聖国の田舎街で
東の空が、明るみ始めていた。
夜中の間に冷え切った世界を温めるように、春の日がゆっくりと顔を出していく。
朝と夜の境目の、ぼやけたような時間。
廃材をかき集めて建てられたボロ長屋の、向かって左側の部屋の戸が、がらりと開いた。
身を屈め、中から這い出てきたのは、長身の青年。
糊のきいたシャツの上から膝下まで伸びるロングコートを羽織り、大きく伸びをする。
遮るものがないせいで、体の全部に当る春の陽射しを存分に浴びると、街中に漂う淡い梅の香を深々と吸い込み、歩き出した。
すたすたと慣れた足取りで青年が町中を歩いていると、ところどころで戸の開く音や、火を起こす音が聞こえてくる。小路を通り抜け、猫のしっぽを跨ぎ、家家の合間を潜ると、石畳の大通りへ出た。
その二つ目の四つ辻の角の、大きな平屋の前で足を止めた青年は、裏口の扉を、控えめに叩いた。
「毎度ー。便利屋でーす」
よく通る澄んだテノールが、通りを抜ける風に溶けた。
やがて、どたどたと走る音と、サンダルをつっかける音が扉の向こうに聞こえ、ガラリと引き戸が開けられた。
玉蜀黍色の髪を高く結い上げた女性が、にっこりと笑う。
「おはよう、ヤマトちゃん。早かったわね」
青年の、短く切り揃えられた金色の髪が、陽射しを受けてきらきらと輝き、灰青色の瞳が、柔らかな笑みを作った。
「おはようございます、ヨーコさん。食べかすついてますよ」
便利屋・ヤマトの一日が、始まろうとしていた。
……。
…………。
「……こりゃ一体どういうことだい、ヤマト?」
「え? 食材の下処理を……」
「さっき、卓の片づけを頼まなかったっけ、私?」
「はい。そちらが終わりましたので……」
「帳簿が綺麗に整理されてるのは?」
「ああ、なんか散らかってたので、まとめておきました。あ、計算間違えてる所があったので、付箋貼っておきましたよ」
「…………」
「あの、なにか……まずかったですか?」
「私らの仕事が何にも残ってないじゃないか!?」
「ええ?」
「まぁまぁ、スミちゃん。終わっちゃったものはしょうがないわよぉ。開店までゆっくりしてましょ?」
「ヨーコ……」
「あれ、カヤノさん。ひょっとして腰痛めてますか?」
「あ、ああ……。分かるのかい?」
「ええ。立った姿勢の重心がずれてますよ。よかったらマッサージしましょうか」
「ううん。お願いしちまおうかねぇ……」
「スミレさんも、肩揉みします?」
「私は遠慮しとくよ。あんたにマッサージされると、仕事する気がなくなっちまう」
「あたしはやってもらおうかなぁ」
「ヨーコは駄目だ」
「なんでよぅ!」
「あははは」
「……ヤマトちゃん。便利屋、楽しい?」
「ええ、楽しいですよ。今日は久しぶりの仕事だったから、つい張り切っちゃいました」
「一昨日まで国からの要請で魔獣退治に駆り出されてた男が、ド田舎の食堂で店員の腰揉みとはねぇ」
「僕はこっちの方が好きですよ」
「便利屋やめてマッサージ屋開いたらどうだい?」
「いえ。食堂の手伝いも楽しいし、庭木の剪定も好きです。山に採取に行くのも、家の修繕も、畑仕事も、犬の散歩も、全部好きです。だから、僕は便利屋が一番向いてるみたいです」
「そうかい。そりゃ結構」
……。
…………。
「兄さん、出かけたみたいですよ。そろそろ起きましょう」
「………う」
ヤマトが出て行ったボロ長屋の真ん中の一室に、柔らかな湯気が立っていた。
薬缶が囲炉裏にかけられ、まだ底冷えのする春の朝に温もりを齎している。
部屋の隅に敷かれた薄っぺらの布団の上で、部屋の主がもぞもぞと起き上がった。
荒波のようにうねる黒髪と、堀の深い顔立ちをした中年の男。
まだ目の開ききらないその顔に、薬缶の蒸気をたっぷりと吸わせた布地が差し出される。
それで乱雑に顔を拭き、目を開ければ、その次に差し出されたのは熱い湯気の立つ湯呑。
