堕ちていく心

 気温が、下がっていた。

 元々肌を刺すようであった冬の空気が、いよいよ凍えるほどの冷気をもって、地の底を満たしていた。

 口から吐き出す荒い呼吸が、白い蒸気となって溶けていく。

 全身を包み込む、質量を持ったかのような恐怖の中で、ヤマトの口の端が、徐々に吊り上がっていった。


「魔王……だって?」


 絶対零度の重圧。

 僅か一合の攻防でさえ感じ取れた圧倒的な力量。

 その、在り得べからざる名乗りを裏付けるには、十分過ぎるほど。


 しかし、身が摺り潰されそうな程のプレッシャーの中で、ヤマトは己の胸の内がふつふつと煮え滾っていくのを感じていた。


(魔王……)

 それは、先の大戦の果てに、確かに死んだはずの男。

 先代勇者と相討ちし、この世界に平和を齎したはずの男。

 彼は、滅んでなどいなかったのだ。ヨルという、真祖の吸血鬼の魂を隠れ蓑にし、復活の機会を窺っていた。


 いや、いや。

 そんなことはもう・・・・・・・・、どうでもいい・・・・・・・


(魔王。魔王。魔王)


 勇者となるべくして作られ、勇者であるべくして生かされてきた自分が、その存在の証しを立てられる唯一の敵。

 ヤマトの瞳が瑠璃色の光を放ち、ざわめく羽衣が伸び広がり、手足の先までを包み込んでいく。

 太刀の輝きは一層眩く。

 左手には錫杖を顕す。


 ああ。嬉しからずや。


 満面の笑みを湛えたヤマトが、闇影を打ち祓う日輪と化し、宙を翔けた。

 その輝きが振りかざされた、その瞬間。


「縛せ。『這蕨はいわらび』」


 澄んだテノールの放つまじないに乗せて、一塊の闇が飛来した。

「んぐっ」

 ヤマトの眼でさえ追い切れぬほどの速度で懐に飛び込んできたその触手が、鳩尾にめり込む直前で、辛うじて身を捩ることに成功する。


(『這蕨』……!?)

 見れば、魔王――ウルの足元から、指先程の太さの闇の縄が一本、こちらまで伸びている。

 それを見たヤマトが、口元を噛み締めた。


「舐めるなよ……!」

 即座に太刀を振りかざし、無防備に伸びた触手の半ば程を斬りつけようとした時。

 ぶん。

 それが、掻き消えた。


「な!?」

 違う。

 躱されたのだ。

 その直後、背後から迫りくる悪寒に、殆ど反射に近い動きで頭を下げたヤマトの背後を、空中を迂回して戻ってきた『這蕨』の先端が奔り抜けた。


 項が粟立ち、思考が乱される。

 そうこうしているうちにも、大穴の底の闇の中を、縦横無尽に闇の触手が駆けずり回っていく。

「ふはは。どうした、小僧。縄遊びは苦手か?」

 嘲るような声に、気を向ける余裕もない。


 ヤマトは目を閉じ、意識を研ぎ澄ませた。

 右手の太刀と左手の錫杖を撃ち合わせ、薙刀型の聖術として組み直す。

 心を空に。

 体から力が抜ける。


 空白の時は、二秒丁度。

「破!!!」

 背後に振るった聖刃と、飛来した闇の触手の先端がぶつかり。


 ばしぃぃっ!!


 弾けた。


 いや。


「ぐぅっ」

 弾かれた・・・・


 無防備に体勢を崩されたヤマトの足に『這蕨』が巻き付いていく。

 速いだけではない。

 (魔力の密度が、桁違いだ。……なら!)


 引き摺り落とされそうになる体を、羽衣が波打ち宙に押し留める。

 ヤマトの左手が、薙刀の刃を撫で上げた。


「三世一切阻むものなし。唯一人前を征け! 『勇一嘴いさみひとつばし!!』」


 きゅがぁっっ!!!


