応援コメント

鍾会7  宝剣泥棒    」への応援コメント

  • はじめまして。
    いつも楽しく読ませていただいています。

    さて、このお話ですが、日本にも伝わっていたようで、江戸中期の女流作家の荒木田麗女の「怪世談(あやしのよがたり)」にも、日本風にアレンジされて記されています。
    前半部分はほぼこの話の鍾会と荀勖のやりとりが登場人物だけを日本人に替えて描かれています。
    ただ、後半部分は相当な改変が行われています。

    剣を盗まれた大輔は、盗んだ少将の新築の家に大臣一行が訪れた様子を描く。
    それを見た少将が本物と思いこんで翌朝大臣に問い合わせたところ、そんな事実はないという返答が。
    それを聞いた少将の家族が「それは鬼の仕業だ。そんな所に絶対に行きたくない」と怖気づいて引っ越しをやめ、結局新築の家が空き家になってしまった。
    という展開になっています。

    これはこれで多少無理やりな感もあるわけですが、やはり江戸時代の日本人にも後半部分の理屈はわかりづらかったのでしょうね。
    ちなみにこの話は、数年前のセンター試験追試の古典で出題されています。
    よかったらご覧になってみてください。

    これからも作品を楽しみにしております。
    失礼しました。

    作者からの返信

    ありがとうございます!

    うーん荒木田女史、この話が
    好きは好きだけど手に余ったんでしょうかw

    世説新語は世界でも有数の
    「古い」短編集でしょうから、
    いろいろな方が本家取りしているのだろうな、
    とは思います。

    自分は目加田先生のご本を頼りに、
    エピソードについてはほぼ機械的に
    ピックアップしていますので、
    世説新語から始まる物語の系譜にはどうしても疎いです。
    また、こういった物語の系譜等ございましたら、
    教えてくださればありがたいです。

  • こんばんは。

    〉「父の肖像を見て大いに嘆いた」と「邸宅を手放した」がどうして接続するのかを、儒教的見地から理解したい。

    たしかに分かりにくいかも知れませんね。孝が家庭の基本であることはご承知の通り、しかして、その対し方は二つあります。
    すなわち、亡くなった父母を身近に置くか、敬して遠ざけるか。儒教の対し方は後者、肖像画なんぞもってのほかだったはずです。

    なぜならば、諱の存在がその最たるものだから。『世説新語』には父の諱を呼ばれて泣く、怒る話がありますが、亡父の諱を呼ぶことは許されない非礼、ゆえに例外的事象としてこれらの逸話は記録されました。
    この意味を測るに、亡父を思い出すだけで彼らは哭するなどの儀礼を踏まなければ許されなかった。無論、外的に証明できる形において思い出した場合、ですけど。他人の目がなきゃどうでもいいのです。

    さて、そんな慣習の中にあって父の肖像画を家に描かれた日にはどうなるか、とうぜんのように暮らすかぎりは悲しみつづけなくてはならない。楽しかろうが嬉しかろうが、それは変わらない。
    で、そんな家に住みたいですか?と問われれば、誰もがイヤですよね。だから、手放すしかない。さらに言えば、彼らは父の絵を消すこともできなかったはずです。不孝ですからね。

    後漢の明帝は雲臺に光武帝の功臣二十八人を描かせましたが、光武帝はそこにいなかった。それもこの理屈で説明できるかなー、と思います。光武帝と愉快な二十八将にはならないわけですね。
    少なくとも、私の知る限り、父母の肖像を描いて飾ったのは、、、あるわ。『北齊書』にある。しかし、それは常に礼拝して父を殺した皇帝への恨みを忘れない、という話なので、明らかに意図的であり、自らに課した枷です。亡父の肖像画を飾るとは、それくらいヘビィな話なんですね。
    以上、余談でした。

    作者からの返信

    こんばんは。

    孝からの接続が上手く行かなくてひーこらしていましたが、なるほど……! 一旦公衆の面前で父の肖像を発見されてしまっては、もうどうしようもない感じですね。

    犯諱がどれだけ屈辱的なものなのか、世説新語でホイホイ扱われまくってるから正直ピンときづらいところがあるんですが、多分この辺って「テレビで大打者がホームランを量産しているのを真似してお前もホームラン打ってね☆」って言われてるようなもんなんでしょうね。いやいや一杯目撃するけどそれの再現とか無理ですから、みたいな。

    北斉書の話は初めて聞きましたが、ノータイムで斛律光の息子かな? とか妄想しましたですw