第3話 間に合わせ平常心

 浴室からざぶっと湯船が波打つ音がした。

その音が耳に入ると、俺は思い出しリビングに備え付けられていたクローゼットの扉を開けて中のチェストからタオルや部屋着を取り出すと、洗面室まで持っていった。

 幸いまだ碧は浴室内でザブザブと湯船で遊んでいるようだったから少し安心した。良く漫画である様なお風呂上がりの女の子と鉢合わせー!みたいな状況があれば良かったが、現実はそうでもない。第一に碧は異性ですらない…と思うから尚有り得ない…と思う。

確証が持てないのは、首のストールを取った時、見えた首筋に男ならあるはずの喉仏が無かったから。

あと声や顔が女の子みたいに可愛かったからってのもある。もし男だと考えられるのは、奴がまだ声変わりしてないくらいの歳である事。女の子ならかなり貧にゅ…いや、スレンダーな体型である事くらいだろうか?


 浴室の扉を眺めながらもグルグルと思考を巡らせる。が、らちが開かなかったので直ぐきびすを返して碧の所持していたバッグを軽くタオルで拭いてからそれを持ってリビングに戻った。

バッグを部屋の隅に置いてエアコンのスイッチをいれ、着っぱなしだったコートを脱いでハンガーにかけてクローゼットに納めて扉を閉める。


 ズボンのポケットに入れっ放しになっていたメモリースティックもふと思い出し取り出して、テーブルの上に閉じてあったノートパソコンにさしてから座椅子に腰を落とした。碧が風呂から上がるまでの時間で中途半端ちゅうとはんぱになっていたPDFにザッと目を通そうと思った。


 元々、歩き回る事が好きな俺は前述ぜんじゅつした通り、パソコンでの作業は苦手だ。小さな文字を目で追う事に対してのヤル気がどうしても出ない。レポート作成なんてそれの最たるもので…調べ物や思考を巡らせる事は出来ても、それを文にまとめる事が苦手なんだ。


今までは蓮月はづきに聞きながらまとめていたが、自宅で1人で作業となるともいつも集中が持続しない。


「頭で考える所までは上手くいくのになぁ…」

思わず本音がれた。


「なにがうまくいくの?」

「んをわ?!いだっ!!」

「わっ、だ、大丈夫?京也?」


完全に不意を突かれた。


目を両手でふさいでなげきに天井を仰いでいた俺は碧の声に頓狂とんきょうで情けない声を上げてその拍子にバランスを崩し、座椅子ごと後ろへ倒れ後頭部こうとうぶをフローリングにしたたかに打ち付けた。

床に鈍く頭を打つ音と振動が響き一瞬肩をすくませた碧がやや慌てたようにそばに寄って来てくれた。

 自身と座椅子を起こし後頭部をさするとわずかにふくらんでいるのを感じる。大学生にもなってたんこぶが出来るなんて本当に情けない限りだと、自分の間抜けっぷりに内心トホホと肩を落とさざるを得ない。すると髪にふわっと何かが触れるのを感じハッと横を向いた。


「え…えっと?碧?」

「京也、痛かったね…でも泣かなかったね、えらい子」

俺の手ごと碧は出来たたんこぶを撫でる。とても優しく、穏やかに、そしてまるで母親が子をあやす様に声を掛け、柔らかく瞳を細めて微笑んだ。

面食らい思わず目を丸くして固まる。


そんな優しいセリフ、いつから言われなくなったっけ…

なんて変な事すら考える程…普段言われたら馬鹿にされてるといきどおりさえ抱きそうな言葉が、妙にこの夜ばかりは心地良く耳朶じだに入る。それは碧が言ったからなのか…その時の俺は分からなかったが素直にお礼を言える程に俺の心は穏やかだった。

碧も安心した様にニコリとまた微笑んだ。やっぱり、碧は笑顔がとても可愛い。


ぺたんと座っている碧を見て思った。

「あ、俺のサイズでも碧が着ると丈はやっぱ余るのな」

「うん、少し長いね」

「ちょっとそのまま」

碧に制止を促し、俺は碧が着ている俺の服の手足の裾を2、3回上に回し上げた。そのままでもなんだか彼シャツ着て袖が余る彼女ちっくで悪くはなかったけど、移動中や飲食中に滑って転んだり裾を汚して欲しくなかったから、この程度のおせっかいなら多少許されるだろう。

今度は碧も素直に世話をされ、満足そうにしてくれた。


 時刻も夕飯時を少し回ったので、俺は遅めの夕食を作ろうとパソコンを閉じて立ち上がる。

「碧、夕飯何か作るけど、食べたくないものある?」

「食べたくないもの?」

「苦手だったり、アレルギー出るものとかさ?」


首を傾げてしばしの思考。

その後にまたこちらを見上げる。

「特にない。京也と同じが良い」

「分かった。ならちょっとそこで待ってて?簡単なの作るから」

碧が頷くのを確認すると俺もキッチンへ向かった。冷蔵庫の中から適当に食材を引っ張り出す。

流石さすがに一人暮らしが2年目にもなると男でも多少のものは作れるようになるもんだと1人苦笑した。野菜や肉を切りながら、フライパンを振るいながら、チラチラとリビングの方を眺める。


碧は…こちらに背を向け、立ち上がる事なく部屋をキョロキョロと見渡しているだけ。人の言いつけはちゃんと守る。お行儀ぎょうぎの良い事だ。そういう風に親に躾けられたのだろうか?

