月は欠けども、消え去らじ

 騙し騙し、生きてきた。


 強い振りをして。

 器用な振りをして。

 人当たりの良い振りをして。

 許しを請うように、生きてきた。


 どこかで間違えてしまった自分の生き方を、この世界でならやり直せると信じて。


 けれど、そんなものは所詮、幻想で。

 どこまで行っても、自分は自分でしかなくて。

 弱くて、狡くて、意気地なしの、あの日の自分のままで。


 あの日、電話越しに聞いた母の泣き声も、もの言わぬ父の体に取り縋る弟たちの涙も、未だこの魂の奥に、止まない雨となって振り続けている。

 自分は結局、半端者なのだと。

 本物には到底なりきれない、矮小な愚物なのだと。

 どれだけ人を救けても、この贖罪は終わらないのだと。

 そう、知らしめるための雨。


 魔法は通じなかった。

 無尽蔵の聖気によって一から十まで撥ね返され、掻き消され、返り討ちにされた。


 技も通じなかった。

 所詮は初見殺し。この世界に存在しない技術でいくら優位に立とうと、数度繰り返せばそれで終わり。

 もはやこの敵に、自身の持ついかなる技も効果は望めなかった。


 さっきまで激痛を発していたはずの全身が、今はもう何も感じない。

 手足の腱は断ち切られ、指一本動かせず、それを治すための魔力もまた、焼き尽くされた。


 自分は、負けたのだ。

 完膚なきまでに、叩きのめされた。


 しとしとと降り注ぐ雨が、魂から染み出し、体を闇の底に沈めていくような気がした。


 悔しい気持ちはなかった。

 悲しいとも思わなかった。

 こんなことになるんじゃないかと、心のどこかで分かっていたような気さえする。


 最後に一つ、息を吸い込み。


 ちょきん、と。

 糸を切るように。



 ヨルは、諦めた。



 ……。

 …………。


 ヤマトの体が、仄暗き大穴の淵をその半ば程まで浮上していた時、それ・・は聞こえてきた。


「……一つ、積んでは、父のため」


 まるで蚊の鳴くような、か細く、頼りない声。

 大穴の壁面に反響し、辛うじてヤマトの耳に届く。


「二つ、積んでは、母のため……」


 振り返れば、いつの間にかヨルの体が仰向きに転がっていた。

 つい先ほど、止めを刺し終えたはずの闇の魔物。その、黒焦げになった体の、どうにか口と判じられる顔の裂け目が、もぞもぞと動いているのが見て取れる。

 泡のように、ぽつり、ぽつりとそこから湧き出る、今にも途切れて消えそうな、かそけき言の葉。


「三つ……積んでは、魂逆たまさかの、我が身の花のかわいさよ……」


 ヤマトの背筋に、悪寒が走った。

 これは、うた


(いや、違う――)


「日も数そいてうらぶれの、うつつは何処と肌を舐め。

 色に染めしむ。香にめでしむ。情を四方に巡らせば、はら。

 はら、はら、はらと。伸ぶは白桜、月の光も曇らじな」


『答え』は直ぐに出た。


(これは……詠唱だ。けど――)


 今までヨルは、魔法に詠唱を用いることをしなかった。

 その彼が、今、初めて唱える呪言。

 一般に、魔法の詠唱はその内容が高度であればあるほど長い文言が必要とされる。

 時には陣や手指、あるいは全身の動きを借りてその補助とすることもあるが、ヨルの口から漏れ出でるその詠唱は、ヤマトの知識の内にはないものであった。

 それどころか。


(なんだ、この魔法は……?)


『正答者』の力をもってしても、その詠唱の正体が掴めない。


「われも散りなん一盛ひとさかり

 つきも隠れん一滴ひとしずく

 また一夜ひとよ。空明くりなば――」


 無理もない。

 その魔法は、この世で唯一人、ヨルだけが使える魔法。

 その生涯でただ一度きり、使うことを許された魔法。


 名を、反魂魔法。


 因果地平の彼方までを見通す『正答者』の力とて、この世ならざる彼岸の果てには届かない。


 そう。

 ヨルは諦めた。

 たとえ何があろうと、決して譲れないただ一つの願いのために。

 己の命を、諦めた・・・・・・・・


 その体を、静かに闇の衣が覆っていく。

 うぞうぞと。

 ざわざわと。

 ヨルの全身を蝕むように影が包み込み。

 地の底へと溶かし込んでいく。


(元々、借り物の人生いのちだ。予定より随分早いけどよ……)


 ただ一か所だけ残った唇が、最期の言葉を紡ぎ出す。


(……返すぜ)


