第4話

 「どうも長居をいたしましたな」

 「こちらこそ無理に引き止めてしまって……」

 孤独を好む私には珍しく、その日は来客があった。

 火中に飛び込もうとした私を止めた教導さんが、危なっかしい足取りで歩いているのを偶然通りがかった私が見かけた。町内会の会合で飲み過ぎたらしい。

 放っておけずに酔い覚ましに休んでいくようにと我が家へ招いたのである。


 「助かったよ。現代人に最も欠けているのは互助の精神だからね。うちのドラ息子にも何度となく言い聞かせておるが、あれは親の顔を潰すことしかせん」

 教導さんの背中は広い。元軍人だけあって芯の太い体格をしている。

しかし、往時の動きは失われていることは見抜けた。酒も抜けきってはいない。

 「それにしても君は昔の部下によく似とる。万に一つも生きておる可能性はなかろうが、幸せになっておってくれればいいと、毎日心の中で祈っておるんだよ」

 「教導さんにそこまで言ってもらえるとは幸せな部下ですね」

 幸せだとも。俺がその部下なのだからな。


 教導は元上官だ。いかに自分が勇猛かつ同胞の生命を第一に考える将校だったのかを熱く語ってくれたおかげでわかった。

 氏名が同じなのも当然の話で、戦地で私をいじめ抜き、自分の蛮行の責任を押し付け、一人さっさと帰国した男だ。

 後ろを向き、靴を履こうとした瞬間、背中に隠した巻き割斧の一撃を脳天に見舞えばどうなるか――そう思った刹那だった。

 ふわふわした布が視界を奪った。教導の笑い声が聞こえる。

 「なんだねその動物は? おもしろいものを飼っておるじゃないか」

 では失敬と言い残してドアが閉まった。

 

 下卑た笑い声が遠ざかると、ぱっと顔から離れたのは博士だった。

 「危ないところだった。行かずに正解でしたよ」

 「……なぜ邪魔したんだ」

 途方もない疲労感に襲われ、私は椅子に背をあずけた。

 「恩人に人殺しをさせないためです」

 「あなたは人の言葉がわかっても心まではわからないようだな」

 「わかりますとも。あなたは従軍時代、あの男から虐待を受けましたな。それも教育や愛の指導の名の下に」

 私は喉の奥で奇声をあげる。自分の首を絞めたくなった。

 「虐待という表現すら生ぬるいかもしれません。どうか落ち着いて、私はあなたをいたずらに刺激せぬよう、これでも言葉を選んでいるのですから」

 「あなたは心まで読めるなんて神か?」

 「神には及びませんが、いわゆる宿命通も使えます」

 「じゃあ、俺が奴を殺そうとしたのも無理ないと思えるはずだ」

 「彼の中で軍役時代のことは甘美な思い出に変わっていますよ。ましてあなたは顔に傷を負って、相好がかなり変わってしまわれたので」

 反射的に私は顔面を斜めに横切る裂傷の痕を覆った。

 そうだ。奴は俺への仕打ちなどきれいに過去へ置き去り、自分だけ好々爺然とした聖職者面をして、この村で生きてきたのだ。


 「邪魔をしたこと、勝手に心を覗いたことはお詫びします」

 モモンガは両手で頭を包み、衝撃的な一言を放った。

 「しかし、あの男はじきに立場を失います」

 「どうしてわかる⁉」

 「お寺の火事の出火元は、境内にたむろしていた彼のドラ息子と仲間たちの煙草が原因ですよ。雑木林に営巣中の梟が見ていました」

 私はへたへたと座り込んだ。

 「時の流れは残酷ですな。わずかながらも確かに存在した幸福な思い出ばかりを退屈なものへ色落ちさせ、膨大な不幸ばかりを破裂せんまでに発酵させてゆく。しかし、御仏が私に人語を解する力を授けてくださったことに目的があるのなら、愛されぬ人へ愛をお教えするためだと考えます」

 取り落とした手斧が床に刺さった。

 もう何も言えなかった。一切の気力が胸の底から砂のようにこぼれ落ちてゆく。 しかし温かい。確かに言えるのは、血で手を染めていたら決して味わうことのできなかったと思われる不思議な喪失感だった。

 「二度と姿を現わすなとおっしゃるなら、もうあなたの前には現れません。ただ、あなたの作る食事は美味しい。今後も時々あなたのもとへお邪魔するお許しを得たいのですが」

 「何度でもいらしてください」

 反射的に跪いて小さな小さな手を取っていた。

 「あなたは私の待ち望んでいた賢者です」


 こうして私はポラトゥーチ博士の知己を得たのである。

 博士は季節が深まる時期になると必ず私のもとを訪れてくれる……。


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賢者ポラトゥーチ博士 狛夕令 @many9tails

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