エピローグ ~三つの朝の話

帝国の城下町で

 東の空が、明るみ始めていた。

 夜中の間に冷え切った世界を温めるように、春の日がゆっくりと顔を出していく。

 朝と夜の境目の、ぼやけたような時間。


 インクと紙の束の匂いが染みついた階段を、一人の少女が歩いていた。

 青みがかった黒髪を頭の後ろで二つに縛り、白い布で作られた花飾りで留めている。

 元々小柄な体躯は背筋が曲がっているせいで余計に小さく見え、とぼとぼとした足取りが見るからに憂鬱そうな雰囲気を醸し出している。


 踊り場に造られた窓から柔らかな日差しが入り込み、少女の不機嫌そうな顔と、その首元にかかる黒革のチョーカーを照らした。

 やがて階段を昇りききった先にある短い廊下を、やはりとぼとぼとした足取りで突っ切った少女が、突き当りの扉の前で足を止める。


 毎日毎朝の決まり切った仕事に、倦怠と諦観の混じり合った色を瞳に滲ませた少女は、ノックをすることもなく、無遠慮にドアノブを回した。


「しゃちょー。朝ですよー」


 蝶番の軋む音と共に開けられた扉の中から、日の光が溢れ返った。

「……え?」

 少女がぽかんと口を開ける。


 八帖程の部屋は、建物二階の角部屋で、南東に向けて窓が作られているせいで、この時間にはもう明るい。

 だがそれは、いつもなら自分が奥のベッドに眠るこの部屋の主人を叩き起こし、カーテンを開けてからの話。


 既に開け放たれた窓から漏れ入る花の香りを気にする余裕もなく、少女は自分の目を疑った。

 もしや、今日は世界が終わる日なのだろうか。


「あら。おはよう、アズミちゃん」


「何でもう起きてるんですか、アヤさん」


 この人が、夜明けと同時に目を覚ましているだなんて。


 ……。

 …………。


 その建物には、流麗な筆跡で『桜花新聞社』と書かれた表札が掲げられている。

 帝都の片隅に居を構えるその小さな新聞社は、社長のアヤを含めて従業員僅か5名という小規模な会社である。

 その本拠となる建物の二階に住居を構えるアヤを毎朝起こしにいくのが、従業員の一人であるアズミの日課となっていたのである。


「ちょっと待ってて、今着替えるから」

 いつも一方ならぬ労力を割いて行われるその仕事がなくなり困惑するアズミをよそに、アヤは豪快に寝巻を脱ぎ捨てると、大きな衣装箪笥を開け放ち、ごそごそと身支度を始めた。


「何かあったんですか、アヤさん」

 手持無沙汰になったアズミが、アヤの代わりにベッドに寝転がる。

「あった、っていうか、これからあるのよ」

「はい?」

「デスクの上」


 端的な言葉で示された場所へ視線を向ければ、その乱雑にものが置かれた文机の片隅に、黒い艶を放つ封筒があった。

「…………うわ。出た」

「昨日の晩に妖怪爺が直接持って来てね。ホント、迷惑しちゃうわ」

「あのぅ、私、明日の夜、彼氏とデートの約束……」

「別れなさい。どうせ小遣い稼ぎでしょ」

「はぁ……」


 仰向けに倒れたアズミの顔の上を、窓から吹き込む春の風が撫ぜていく。

 デスクに積まれた紙の束が波打ち、下着姿のアヤの、背中まで伸びる桜色の髪が、光を含んで広がった。


「髪、伸びましたね」

 ぽつりと呟かれたアズミの言葉に、アヤは顔も向けずに答える。

「ん~。あれから三年は経つかしらね~。そろそろ切ろうかしら」

「ええ、もったいないですよ」

「あなたは結局、背ぇ伸びなかったわねぇ」

「うっさいです」


 衣擦れの音と、ぽつぽつと交わされる音が混じっていく。


「そういえば、あの人たちからまた手紙来てませんでした?」

「ええ。今は獣国にいるみたい」

「はぁ? こないだ魔国から変な名前のリンゴ送ってきたばっかじゃないですか」

「知らないわよ、私に聞かれても。そうだ。一緒に入ってたバレッタ、使う?」

「獣国産の? ん~。見せて貰っていいですか?」


 やがて黒のパンツとワイシャツの上からベストを重ねたシンプルな装いのアヤと、二つ結びの髪をダウンポニーに編み直し、白木のバレッタで留めたアズミが階段を降りると、柔和な顔つきの老紳士が二人を出迎えた。


「おはようございます、社長。朝食はいかがなされますかな」

「おはよ、イズマさん。ハタガミの桶柑まだあったわよね。切っといてもらえる?」

「かしこまりました」


 長く伸びる白髪をきれいに纏めた老人は、慇懃な態度で一礼すると、真っ直ぐに伸びた姿勢で炊事場へと向かった。

 それと入れ違いに、長身のアヤよりもさらに一回り背の高い大柄な女性が、のんびりとした足取りで現れた。

 蜂蜜色の髪をだらしなく伸ばしたその女性は、片手に余る程のサイズの握り飯を頬張りながら、寝ぼけ眼でアヤの姿を認めた。


「おはよ~。しゃちょ~。駄目だよ~、朝はちゃんと食べなきゃ~」

「あんたはまず服をちゃんと着なさい、シュリ」

「あう~」

 ワイシャツの前を全開にした女性の襟元を締め上げたアヤは、彼女を置き去りにすたすたと廊下を進んでいく。

 その先には、インクと紙の匂いに満ちた作業場があった。

 部屋の三分の二を占める、渾然たる様相のデスクの並びと反対側に、小さな応接スペースがある。

 小さな机を挟んで置かれた、柔らかそうなソファの片側に、メイドが座っていた。


「おはようございます、社長」

「おはよ、リッカ」


 烏の濡れ羽色の髪をボブカットに切り揃えホワイトブリムで飾り、華奢な体に黒のロングワンピースの上から清楚なエプロンドレスを纏った、明らかに場違いな雰囲気のメイドは、楚々とした仕草で湯呑を啜り、アーモンド型の大きな目をアヤに向ける。