「帰り来よ。……『薄明缼月はくめいかけつき』」


 ヨルの魂が、裏返った。


 ……。

 …………。


 づ。

 づづづづづ。


 地鳴りのような音が、大穴の中に響いた。


 ヤマトは本能的な危機を察し、穴の外へ出ようと、身に纏う羽衣を波打たせた。

 しかし。

「……なっ!?」

 一瞬輝きを増し、その体を押し上げようとした羽衣型の聖術が、何の前触れもなしに消え失せた。

 ヤマトの体に重力が戻り、再び地の底へと招じられる。

 落下中に体勢を立て直し受け身を取ったヤマトが顔を上げた先に、それ・・はいた。


「くふ」


 先程までヨルがいたはずの場所に、聳え立つような長身の男。


「くはは」


 彫像のように引き締まった筋肉は、透き通るような白。

 闇の気が凝ったような薄衣を身に纏い、そこに垂れる長い髪は、艶なしの黒。

 色彩を失くした全身の中で、ただ二つ、血の色の滲む双眸。


「くははははははははは」


 高らかに嗤う、澄んだテノールの声。


(ヨル君……じゃない。召喚魔法でもない。そもそも、全くの他人という・・・・・・・・わけでもない・・・・・・?)

『正答者』の力でも見通せない、突如として現れた男に、ヤマトは困惑していた。

 そんなヤマトの存在に気付いているのかどうかも分からない、その男は、まだ笑い足りぬとばかりに肩を震わしながら、芝居がかった挙動で片手を額に当て、俯いた。


「全く、愚かな小僧よなぁ……。折角この俺がくれてやったものを、たかだか二十年足らずで突き返すとは……」


 こちらはまだまだ寝足りんわ。

 そう独り言ちたその台詞に、ヤマトの眉根がぴくりと動いた。

 その声には、聞き覚えがある。

 かつてヨルの背に負ぶわれていた時に聞こえてきた、ヨルの魂に常に響き続ける二つの声のうちの一つ。


「……お前は、何者だ?」

 思わずそう問うたヤマトの声が、掠れていた。


「んん?」

 そこで、その男は、初めてヤマトの存在に気づいたように顔をあげた。

 その瞬間。

 ヤマトの背筋を、氷よりも冷たい悪寒が犯した。


 朱い、目が。


 心魂を締め上げるような恐怖を齎し、どろりと停滞していた時間を、一気に加速させた。


 ぱん!!

 乾いた音が大穴の中に響く。

「急ぎ定めのごとくせよ。誇るは魂。纏わぬ光!」

 ヤマトの体を陽光が包み、羽衣が波打つ。

 粘性を持って絡みつく陰の気に負けぬよう、強く聖気を込めた輝きが、ヤマトの体を浮かび上がらせる。


「断つは意思。過たぬ御星!」

 ぶん。

 空気を切り裂くように、光り輝く太刀が掲げられ、その切っ先が闇の衣を纏う男へと向けられる。


「…………ほう。この俺に誰何したばかりか刃を向けるとはな。面白い。いや、面白くないな。全く気に食わん」

 ゆらり、ゆらり。

 男が、足を踏み出した。

 そこへ。


「ずぇあ!!」

 突き出された、必殺の一撃が。


「え…………?」

 音もなく、静止した。


 眩い輝きを放ち続ける太刀型の聖術。

 その先端に向けられた男の右手――人差し指と中指の二本が、黒々と渦巻く陰の気を纏い、それを受け止めている。

 

「ああ。全く気に食わん」


 聞く者の正気を闇の底へ引きずり込むような声が、ヤマトの耳朶のすぐそばで聞こえた。


「……貴様、誰に向かって勇者の真似事をしている?」


 ごしゃぁ!!

 交通事故のような音を立てて、ヤマトの体が吹き飛ばされた。

 そのまま大穴の壁面に激突する直前で、羽衣が輝きを放ち体を急停止させる。

 顔面を強打され、ぐにゃぐにゃと揺れる視界の中で、ヤマトは思考を回転させた。

 この魔力。

 一連の台詞。

 ヤマトに芽生えた理性が必死に否定する中で、『正答者』の力は男の正体を正確に告げていた。


 それは、魔を統べる人外の皇。

 かつて千を超える人族の騎士の瞳を絶望に染め上げた血吸いの鬼。

 しずしずと、闇の衣を引き摺って。


 夜の王が顕れる。

 


「矮小なる人間よ。我が歩みの前に摺り潰される虫けらよ。せめてその魂に刻むがいい。

 我こそは魔王。ウル・ノストラキュトスである」



 ……。

 …………。

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