それを差し出す、白い指先。
肩口に切り揃えられた金色の髪と、同じ色の瞳。
「おはようございます、ジンゴさん」
「おはよう、ハズキ」
交わされる言葉にも、仄かな温かみがこもる。
湯呑を一口啜り、起き上がったジンゴが、寝巻にしていた厚手の浴衣の帯を締め直す。
ハズキは既に用意されていた握り飯が乗った皿を運び、囲炉裏の縁に置いた。
「昨日、クーネさんから紫蘇味噌を頂いたので、お握りにしてみました」
「うむ。魚に塗って焼いても美味い。釣ってくるか……」
「駄目ですよ。今日はワカサの街に出張整備でしょう」
「そうだったな……」
「新作の釣竿を試したいのは分かりましたから、また今度にしましょうね」
「…………うむ」
自分の分の握り飯も用意したハズキと、壁に掲げられた釣竿を未練たらしそうに盗み見るジンゴが、囲炉裏を囲んで簡素な朝食を取る。
「そういえば、昨日届いた新聞、まだ見てませんでしたよね」
「ああ。昨夜は遅かったからな。そうか、もう荷が届いていたか」
「アラマキ商会が検挙されたそうですよ。何でも、違法薬物の密造――」
「なに!?」
「え??」
半分齧った握り飯を放り、ジンゴが部屋の文机に置かれた新聞を掴み取る。
目を皿のようにして記事の隅から隅までを読み漁り、消沈したように肩を落とした。
「馬鹿者め……。功を焦りすぎたな」
「あの、ジンゴさん? ひょっとして、黒塗蜥蜴の串焼き、お好きだったんですか?」
件の商会が開発した危険生物の解毒は、その取扱いの危険を鑑み、今後は正式に違法認定されることが、記事に書かれている。
「そちらではない。俺が欲しかったのは毒素の方だ」
「ええ!?」
「黒塗蜥蜴の毒の抽出法など、知る者はみな知っている。俺とて専用の設備があれば可能だ。だが、どうしたって個人の手に余る代物ではないのでな。こやつらの働きにはみな期待していたのだ」
「ど、ど、毒の流通をですか?」
「怯えるな。そうではない。そもそも、こんな貴重な薬物を人間を毒殺するために使おうとする方が間違いなのだ。黒塗蜥蜴の毒は確かに強力だが、生物内での残留時間は少ない。この阿呆共はそれを毒殺死体の証拠隠滅に使おうとしたらしいが、精製方法によっては非常に優秀な殺鼠剤になるし、薄めて使えば傷口の消毒にもなる。他にも挙げればキリがないが……」
「は、はあ……。あんまり、危ないことはしないでくださいね……」
その、明らかに興味なさげなハズキの様子を見て、ジンゴが途中で言葉を呑み込んだ。
積もり積もった言葉を溜息にして吐き出すと、残りの握り飯をかきこみ、少し温くなった茶で喉に流し込む。
それを見て苦笑を零したハズキは、空になった皿を纏め、ジンゴの湯呑にもう一杯お茶を注ぐと、立ち上がった。
「私、そろそろ支度しますね」
「ああ。……いや、俺も一緒に出よう」
「そうですか? ジンゴさん。あの、今日のお帰りは……」
「日暮れには帰れるようにする。……お前の飯が食いたい」
「はい! 期待しててくださいね」
二人で身支度を整え、外に出ると、まだ冷える外気が肌を撫で、同時に降り注ぐ春の陽射しが、ほんのりとそれを温めた。
一緒に暮らすようになってからは、無精髭が浮くこともなくなったジンゴの頬を、街での仕事で少しだけ荒れたハズキの手が撫でる。
「愛してますよ、ジンゴさん」
「ああ。俺もだ、ハズキ」
ジンゴは外套を翻して街の住人共用の厩へ、ハズキは養蚕場に向かって街の目抜き通りへ、それぞれの道を歩んでいった。
ここは、忘却の街。
人々が哀しみに蓋をし、日々を生きていくための街。
絹を紡いで、酒を醸して。
笑って生きる。
ここは、メリィ・ウィドウの街。
……。
…………。
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