「例の研究者への取材、記事に纏めておきました。目を通して頂けますか?」

「あら。相変わらず仕事が速いわね」

「お褒め頂き光栄ですわ、社長」


 作業場の中で一番奥まった場所にあるデスクに置かれた紙の束を手繰り始めたアヤを、頬に手を当てたメイドがうっとりと見遣る。

「はぁ。相変わらずお美しい……」

 その向かいに、アズミが腰を下ろした。

「ねえ、リッカ。私にもお茶淹れてくれない?」

「自分でやれ」

「……このクソメイド」


「はぁ。いつまで社長はこの女にモーニングコールを任せるのかしら。私の出禁、いい加減解いて頂きたいですわ」

「いや、いくらアヤさんがアレだからって、寝込み襲う気満々の男なんか部屋に上げるわけないでしょ」

「何度も言わせないでください。私は男じゃありません。男の娘です」

「腐れ堕ちろ」


「けんかは~、駄目だよ~」

「みなさまも召し上がりますか?」

 そこへ、ワイシャツのボタンをちぐはぐに止めた巨大な女性――シュリと、真白い大皿に切り分けた桶柑を並べた老紳士――イズマが現れた。


 崩れ落ちるようにソファに座り込んだシュリのあちらこちらの肉が弾む。

「「…………駄肉」」

「ひどいよ~」

 アズミとリッカが左右から呪いの視線を向け、テーブルに置かれた皿に手を伸ばした。

 それをにこにこと見つめながら、イズマがアヤに声をかける。


「社長。全員揃いましたが」

「あいよー。リッカ、赤入れといたから後で見といて」

「かしこまりました」

「アズミちゃん。シュリのボタン直しといて」

「何でわたしが……」

「あう~」


 アヤは作業場の入口手前のデスクに書類を置くと、ソファ周りに集まった従業員たちを見回した。

 全員、その首元に黒革のチョーカーを巻いた、四人の男女を。


「さて皆さん、お仕事の時間です」

 そう言って、アヤが懐から取り出した黒い封筒を見て、アズミを除いた三人の顔色が変わる。

 アヤの爪の先が赤く輝き、摘ままれた封筒が音もなく燃えた。


「アラマキ商会、知ってるわよね?」

 その問いに答えたのは、メイド姿の少年――リッカであった。

「黒塗蜥蜴の食用加工に成功した会社ですわね。独自の解毒法を開発し、帝都の食通たちに殴り込みをかけた……」

「あ~。あれね~。私的には微妙~」

「シュリさん、確か普通に毒のまま食べてませんでしたっけ?」

「あのピリッとしたのが美味しかったのにね~」

「普通はピリッとした後コロっと死んじゃうんですけどね……」


「それはもしや、ここ数か月の間に毒殺された庶民院の関係者たちと何か係わりが?」

「流石ね、イズマさん。黒塗蜥蜴から抽出された毒素が、廃棄処理を免れて出回っている可能性がある。それどころか、お手軽な使用法に『加工』されてね」

「成程。……ただ、たしかあの商会のバックには……」

「貴族院の大御所、クサナギ家の系譜。これじゃあ、騎士団も迂闊に手を出せない」

「これ以上の拡散を防ぐためには正規の捜査ルートには頼れないと……」


 アヤは鼻で笑って腰に手を遣り、従業員、いや、隊員たちを見渡した。

「イズマさんは新薬のせいで割食ってそうな裏ルートに聞き込み。シュリはアラマキ商会、リッカは殺された議員を当って。アズミちゃんは私と一緒にクサナギの下っ端の家に行くわよ」

「「「「了解」」」」


 帝国騎士団の隠し刀――混色部隊。

 表向きは小さな新聞社として細々と記事を発行するその組織は、帝国の犯罪者、逸れもの、異端児を集め、魔道具によって服従させ、表立っては行えない犯罪調査を請け負う使い捨ての秘密部隊である。

 その隊長を務めるアヤは、皿の上の切り分けられた黄色い果実を一口頬張ると、玄関口にかけられた薄いベージュのトレンチコートを羽織り、扉を開けた。


 春霞に煙る、帝都の空を仰ぎ見る。

 花の香を含む風に、鮮やかな桜色の髪が靡いた。


「さ、今日もお仕事、頑張りますか」


 口元に、不敵な笑みを浮かべて。

 徐々に白み始めた混沌の街へと、歩き出した。


 ……。

 …………。


「あ、そうだアヤさん。また例の隊長さんから問い合わせがありましたけど」

「お師匠? ったくしつこいわねぇ」

「いい加減相手してやってくださいよ。いっつも私とリッカが追い返してるんですから」

「いやよ、めんどくさい。どうせお小言しか言わないんだから。こっちは形式上は黒の騎士団所属なんだから、あの人にああだこうだ言われる筋合いなんかないわ」

「だからそれを直接言ってくださいって……」

「それよりアズミちゃん。お爺ちゃんから余計に経費ぶんどってやったから、この仕事片付いたらまたみんなで焼き肉行きましょ」

「不良騎士。……お供します」

「あはは」


 ……。

 …………。

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