えきたいねこのりょうりてん

音無 蓮 Ren Otonashi

えきたいねこのりょうりてん

 ぴちゃん、ぽちゃんとカウンターに跳ねる水音が響き渡りました。


 えきたいねこのりょうりてん。路地裏、隠れ家、道に迷った人の行き着くふるさとのようなりょうりてん。


 カウンターで皿を磨くのがオーナーのえきたいねこです。


 ぴちゃん、ぽちゃんと足音ならせば、水たまりの足あとが後ろからついてきます。


 彼は、ねこであり、名前をえきたいねこと言います。


 えきたいねこは、ねこのようにごろごろ喉を鳴らすし、ねこのように快晴のひだまりで、日向ぼっこもします。


 えきたいだからといって、蒸発するわけではありません。


 お天道様がのぼっている間は、普通のねことして、路地で寝転んでいます。そして、ご主人の老夫婦に、ミルクをおねだりするのです。


 えきたいねこのご主人は、喫茶店を営んでいます。ねこは、そこの看板猫です。


 店の名前は、『えきたいねこの喫茶店』。


 名前の由来は、先代のねこの名前です。『えきたいねこ』っていう、変な名前のお母さんねこの座を引き継いだのが、二代目『えきたいねこ』、今の看板猫でした。


 深煎り珈琲のちょっぴり甘く、香ばしい匂いが古びた木造の薄暗い店内に漂っています。


 その店は、隠れ家のような店で、訪れる客も昔からの常連さんがほとんどです。


 ご主人様はどうやら、先代の猫がうちに来た時からこの店を営んでいるそうで、その時代からの常連さんは、今では皴が深く、温もりに満ちた笑顔を浮かべて過去を顧みる老人ばっかりです。


 たまに、常連さんが後輩だったり、息子だったり、新しいお客さんを連れてきて、常連さんは少しずつ増えては減っての循環を繰り返していました。


 優しいご主人のもとで、ごろごろする幸せな時間。のんびりとしていて、いつまでも続く平穏な日常です。


 店を訪れた人はみんなが彼を指さして羨むのです。『ねこは気ままでいいなあ』と。嫉妬心を抱く人さえいるでしょう。人間はいつしかストレスフルな生き物になってしまったようです。


 対して、ねこは気ままです。自由奔放で、気分屋です。


 だけど、ひとたび夜になれば、気分屋のねこはもぞもぞと動き出します。ねこは夜行性だからです。


 えきたいねこの喫茶店は、夕方六時に店じまい。だけど、ご主人が寝静まった真夜中零時になると、古ぼけた店内にぼんやりとした明かりが灯ります。


 玄関の扉に立てかけられた看板には、先代の『えきたいねこ』が拙いながら、どこかのゴミ箱から漁ってきた筆で書いた文字が記されています。


『えきたいねこのりょうりてん』――ねこは、深い夜の間、そこでオーナーをしています。






「割り箸がパキリと綺麗に割れること。それはきっと、この上ならない幸せなんです」


 カウンターテーブルに腰を掛けた会社帰りの女性が、えきたいねこ特製の親子丼を綺麗に割れた割り箸の間からじぃ、と覗いています。


 最近、この店に迷い込んできた新しめのお客さん、『シロ』さんです。


 勤めている会社のあるこの街に引っ越してきた当日に、たまたまふらーっ、と夜の街に繰り出したら、『えきたいねこのりょうりてん』に出会ったとのこと。


「オーナーさん。今日も毛並みがふさふさです。貫禄あるふさふさですね」


「ごろごろにゃーん」


 カウンター越しにえきたいねこの身体を持ち上げて自分の胸の前に抱きかかえたシロさん。


 両脇を支えられて持ち上げられたねこは、まるでみずのようにだらーんととぶらさがっています。


 えきたいねこなので毛並みは濡れています。


 えきたいねこは、ねこがえきたい、というわけではありません。


 ぶら下がっている姿が液体のようにだらーんとしていることから、ご主人から『えきたいねこ』と名付けられたのです。


 だけど、りょうりてんの店長として、カウンターに立っているときは、いっつも夜露に濡れていて、まるで水に溶けてしまいそうなので、これではいつか本当の『えきたいねこ』になってしまうだろう――なんて、ねこは暢気に考えていました。


 液体になったところでねこはねこで、『えきたいねこ』であることは変わらないので、ねこにとってはどうでもいい問題でした。


 シロさんは、割り箸を親子丼のどんぶりの端に並べて、食べる前恒例の『もふもふ』を始めました。


 えきたいねこは、猫語で『ふふーん。君もこの毛並みの良さに気付いていたか。なかなか目がある』と喉を鳴らして満足げな表情を浮かべています。


 猫語が伝わったかどうかはともかく、シロさんはしばらく「オーナーさん、可愛いです~。ほっこりします~」とだらーんと頬を緩めて、『もふもふ』を続けました。


 しかし、自分の腹の音を耳にするとえきたいねこをカウンターキッチンへと戻して、親子丼を頬張り始めました。


「オーナーさんの親子丼はいつも、温かくわたしを包んでくれますね……。安心する味です」


「にゃーごにゃーご(猫語訳:たんとめしあがれ。おかわりもあるからねえ)」


 カウンターキッチンからひょっこりと抜け出したねこは、シロさんの腕に顔を擦り付けました。


 ねこはお金を欲しがりません。猫に小判とはまさにこのことです。


 その代わりに、彼はお客さんとべたべたします。えきたいねこは、人懐っこいのでお客さんと遊ぶのが大好きです。遊んでくれたお礼にごちそうをもてなすのです。


「毎日毎日、上司に怒られてばっかりで、自信を無くすことがいっぱいあります。今日も、また上司に怒られてしまったんです」


 ぺろ、ぺろと指を舐めるえきたいねこ。空いた左手でその頭を撫でながら、シロさんは少しだけ、寂しそうな声を漏らしました。


 彼女は、遠い故郷から一人ではるばる遠い異郷で働いているのです。  


 夜遅くまで仕事をした日はきまって『えきたいねこのりょうりてん』に訪れては、親子丼をたくさんいただいて、ねこを『もふもふ』して帰るのでした。


「ごろごろごろ(猫語訳:辛くなったらいつでもおいで)」


 ――えきたいねこのりょうりてん。そこは、迷い人のお店。


 親子丼を二杯食べて、満腹になったシロさんは、最後に一度だけえきたいねこの頭を撫でました。


 寝惚けた目を擦って、大きい欠伸をした彼女は、玄関を出る前にぼんやりとした明かりで照らされたカウンターを振り返りました。


「今日もありがとうございました。また、寂しくなったら来ますね」


「にゃーごろろ(猫語訳:いつでもいらっしゃい)」


 ちゃりん、と玄関のベルが小さく鳴って、それっきり店の中には静けさが籠った。今日は店じまいをしよう。ねこは相変わらず気分屋でした。


 えきたいねこのりょうりてん。そこはいつでも道に迷って冷たい路上で彷徨っているひとを迎え入れてくれる温もりの料理店。


 お駄賃は要りません。ねこを撫でてくれるだけで構いません。


 少しでも、ねこが貴方の寂しさを紛らわせられたなら、えきたいねこ冥利に尽きます。


 午前零時。いつもの裏路地で貴方を待っています。

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