結びは秘密の味 ~冬の話・おしまい

 重たい雲が、垂れ込めていた。

 日の出の光を遮り、世界に藍色の濃い影を落とす雲が、空の果てまでを覆っている。

 緩やかに吹く風は身の凍るような冷気を運び、乾いた砂埃を静かに舞い上げていく。


 メリィ・ウィドウの街へと続く払暁の街道を、ヒカリは一人で歩いていた。

 背筋は曲がり、引きずるような足取りで、杖代わりの白木の木剣を頼りに歩を進めていく。


「はぁ……。あともうちょっと……のはず」

 息切れを起こしながら、上目遣いに道の先を覗いたその視界に、いまだ街の影は見えない。

 ヒカリは深々と溜息を零すと、木剣の柄を握る手に力を込め、再びゆっくりと歩み始めた。


 昨夜の戦いでオロによって砕かれたはずの木剣は、傷一つない元の姿に戻っている。

 いや、よく見れば、剣身に嵌め込まれていた半透明の石――散魂瓏は失われ、ただ空っぽの窪みだけがそこにあった。

 羽織ったローブの中でころころと揺れるその石の音を感じながら、ヒカリは重い疲労に霞む頭の中で、昨夜の出来事を思い出していた。


『おめぇさん、何かやりたいこととかねぇのかぃ?』


 あくまで自分のことを気にしないヒカリに業を煮やしたオロが、取り敢えずの詫びにと、自らが砕いた木剣の修理をしてくれた時のこと。

 何でも、陽の魔力を極限まで高めることで魔力だけでなく物質の分解もできるように、陰の魔力を極めることで、物質の結合を行うことができるのだという。これを利用すれば、壊れたものを元通りに戻すだけでなく、全くの別の物質同士をつなぎ合わせることもできるのだとか。

 散魂瓏にだけは触れるわけにいかなかったオロは、後はこれを作った奴に直してもらえ、と木剣を返し、ぺこぺこと頭を下げるヒカリへ、真面目な口調で聞いたのだった。


「欲がねえのは結構なことだが、他人のためにしか戦えねぇってのも善し悪しだぜ?」

「そう……でしょうか?」

「あーあー。別に説教垂れようってんじゃねぇよ。そんな面ぁすんなっての」

「はあ……」

「まあ、年寄りの戯言だと思ってくれや。だがなぁ、年頃の娘が、欲しいもんはねぇかと聞かれて何も思いつかねぇってのも、いかがなもんかと思うぜ」


 そう、言われて。


「……『銀鈴林檎』」

「あん?」

 ヒカリの口から、ぽろっと、そんな言葉が零れ落ちた。


「あの。魔国には、銀鈴林檎というものがあるって、聞いたんですけど……」

 その答えに、二人の吸血鬼は思わず顔を見合わせた。

「そりゃ、あるにはあるが……」

「あれは、ウル様の領土で地産地消される希少種だ。流通には出ねぇし、そもそも魔族ですら知ってる者のほうが稀な品だぜ? おめぇさん、誰にその名前聞いたんだね?」

「え、ええっと、それは……」

「……ふむ。まあ、そりゃどうでもいいか」


 オロはそう独り言ちると、しばし黙考した後、悪戯っぽい視線をヒカリに向けて言った。

「ヒカリ。おめぇさん、そいつが食いたいんだな」

「あ、ええっと、ごめんなさい。そこまで貴重なものだとは知らなくて……」

「食いてぇのか。食いたくねぇのか」


『こないだウル君から毟り取……譲ってもらった魔国の銀鈴林檎っていうのがね、もうホントに甘くてジューシーでね。半分に割っただけでもう甘酸っぱい果汁が溢れんばかりの……』 


