明帝7  明帝激おこ案件 

王敦おうとんが兵を率いて、

建康けんこうの南にまで攻めてきた!


建康の南にある天然の堀、秦淮河しんわいがには

朱雀桁すざくけた」と言う大きな橋が架かっている。


明帝は建康の南にある出城、中堂に詰める。

ここから丹陽尹たんよういん温嶠おんきょう

朱雀桁を落すよう、指示。


が、なんの手違いがあったか、朱雀桁。

落ちない。


明帝さま大激怒である。

目が怒りでらんらんとしてて、

とても近づけない。


それから明帝さま、大臣らを招集。

そこに温嶠もやってくるが、

まともに謝罪もない。

しかも、酒とあぶり肉を求める有様。


洒落にならん。


王導おうどうさま、慌てて駆け出す。

履き物も脱げる。


そして明帝さまの元に

辿り着くと土下座である。


「ご尊顔がお示しなる怒りを前に、

 温嶠ももはや死を覚悟するのみ、

 と決意したのでございます!」


この王導の発言があったためだろう。

明帝も怒りを収めたようで、

そのため温嶠も下がり、謝罪した。


大臣らは、王導のこの機転に感心した。




王敦引軍、垂至大桁。明帝自出中堂、溫嶠為丹陽尹。帝令斷大桁。故未斷、帝大怒瞋目、左右莫不悚懼。召諸公來。嶠至、不謝但求酒炙。王導須臾至、徒跣下地、謝曰:「天威在顏、遂使溫嶠不容得謝!」嶠於是下謝。帝迺釋然。諸公共嘆王機悟名言。


王敦は軍を引き、大桁に至るに垂んとす。明帝は自ら中堂に出る。溫嶠を丹陽尹と為す。帝は大桁を斷たしむるも、故より未だ斷たず。帝は大いに怒り目を瞋らさば、左右に悚懼せざる莫し。諸公を召じ來たらしむ。嶠は至るも謝せず、但だ酒炙を求む。王導は須臾にして至り、徒跣にて地に下り、謝して曰く「天威の顏に在れるに、遂には溫嶠をして謝すを得るを容れず」と。嶠は是に於いて下り謝す。帝は迺ち釋然とす。諸公は共に王の機を悟る名言に嘆ず。


(捷悟5)




晋書さんを読んでみましたよ。


嶠燒硃雀桁、以挫其鋒。帝怒之。嶠曰:「今宿衛寡弱、徵兵未至、若賊豕突危及社稷、陛下何惜一橋?」賊果不得渡。


嶠は硃雀桁を燒き、以て其の鋒を挫く。帝は之に怒る。嶠は曰く「今、宿衛は寡弱にして、徵せる兵は未だ至らず。若し賊が豕突せば危うきは社稷に及ぶ。陛下にては何んぞ一なる橋を惜しまんか」と。賊は果たして渡り得ず。


あれ、温嶠が橋落としたこと明帝に怒られてる? 逆じゃん。そこに付される注には以下の通り書かれています。

世說捷悟篇曰:「王敦引軍,垂至大桁。明帝自出中堂。溫嶠爲丹陽尹。帝令斷大桁,故未斷。帝大怒瞋目,左右莫不悚懼。」注云:「案;晉陽秋、鄧紀,皆云:「敦將至,嶠燒朱雀橋,以阻其兵。」而云:「未斷大桁致帝怒。」,大爲譌謬。案注言,是也。本傳卽采孫鄧二家之書,不從義慶。


さすがに世説新語が嘘書いてんじゃね、と言う風になったようです。ここに世説新語箋疏のコメントをさらに被せましょう。

建康實錄七云:「成帝咸康二年,更作朱雀門,新立朱雀浮航。航在縣城東南四里,對朱雀門,南度淮水,亦名朱雀橋。」注云:「案地志:本吳南津大吳橋也。王敦作亂,溫嶠燒絕之,遂權以浮航往來。至是,始議用杜預河橋法作之,長九十步,廣六丈,冬夏隨水高下也。」景定建康志十六引舊志云:「鎮淮橋在今府城南門裏。即古朱雀航所。」 嘉錫案:據孝標注及建康實錄,則明帝時溫嶠所燒者是朱雀橋,而非浮航。敬胤注引丹陽記云「太元中,驃騎府立東桁,改朱雀為大桁」,則大桁之名,非明帝時所有。世說蓋事後追紀之詞耳。敬胤注徵引甚詳,在考異中,茲不備引。


長いんですが、ざっくり言うと「明帝の時代の橋の名前は南津大吳橋やぞ、朱雀大桁やないぞ」とのことです。ンンンンンン? そうすると世説新語の演出なのは確かですが、ならどうしてこんな演出にしたの? これ間違いなく元になるエピソードあるよね? 謎が謎を呼んで仕方ないです。

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