍飛、此れや是れ庾冰の功にて臣の力に非ざるなり。時にして微臣の議を用いらば、今の盛明の世を覩ず」と。帝に慚じる色有り。


(方正41)




康帝(「崔浩先生」より)

明帝の息子、成帝の弟。兄の夭折に伴い即位したが、やはり早世。兄の苦労をずっと見ていただろうし、石虎せきこが北でブイブイ言わせているのを見れば、嫌でも胃に穴が空こうというものだろう。なお、このエピソードにのみ登場。


哀帝(「崔浩先生」より))

成帝の息子。桓温かんおんの専横を指をくわえてみているしかなく、政務を取るのに嫌気が差したあげくオーバードース死。この辺りから東晋皇帝がオモシロ皇帝化していく。なお、このエピソードにのみ登場。


何充

王導おうどうをはじめとした琅邪ろうや王氏と、庾亮ゆりょうをはじめとした潁川えいせん庾氏の間をうまく取り持ったとんでもない処世術の人。その立場からして、魑魅魍魎の巣での老獪な立ち回りが想像される。また殷浩いんこう褚裒ちょぼう、そして桓温かんおんと言った後代の顕名とも関わりがあったりして、何だこの人間ハブは、と言う印象。

つーかずっと西晋やってたせいで、変換が「賈充かじゅう」から卒業してくれない。もう五十年前の人ですから……。



なお康帝と哀帝の間には穆帝がいるんだが、世説新語には一切出て来ない。可哀想なので彼にも強引に登場してもらったよ。


穆帝(「崔浩先生」より)

康帝の息子、一歳で即位。生涯を皇帝として過ごすとか地獄以外の何ものでもないな。この当時には石虎せきこも死に、後趙が内紛で忙しくなっていたので、東晋も無事貴族らの権勢争いに大忙しであった。お前ら。なお康帝時代ごろから権勢を伸ばしつつあった桓温が北伐で洛陽らくようを奪還を果たしていた。在位期間は長いが、そのほとんどは摂政に委ねざるを得ない感じではあったようだ。

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