部屋がソースの良い匂いで満たされると、碧もその薫りに釣られてこっちを見る。と、その顔にまたギョッとした。まただ。

人形の様な、熱の失せた顔。

顔は向けても視点がどこにも無い、そんな薄気味悪うすきみわるさを覚える顔。


「み、みどり?」

「…。なぁに?京也」

戸惑いがちに声をかけると、やはりさっきの顔は無くなり視線をちゃんとこちらに向け首をかしげる。

「焼きそば好き?」

「やきそば、…多分好き」

 多分?妙に引っかかる言い方だ。

まぁそれも追々おいおい分かるんだろうか?


 自分の思考は横に置いて、一先ず飯だ。碧にノートパソコンをテーブルの天板下にあるラックに置いてもらって2人分の海鮮ソース焼きそばと卵スープをリビングのテーブルに置いた。

 フォークとスプーン、コップに麦茶を注いで食べるよう促して、俺も鳴るお腹を摩ってスープに口を付けた。

碧は俺が何から口をつけるか見てから同じくスープを啜る。

フォークの持ち方や使い方、焼きそばの食べ方まで、一度俺のやり方を見てからそれに習って同じやり方をするのだ。


「碧、美味しい?」

「うん、美味しいよ?京也」

ちゃんと口に入れたものは飲み込んでから受け答えをする。そこもお行儀の良い事だ。だが何処か稚拙ちせつさも垣間かいま見える。テレビを付けニュースを映す。

俺はあまりバラエティや恋愛ドラマに興味を示さない。唯一見るのはニュースや料理番組、たまに推理やミステリードラマくらいだ。

碧はどうだろう?とチラと伺い見る。


何時々いついつ何処其処どこそこで誰が殺されただの、何日前に行方不明になっている女性に関しての捜査の足取りが掴めないだの、犯罪グループの誰某だれそれが捕まっただの…仄暗ほのくらい話ばかりだ。

雨も関東にしては珍しく今週は降りっぱなし、台風の影響がどうのこうの…。

そんなリポーターの淡々とした報道を、碧はスプーンの運びを止め、ぼんやりとした顔で眺めていた。

また人間味が薄れつつある瞳をこちらに引き戻したくて声をかける。

「なぁ碧…聞いても良い?」

「なぁに?京也」

こちらを向く碧は、やはりうっすらと微笑む。

「何であそこに座ってたの?」


 聞かれると僅かに彼のすみれの瞳が見開かれた。が、それも一瞬で…三角座りしていた両膝に顔の半分を隠して首を傾げた。

「…覚えてない」

「覚えてない?」

「うん」

ややあって呟いた言葉に俺は思わず鸚鵡おうむ返しをしてしまったが、碧は気にした様子もなく一度頷いた。

「碧の持ってたバッグさ、何入ってるの?」

「見たいの?」

「えっと…」

改めて問い返されると思わず口籠くちごもる。

まるで職質してる警察みたいで、正直あまり気持ちのいい事じゃない。だが碧は腕を伸ばしてバッグを掴むと引き寄せてファスナーを開いて俺の方に差し出してくれた。

「僕も何があるのか覚えてないんだ。だから、見て良いよ」

促されバッグを受け取って、じゃあとあらためさせてもらう。


一つ一つ、バッグから取り出す。

定期券の入ったパスケース、タオル、財布。筆記用具。ピルケース、ハンカチ、小銭入れ。そしてメモリースティック。


身分証明になるものがありそうでない。

それらしいものを持ってるかと聞いてみるもやはり首をかしげる。わかると言えば定期券だが、だからと言って何なのかも知れない。一つ息を吐くと、了承を得て持ち物の中で唯一何かありそうなモノ…彼の財布の中を見ることにした。


「あ、これ…」

所持金は敢えて気にしないようにして、カードホルダーの中に見知ったものを見つけた。

保険証と学生証だ。

しかも、俺の持っている学生証と同じもの。これだけでも数点か謎は解けた。

名が「逢坂おうさか みどり」であること。

同じ大学に通う同じ学年の学生だということ。

同性であること。

住所が区内にあること。

「…」


まじか…と内心思った。

俺と同じ学年。つまりは順当に行けば20歳の男。だが声変わりもしてなければ成長期も来てるのか分からないくらいの外見。

子供を連れ込んだんじゃなかったことだけは良かったけど…。

それにしても碧の記憶の曖昧さは脳の障害なのか、ココロから来た若年性の健忘か…?日常動作もソツなく出来ることもあれば食事はこっちの真似をしてるように見えた。


「碧、俺と同い年だったんだな。大学も同じだし」

「そうなの?」

碧の学生証を見せながら、俺も自分の学生証を見せる。同じデザインの学生証に碧も納得したように頷いた。

「覚えてない?大学」

「わかんない」

「住んでるとこは?」

住所に関してになった途端、表情が曇る。俯き瞳を伏せて首を振った。

「…わかんない」

だめだ。詰んだ。そう思った。

碧は膝を抱えて身体を小さく丸めてしまい、その後寝るまで何も言わなくなってしまった。

一応の声かけしてから、俺は学生証や保険証から分かった情報をメモ帳に書き写させて貰い、夜も遅くになってしまったので碧を自分のベッドに連れて行き、俺は座椅子をフラットにして寝た。


わかる程度の情報は確保出来たが、やはり謎も多い。家族がいるなら何日から家へ帰ってないのかも分からないし、何日も帰ってないなら、携帯電話を持ってないから連絡も出来ないし捜索願いが出てるかも知れない。

そもそも実家組なのか、一人暮らしなのかも分からない。分からないことだらけだ。


明日、通学がてら碧のことを親友に話してみることにしよう。顔の広い親友なら何か知ってるかもしれない。


少しの希望を抱いて、俺は目を閉じ朝を迎える事にした。

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誰そ彼メモリー 鳴海 理桜 @n-riou00

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