 鈴の鳴るようなソプラノの声が、ヒカリの脳裏に蘇る。


「食べて、みたいです」

 オロの口元が、にやりと笑みを作った。

「そうかぃ。だが、さっきも言った通り、銀鈴林檎は流通のルートにゃぁ乗らねぇ品だ」

「う。そうですよね……」

「だから、ヒカリ。おめぇ、魔国に遊びに来いや」

「ええ!?」


「今年の分はもう終わっちまっただろうからなぁ。次の秋頃、来てくれりゃ、俺が初物キープしといてやるよ」

「そ――」


 そんなこと、と言いかけたヒカリを、オロは黙って見つめた。

 ヒカリはそれを見て、喉まで出かかった言葉をかろうじて呑み込み、両手を握りしめる。

 その名の通りに、光るような笑みを浮かべて。


「はい! 必ず行きます! お土産に、メリィ・ウィドウの美味しいお酒、持ってきますね!」

「くひひ。そりゃいいな」


 そうしてヒカリは、二人の吸血鬼と別れ、一人帰路へと着いたのだった。


 ……。

 …………。


「魔国かぁ……」

 青息吐息のヒカリが、重く立ち込める曇り空を見上げて溜息を零した。

 勢いで約束してしまったはいいが、聖騎士である自分が魔国に観光に行くことなど、現実に出来るだろうか。勇者であったミツキでさえ、自由に諸国を漫遊することなど出来なかったのだ。