 朝焼けの光が爆発し、聳え立つ巨大な刃が、真っ直ぐに振り下ろされた。


 じゅっ。


 僅かな抵抗の音と共に、ヤマトに絡みつく闇の触手が根元から断ち切られ、大穴の底に、更に深い裂け目が出来る。

 立ち込める粉塵が周囲を満たしていく。

 眼下に、魔王の姿はない。


 しかし。

 その動きは、見えていた。


「ふぅぅぅぅぅっっ」

 びきり、と額に青筋を浮かせ、地に突き立てられた巨刃を引き戻し。

「ずぇぁああ!!!!」


 そのまま、横薙ぎに振り回した。


 ががががががが。


 大穴の底を、壁面を、光の刃が切り裂いていく。

 白煙を巻いて振るわれた、宙に跳び上がっていた魔王の体を捉える。

 その直前で、魔王の姿が掻き消えた。


「ふわふわ飛んで、ぴかぴか光る。季節外れの蛍か貴様は」

 背後から、声。


 ヤマトの腕を、青白い手が掴み取った。

「男なら――」

「んぐぅ」

 その瞬間、そこから流し込まれた陰の波動が、ヤマトの全身に絶望的な悪寒を奔らせ、体を覆っていた羽衣型の聖術が霧消する。


「――地に足着けて闘わんか!!」


 そのまま腕を引かれ、まるでゴミでも放るような乱雑さで、投げ捨てられた。


 剛速。

 再び聖術を発動する暇もなく、このままでは岩壁に激突するかと思われた直前で、薙刀を地にめり込ませ、気持ち程度に速度を殺す。

 辛うじて受け身が間に合うが、全身を強かに打ち付けられ、胃の腑がせり上がるような吐き気を催させた。

 それを生唾と共に飲み下し即座に立ち上がると、再び薙刀を構える。

 ヤマトに一拍遅れて落下してきた魔王の、その芝居がかった着地の動作が終わる前に、足を踏み出す。


 魔王の血の色の瞳と目が合う。


 そこにあった、明らかな嘲りの念を見て。


「おおおおおあああああ!!!!!」


 ヤマトは、吠えた。


「ふははは。威勢だけは一人前だな。いいだろう。ならばこちらも全力で相手をしてやろう。さあ、食らうがい――」

「ぜぁああ!!!」

 ずぱぁぁん!!!


 余裕を満々と湛えた台詞と共に、何やら奇妙な体勢を取っていた魔王の体を、眩い一閃が断ち割った。

 胸から上が宙に浮き、勢いに押された下半身がぐらりと倒れる。

 明後日の方を向いた魔王の指先が空しく舞う。


 その、全てのパーツが、赤く弾けた。


「!?」

 一瞬で視界が塞がれ、濃密な血の香りが鼻腔を侵す。


「さあ! 食・ら・う・が・いい!」

 僅かに苛立ちを滲ませた声が、血霧の結界の中に木霊する。

 四方から聞こえるその声に、ヤマトは薙刀を地に突き立てた。


「一切不垢たれ! 『天為――」

「魔王666の秘拳の一つ――」


 その声は、ヤマトの眼前、50センチ先から。


(速っ――)


 聖術を発動させる隙もなく。


「――『劫火龍鏖拳』」


 ごばっっっ!!!!


 撃ち込まれたのは、右の中段突き。

 それと同時に放たれた、津波のような陰の魔力の波動は、ヤマトの体を一瞬で呑み込み、聖光ひかりを消し去り、世界を闇で満たした。


 ……。

 …………。


 数秒後。


「ふっ。決まった……」

 満足そうな顔をして呟いた魔王――ウルが、残心を解き、腕を伸ばした。

「しかし、萄也といいこの男といい、何故こちらのポージングの途中で仕掛けてくるのだ。全く、度し難い無粋さだな」 


 すたすたと優美に歩みを進めるウルの元に、大穴の底を満たしていた陰の魔力が吸い取られるように収束していく。


 晴れた視界の中に、ヤマトの姿はなかった。

「んん?」

 僅かに目を見開いたウルの口元が、にたりと吊り上がった。

 次の瞬間。


「………ぉぉぉおおあああああ!!!」


 ウルの頭上に、聖刃が飛来した。


「天!!」


 ずぱぁぁん!!

