第2話 白痴の猫の扱い方

 みどりを借りているマンションまで連れ帰り、内玄関で滴る水を持ってきたタオルで拭く頃にはさらに雨脚も激しさを増し、雨音もより一層強くなっていた。


 碧は制止し、俯いたまま大人しく拭かれている。されるがままと言った様子で一言も声を上げない。


「連れてって…」

 と言ったきりだ。


 髪の毛や顔を拭きながら俺はさり気なく表情を伺ってみた。先ほどの微笑みがウソだったのかと錯覚さっかくする程に人間味に欠けた真っさらな無表情と、やはりどろりとよどんだ暗い瞳がずっと足元を向いているだけ。


「俺、風呂沸かすから、もう少しそこで待ってろな?」

「…」

「そのバッグもずぶ濡れじゃん?拭いてやるから下ろせば?」

「…」

「おい、聞いてんの?」

「…」


 こちらの問いに答えない上に身動ぎ一つ取らない碧に、俺は少しムッとする。そしてタオルごと碧の頬に両手を添えてグッと上を向かせてみた。


「ねぇ、聞いてんの?って聞いてるんだけど?」

「…っ、名前…」

「え…」

「名前、呼んでくれないと…解らない」


 すっと表情が戻った碧の、少し戸惑った声音と泳ぐ視線に、一瞬思考が止まった。碧の顔から両手を下ろすと少しの間考えを巡らせ、俺なりの答えを出してみた。

「みどり…」

「…うん」

「碧…」

「うん、なぁに?京也きょうや


 碧が浮かべた微笑み。


 そうだ、あの時も…

 俺が名前を呼んだ時だけ、碧は微笑んで受け答えをした。

多分、多分だけど…碧は己の名前を言われなけりゃ、例え自分だけしかいなくても自分に声をかけている認識を持たないのではないだろうか…。


 帰り道でも、さっきまでも、俺は碧に話しかけてはいたけど、「なぁ」とか、「アンタ」しか言ってなかったのを思い出した。


だから碧は何も答えなかった。

否、己の事だと認識出来なかったから答えられなかったのか…。


 推測の範囲を脱しないが、その答えに行き着くとさっきまで抱いていた不満もすっと無くなった。

「なぁ、碧」

「なぁに?京也」

「このままだとが風邪引きそうだから、風呂沸かしたいんだけどさ」

「うん」

「もう少しだけ待っててくれるか?」

「わかったよ、京也」

「あとさ、のそのバッグもさ」

「これ…?」

「うん、濡れてるし拭きたいんだけど下ろしてくれね?」

「わかったよ、京也」


 次はさっきよりももっと丁寧ていねいに、えて名前もちゃんと言ってみる。するとさっきまでの無反応からは一転し、碧はやはり己の事だと認識したのかすんなりと受け答えをしてくれた。更にはあっさりと持ち主と同じく雨粒の滴るエナメルのショルダーバッグを床に下ろしてくれた。


それに一安心する俺。

ちょっと言い方を変えるだけでもちゃんと碧は分かるのだ。知恵遅れなのか?とも思ったが、そうでもない様な様子。

 それは、バッグをちゃんと濡れても良い石床にそっと置くところからも伺えた。

碧の頭にタオルを乗せたまま、一旦離れて浴室の入り口に設置してある自動湯沸かし器のボタンを押して浴槽に栓をする。


 すぐに戻って、碧に了承を得ながら首に巻かれてたストールを取って玄関外で水気をギュッと絞った。びしゃびしゃと水気が一気に絞り出されてギョッとした。碧は一体、いつから彼処あそこうずくまっていたのだろうかと振り返る。


 背中を向けて頭に被ったタオルで髪の毛の水気を拭く碧のうなじが見え思わず顔を逸らしてしまった。うなじフェチな訳ではないはずなのに細い首筋に不意にドキッとしてしまった。


 大きく2、3回と振って思考を戻すとストールに変なシワが残らない様にして玄関を閉じると碧がこちらを見てまたニコリと微笑んだ。


「京也、ありがとう」

「あ…いや、この位気にしなくて良いよ。それよりさ、碧、風呂入れる?」

「うん、おふろ好きだよ」

「そっか、ならもう入れると思うからさ。着替え俺ので良いなら貸してあげるから入らない?」

「うん、わかったよ。京也」

 頷くと、やや困った様に首を傾げながら靴を脱ぐ。碧の靴が持ち主の足から外れる時にぐじゅっと大量に水を含んだ音を出した。

 同様にくつ下も俺が脱ぐ事を促して脱いでもらった。かなりの時間雨に打たれてたんだろうなぁと思うかたわら、碧は何をどうしたらいいかと言った風で脱いだ靴下の履き口を摘んだまま見上げてきた。

「えっと…碧。足寒いだろうからこのモコモコしたところで服脱ぎなよ。くつ下も頂戴ちょうだい?洗っとくから」

 手を差し出すと碧は頷いて靴下を渡してくれた。そのまま洗濯機に靴下を入れる。手元が自由になれば、碧は指定したバスマットの方へ行くと、おもむろに上着を脱ぎ始めた。


が…


「んー…」

 下から持ち上がった上着が首元で動きを止めた、たくし上げようとしている腕も止まって服の中から碧の何とも気の抜けた声が漏れる。

「え、どうしたの?碧…」

「ん、んー。抜けない…たすけて」


 どうやら、雨水を大量に含んだ服がもたついてうまく脱げない上に腕が絡まったらしい。

 もぞもぞと何度かもがいてみたものの、碧は諦めた様に動くのをやめてしまった。


 それから俺と碧は二人で悪戦苦闘しながらやっとこ絡まった服を身体から抜き取る事に成功した。序でにと他のズボンや肌に張り付いたシャツも脱がそうとした時、ふと俺の手に碧の手が添えられた。

「ん?」

「京也、あの、はずかしい…から、一人で出来る」

 服を脱がす事に意識を持っていっていたから制止させる指に顔を上げる。俯き加減に視線を落とす碧の頰がやや赤くなっていた事にようやく気付いた。


あ、あぁ。なんて気の抜けた声が漏れる。

そりゃそうだ。男でも(華奢きゃしゃで一人称が「僕」だから男だって勝手に思い込んでたけど)もし仮にも碧が女子だったとしても流石に裸を見られるのは恥ずかしいだろう。


「大丈夫なら良いんだけど。えっと、なら脱いだ服はこの中に入れておいて」

「ん。うん」


 頷くのを見て、俺は先に部屋に戻った。


 迂闊うかつすぎた。と、流石にリビングの座椅子に座ると俺は両手で顔を覆った。

 碧の恥ずかしそうな顔を思い出すと俺の方も顔が熱くなる。


 世話焼きが転じてお節介にならない様にって長年の親友にいつも釘を刺されていたのに、気付くとあれこれと手をつけたくなる癖をどうにかしたい。


蓮月はづきにまた叱られそうだな」


 一人住まいの人間は独り言が多いってよく言うけど、俺も立派にその一人だと呟いた後に苦笑した。







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