 しかし、その約束は、ヒカリの胸の中に鮮やかな輝きを放ち続けていた。


 この一年、色んな事があった。

 色んな場所へ行き、色んな人と出会った。

 色んなものを食べて、色んな景色を見た。


 それは、病弱だった前世でも、貴族の箱入り娘だった今世でも、決して出来なかったことだった。


「そっか。私、旅が好きなんだ……」


 その発見は、ヒカリの心に薄く張られた膜を剥がしたように、爽やかな風となって通り抜けた。


 風。

 空。

 不思議なもの。

 キレイなもの。

 見たこともないもの。

 想像もできないような。

 きっとこの世界には、そんなものがまだまだ沢山あって。

 それを、自分の足で、自分の眼で、一つずつ見つけに行く。


 そして。

 その時。

 自分の隣に――。


 そんなことを夢想していた時、ヒカリの薄く霞んだ視界に、遠く、遠く、街の建物の影が小さく見えてきた。

 思わず、足が止まる。

「やっと、着いたぁ……。あと、もうちょっと……」

 崩れそうになる足を必死に支え、再びえっちらおっちらと歩みを進めていく。

 やがて街の入口が目に見え始めたころ。


「……あれ?」


 道の反対側から、ぼろぼろの外套を纏った人影が、ふらふらと歩いてくるのが見えた。

 いかにも危うげな足取りで歩くその人物は、街の外を流れる川の畔に鎮座する大岩の前で、崩れるようにして倒れ込んだ。


「だ、大丈夫ですか!?」


 ヒカリは己の疲労も忘れ、その人物の元へと駆け寄った。

 そして。


「…………え?」


 ……。

 …………。


「はぁ。あと、もうちょい……だってのに」


 鉛のような体を引き摺って、ヨルは一人歩いていた。

 いや、殆ど這っていたと言ってもいいかもしれない。

 疲労困憊の体にはもう魔力もなく、一歩踏み出すごとに溶けて崩れそうな程の倦怠感と必死に戦いながら、ヨルはメリィ・ウィドウの街を目指していた。


「みんな、心配してるだろうな……」

 ぽつりと呟いたヨルは、昨日、赤い夕陽の差す廃村の中で、自分が目を覚ました時のことを思い出していた。


『僕たちは、二人とも負けだよ、ヨル君』


 目元を赤く腫らしたヤマトが、ヨルを見下ろしていた。

 茜色に染まる朽ち果てた世界の中で、ヤマトの口元には、柔らかな微笑があった。


「俺は……どう、なって」

 朦朧とする思考の中で、どうやら自分が生きているらしいことを知り、余計に混乱するヨルに、ヤマトは魔王からの言葉を伝えた。


「まだ寝足りないから、しばらく起こすな、ってさ」

「そうか……」

 そして、何が起きたのかを理解して、深々と溜息を吐いた。

「クソだせぇな、俺」

「そうだねぇ」

「はあ……」


 仰向けに寝転がったヨルの横に、ヤマトも腰を下ろす。

「ヨル君。僕は、勇者にはなれそうにない」

「そうかよ」

「ださいのは僕も同じさ。けど、まあ、それでもいいさ。僕は、この世界で生きていくことにするよ」

「俺は……どうするかな」

「うん?」


 茜と藍色のコントラストに染まる空を仰ぎながら、ヨルは言った。

「正直、街に帰るのが怖い。俺が弱っちいせいで、みんなを吸血鬼にしちまって……」

「まあ、それは相手が僕だったからね。仕方ないよ」

「性格……」

「けど、その心配はないんじゃないかな」

「え?」

「さっき、魔王が顕れたとき、君の魂はこの世から消滅していた。多分だけど、街のみんな、もう人間に戻ってると思うよ」

「そう……なのか」

「ふふ。君が弱っちいのが幸いしたね」

「性格変わりすぎだろ、あんた……」

「おいおい、君の理想のお兄さんを僕に押し付けるなよ。そういうのは、君がなればいいだろ」

「はいはい。精進するよ」


 そして、二人の男は、暮れなずむ廃村の真ん中で、ぽつぽつと言葉を交わした。

 溝を埋めるように、或いは、埋められない溝を確認するように。

 互いのこと。

 家族のこと。

 過去のこと。

 未来のこと。

 そして、魂の輪廻のこと。


「そうか。じゃあ、ヒカリさんは、ミツキ・ミカグラの……」

「ああ。だからあいつの馬鹿げた聖気は、本物の勇者からの貰いもんなんだよ。だから余計に、あいつは自分以外の誰かのために、その力を――」

「それは『誤り』だろう、ヨル君」

「あん?」


「考えてもみなよ。彼女の聖気が本当にミツキ・ミカグラのものなんだとしたら、同じ転生者であるはずの君は、どうして普段から魔王の力を使えないんだい?」

「……………………え」

「愚かだなぁ、ヨル君。彼女の力は、おそらく正真正銘、彼女自身の力だ。他の誰でもない、彼女の魂が持つ力だよ」

「そう、なのか……」


「ヨル君。君も、ヒカリさんも、この世界に生きる、一人の人間だ。人間一人に、魂一つ。それ以上でも、それ以下でもない」

「……」

「君たちを縛る前世の記憶は、今の君には無関係なんだよ、ヨル君」

「そうか……」


 呆然とした様子で呟いたヨルの横で、ヤマトが立ち上がった。

「僕はもう行くよ」

「行くって、どこに?」

 上半身だけで起き上がったヨルの目に、夕日を浴びて輝く金糸の髪が揺れる。

「まずは聖都かな。モンドが起こしたことの後始末をしなくちゃ。その後のことは、それから考える」

 柔らかな笑みを浮かべて遥か遠くの空を仰ぎ見るヤマトの瞳は、澄んだ光を宿していた。


「君も、街に早く帰った方がいい。今頃、君、死んだと思われてるだろうから」

「あああ……」

 一体どうやって説明しようかと、街に着いてからの苦労を想像したヨルは、再び深い溜息を吐き、それでも、ほんの少しだけ軽くなった心で、立ち上がった。


「じゃあね。またそのうち」

「おう」


 そう言って、ヨルはヤマトと別れたのだった。


 ……。

 …………。


「はぁ……あと、……もうちょい……」


 そして、夜通し歩き続けたヨルの体は、とうとう限界を迎えようとしていた。

 街道を時折吹き抜けていく風は氷のような冷気を伝え、ますます体力を奪っていく。

 霞む視界の中に、よく見知った川辺の大岩を見つけたとき、一気に気の抜けたヨルは、崩れ落ちるようにして、そこに座り込んでしまったのだった。


 背中を大岩に預けたヨルの目に、東から淡い日の光が届く。

 分厚い雲に遮られ、それでもなお、新しい一日の始まりを告げるその光は、ヨルの瞼を優しく撫でた。


 ああ、そういえば。

 あいつに初めて会ったのも、この場所だったっけ。


 そんなことを思い出していた、ヨルの耳に。

 ばたばたと走り来る、足音が聞こえてきた。

 そして。


「大丈夫ですか!? ………………え?」


 二人の眼が合う。


「ヨル君!?」

「ヒカリ!?」


 ……。

 …………。


「もう、びっくりさせないでくださいよ、ヨル君」

「ちょっと休憩しただけだって」

「もう直ぐそこじゃないですか」

「それがしんどいんだって……」


 徐々に明るさを増していく曇天の下で、ヨルとヒカリは、並んで大岩を背に座っていた。

 子供のように身を寄せ合って、空を見上げる。


「あぁ、そうだ。今、街の中に聖水がねぇんだ。悪いんだけど、帰ったらちょっと作ってくんねぇか」

「あ、ごめんなさい。今、聖気がすっからかんで……」

「はぁ?」

「私もふらふらなんですよ。ご飯食べて一回寝れば回復すると思うんですけど……」

「いや……お前が聖気使い切るって……。何してたんだよ、ヒカリ」

「それは……」


(ツグミに会いに行った先で災害級の魔獣を討伐したんだけど、その時に助けてくれた旅の人が実は吸血鬼で、その人が街の人に受け入れてもらえるようにお手伝いをしたら、その人からヨル君とメリィ・ウィドウの街がすごく怖い吸血鬼に狙われてるって聞いて、急いで止めに行って、戦って、引き分けて、でも話してみたらすごくいい人で、今度魔国にリンゴを貰いに行く約束をしたんです)