 首を傾けただけで躱されたその一撃が、地面に深々と爪痕を刻む。

 そして。


「日!!」

 続けざまに、追撃。

 同じようにゆるりと躱したウルが目線を上に向ける。


 そこには、眩い陽光を身に纏う、ずたぼろの男がいた。

 口元を血反吐で汚し、金糸の髪は土塗れ。

 青白い顔に、血走った眼。

 脚の先に陽光を灯し、両腕には、二振りの太刀。

 防禦を捨てた、特攻の型。


「似! 階!」

 両腕の太刀を交互に振るい、白刃の連撃を地に放つ。


「標! 衆! 生!!」

 その悉くが、躱される。

 にたにたと笑みを浮かべるウルは、ゆらりゆらりと体を揺らし、止めることのない剣撃を、危うげもなく躱していく。

 その度に、ウルの足元に、破壊の爪痕が刻まれていく。


(痛い。苦しい。辛い。痛い、痛い痛い痛い)


 両足の聖光と、自らが放ち続ける聖刃の反動で己の体を宙に留めながら、ヤマトは発狂しそうな頭痛と戦っていた。


 限界が近い。

 本来指輪の補助を借りて使うべき聖術を、生身の体で使い続けているのだ。

 魂が引きちぎられそうな程の激痛がヤマトの脳髄を苛んでいる。


 しかし。


「覚!!」


 負けられない。


「悟! 無!」


 負けるわけにはいかない。


「盡! 心! 自!!」


 ここで負けてしまうのなら、自分の人生いのちは、一体なんだったのだ。


 虚ろな日々。

 伽藍洞の日々。


 たった数日、あの田舎町で過ごした時間を知ってしまった今。

 鮮やかな色彩と、人間の体の持つ温もりを知ってしまった今。

 自分が犠牲にしてきたものの価値を知った今。

 それを代償に得た力が。

 これまでの人生が。

 全くの無意味なものであったなどと、一体どうして許容できる?


(そうだ)

(僕は、この男を倒す)

(そして――)


「蕭!!!」


(――勇者になる!!!)


 かぁぁあああん!!!


 最後の一撃は、刃の投擲。

 暴力的な閃光が弾け、ウルの視界を一瞬隠す。

 反動を失ったヤマトの体が落下し、地に突き刺さった二本の太刀の柄を掴む。


 それまでの連撃で傷ついた地面の、その傷痕が陣となり、聖光を放ち始める。

 瑠璃色の瞳が燃え。

 枯れかかった声が、その聖文を叫ぶ。


「光よ有れ!! 『荘厳ほ――ぐぶっ」


 その口に、青白い手が。


 じゅうじゅうと白い煙を立てて、灼ける右手が、ヤマトの口を塞いだ。

 思わず仰け反ったヤマトの体、その右腕が高く引かれる。

 右の懐に、ウルの体が滑り込み。

 その右脚が大きく振られ、ヤマトの膝の裏を刈り取る。


 一瞬の浮遊。


 ヤマトの瞳が、空を映し。


 次の一瞬で、脊髄と頭蓋に叩きつけられた衝撃に、暗闇へと堕とされた。


 ……。

 …………。


「ふっははははははは。これぞ、秘儀・『落日崩嶽破』!!」


 両手を腰に当て呵々と笑うウルは、視界の端に妙なものを見た。

 今しがた自分が打ち倒した男の右手に嵌まる指輪が、音もなくさらさらと崩れ去ったところを。

 それをしげしげと眺めたウルは、ふん、と鼻息を一つ漏らし、つまらなそうな目で気絶した男――ヤマトを見下ろす。


「成程、指輪に聖気を依存しておったわけだ。下らんことをする……」


 そして、白目を剥いた男の呼吸が止まっていることを認めると――

「起きんか」

「がふっ」

 鳩尾を踏みつけ、無理やり呼吸を呼び起こした。


「がはっ。ごっほっ。ぐ。げぇええ」

 数度咳込んだ後、黄色い胃液を吐き出して、ヤマトは覚醒した。

 口元の血糊に吐瀉物を混ぜて汚し、脂汗を滴らせ、荒い呼吸で酸素を貪る。

 やがてそれも収まると、ヤマトは崩れ落ちるように倒れ込み、仰向けに転がった。


「……僕は、負けたのか」

 感情を失くしたような声で、ぽつりと呟く。

 瑠璃色の光を失った灰青の瞳が、虚ろな視線を宙に彷徨わせた。

 その、掠れて消えそうな言葉に、ウルは鷹揚に頷いた。

「うむ。まあ、ただの人間・・・・・にしては中々歯ごたえがあった。強いて言うならば、そうだな。もう少し闘いの美学というものを――」

「僕を……殺さないのか」

「何だと?」


「僕は、……勇者だ。あなたを、殺すために、僕は全てを捨てさせられた。あなたを殺せないのなら、僕は……」

「くだらんなぁ、人間」

「……な、に?」


 もはや身動きも取れなくなったヤマトの頭の横に、ウルは腰かけた。


「くだらん、くだらん。そういうのはな、もう流行らんぞ。何をカッコつけようとしているのか知らんが、やめておけ」

「僕は……ふざけてなんて」

「貴様、本物の勇者がどういうものだか知らんのか?」

「本物の……?」


 今にも消え去りそうな声で話すヤマトの言葉を適当に聞き流し、ウルは深々と溜息をついた。

「あやつはなぁ。甘いものが好きだ」

「……は?」

「次に好きなのは毛並みの柔らかい小動物だな。特に猫が好きらしい。聖騎士の養成校で教官に隠れて飼育していた時の自慢話を、俺がいくら聞き飽きても話すのを止めんのだ」

「なに、を……言っている? あなたは、魔王じゃないのか……?」

「その疑問を、是非あの女に聞かせてやりたかったな。あやつは俺の前でも阿呆みたいによく笑い、よく泣いていた。美しい景色に目を輝かせては、故郷の父母にも見せてやりたいと言っていた。甘いものと可愛いものが何より好きで、…………生きることを、心から楽しんでいる女だった」

「……生きる、ことを」


「堕ちよ、人間」


 澄んだテノールの声が、ヤマトの魂をいざなった。


「貴様の生まれも育ちも、俺には欠片の興味もない。だがな、たかだか一度喧嘩に負けた程度で死にたくなるような人生など、今のうちに捨てておけ。食って、笑って、生きて、死ね。それが、あやつの作りたかった世界だ」


 ヤマトは、自分の体に重力を感じた。

 それは、『正答』とは程遠い感情。

 

 今、心から。

 あの街で、熱い湯気の立つたんぽ鍋が食べたい。


 それは重たく、心を縫い付けて、身を起こせぬほどに、甘美な堕落であった。

 灰青の瞳に、熱い雫が湧き。

 頬を伝って、地に溶けた。


「…………一つ、聞かせてくれ」

「なんだ」

 嗚咽を堪えて絞り出したヤマトの声に、ウルが面倒くさそうに応える。


「ヨル君は、どうなったんだ?」

「ヨル? ああ、こやつの名前か」

 そう言ってウルは、自分の体を見下ろした。その口元が、にんまりと笑みを作る。

「何だ、萄也の奴め。自分の名前に俺の名前をもじったな? ……ちょっと嬉しいではないか」

「??」

 怪しげな笑みを浮かべるウルを怪訝そうに見上げるヤマトに、ウルは問いを返した。


「しかし、何故貴様がこやつのことを気にする?」

「彼は、僕の……」

 その言葉の先を躊躇ったのは、一瞬のことであった。

「僕の、友達なんだ。……教えてくれ、魔王。彼の魂は、今何処に――?」

「ふん。その質問に俺が答えてやる義理などありはしないが、まあいいだろう。しかしその前に、小僧。貴様の知るこやつの事を話してみよ」

「……なに?」

「だから、この男がこの世界でどう生きてきたか、貴様の知る限りのことを教えろと言っているのだ。それが、先の質問に答える代償と思え」

「…………いいだろう」


 そして、ヤマトは語った。

 自分の知る限りの、ヨルの人生を。

 本人に聞いた話。メリィ・ウィドウの住人に聞いた話。

 戦災孤児としての生まれと、傭兵団に養われた幼少期。

 街に来てからの日々。最初は疎まれていたものの、徐々に受け入れられていった便利屋の仕事。

 そして、今年の春。一人の新米聖騎士との出会い。


「ヨル君は、弱い男だ。けど、常に強く、正しくあろうと、もがき続けて生きている。そんな彼だからこそ、街のみんなに慕われ、愛されているように僕には見えた。彼の周りには、色んな人の笑顔があった」

「…………そうか」

「彼は、優れた人間じゃない。けど、こんな所で死んでいい人間でもない。彼の存在を必要とする人が、この世界には確かにいるんだ」

「ならばそれを、奴に直接教えてやれ」

「……え?」


 ウルの体が、立ち上がった。

 その横顔に、満足そうな笑みを浮かべて。


「ああ、ついでに俺からの言葉だと伝えておけ。『次はないぞ』、とな」


 すたすたと、数歩足を進め。

 大穴の底の、中心にて立ち止まった。


 深く、息を吸い込み。


「一つ積んでは父のため……。二つ積んでは母のため……」


 朗々と、澄んだテノールの紡ぐうたが、地の底に響いていった。


 ……。

 …………。

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