「…………色々、あったんですよ」

「なんだよそれ」


「それより、ヨル君こそどうしたんですか? いつにもましてボロボロですけど……」

「ええっと……」


(教会の関係者が森で行き倒れになってたから助けたら、その人は記憶喪失で、なんとなく街に居付いちゃってるうちに、教会の人間がその人を探しに来たんだけど、どうにも信用出来なかったから街ぐるみでその人を護ろうとしたら、街で争いが起きて、でも実はその人はサイオンジ家が作った人造の勇者で、そいつがヒカリを殺しに行こうとしたもんだから、街の人たちから血を吸って追いかけたんだけど、結局負けちまって、せめて相討ちしようとしたんだけど、お情けで生かしてもらって、なんだかんだでそいつとも和解して、今帰ってきたんだ)


「…………色々、あったんだよ」

「なんですか、それ」

「……」

「……」

「今度、落ち着いたら話す」

「私も、そうします。ホント、色々あったんですから」


 二人は揃って遠い目を空の彼方に向け、溜息を吐いた。

 それが、白い蒸気となって、鈍色の空に溶けていく。

 その、空から。


「お」

「わぁ」


 はらり。

 はらり。


 小さな真白の欠片が、舞い降りてきた。

 風に揺れて、ちらちらと。

 東からの光を透かして、きらきらと。


「雪だぁ……」

「道理で寒いわけだよ……」


 地表に触れれば、すぐに溶けて消えてしまうような、幽かな雪の華が、しずしずと舞い落ちていく。

 二人の寄り添う大岩に、ゆるゆると流れる川面に、色彩を失った道の上に、音もなく、降り続ける。

 ヒカリの眼が輝きを帯び、ヨルの口元が苦笑した。


「ヨル君」

「ん?」

「私、やりたいことが出来たんです」

「やりたいこと?」

「はい。誰かのためじゃなくて、自分のために、やりたいことが出来たんですよ」

「へえ……」


「あの、それで、ですね。……もし、もし良かったらなんですけど。……あの、全然断ってくれて構わないんですけど。その……ヨル君も、一緒に――」

「いいぞ」

「え?」

「いい」

「…………」

「俺も、お前と一緒にいたい」


 ヨルの顔には、春の陽射しのような、柔らかな笑みがあった。

 ヒカリはそれを、横目で見上げ、彼の頬が、僅かに赤らんでいるのに気づいた。

 ヒカリの顔と、胸の奥が、熱を帯びていく。


 ヨルは、自分の心臓の鼓動が、僅かに速くなっていることに気づいた。

 隣を見るのが、怖かった。

 ただ、空から舞い落ちる雪を、目で追った。


「ヨル君」

「ん?」

「今、魔力、なくなっちゃってるんですよね」

「ああ」

「私も、空っぽなんですよ」

「??」


 ――今なら、出来るよね。


 そんな呟きを、ヨルの耳が拾った次の瞬間。

 ヨルの視界が、ぐるりと回った。


「え……?」


 地面に仰向けに倒れたヨルの目の前に、ふわふわとした栗色の髪を垂らしたヒカリの顔があった。

 飛びっきりの悪戯に成功したような、それでいて、何かを堪えるような赤らんだ顔で、ヨルの顔を真っ直ぐに覗き込んでいる。


「ヨル君は、いけない人です」

「あぁ?」

「いっつもいっつも、私のこと子供扱いするくせに、自分は危ないことばっかりして、心配かけさせて。他の女の人にばっかり甘い顔して、私のことはぞんざいに扱うくせに、そうやって、……そうやって、たまに、すごく、優しくしてくれて……」

「…………」


 ぽろぽろと零れ落ちる言の葉が、ヨルの耳を熱くしていく。


 そして。


「だから――」


 栗色の髪が、艶なしの黒髪に重なっていく。



「邪悪な吸血鬼。私が、退治してあげる」



「……ああ、頼むよ」



 それは、誰も知らない、誰にも言えない、秘密の味。


 ヨルの世界が、暖かな影に覆われて。

 その魂に、光が満ちていく。


 溶け合った二人の時間に、しんしんと、淡雪が降り積もっていった。


 ……。

 …………。

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