鍋を囲んだ日
しゅんしゅんと、熱い湯気が立ち昇っていた。
赤々と炭の熾きた囲炉裏の上に、薬缶が吊り下げられているのである。
藺草もすっかり色褪せた、十五畳ほどの広さの座敷。
その上に、モンド・サイオンジは座っていた。
左腕には乱雑に包帯が巻かれ、吊られて固定されている。無精髭の浮いた肌は青白く、憔悴の色が濃い。
ここは、聖都から北東方面にある小さな村。
自給自足の生活と酪農による細やかな交易によって成り立つこの田舎の村には、聖都でも一握りの人間しか知らない裏の顔があった。
それが、隣国、フソウ帝国へと通じる、非公式の抜け道である。
この村の中に隠された洞窟を使えば、一切の記録を残すことなく聖国から抜け出すことが出来る。
モンドは、帝国への亡命を企てていたのだ。
(人造勇者の力は、帝国の貴族どもにとっても千金の価値がある。禁制魔道具の取引ルートを辿り、その中枢に食い込めば……)
聖国での復権には、恐らく望みはあるまい。
帝国にて力をつけ直し、今度こそ勇者を完成させる。そうすれば、もはや大陸中に自分の敵はいなくなる。モンドの眼には、いまだ昏い焔が盛っていた。
だが、そのためにはまず安全な場所まで身を隠す必要がある。
モンドは殆ど着の身着のままで聖都を飛び出し、夜通し馬を走らせて、この小村へと辿り着いた。そこで最初に出会った、不健康そうな顔をした小太りの男に案内されたこの屋敷で、ひとまずの暖を取っているのである。
(しかしあの男、何処かで見たことがあるような……)
モンドがこの村を利用するのはこれで三度目だが、以前の二回はいずれも戦時中のこと。しかし、ごく最近に、あの男の顔を見たことがなかっただろうか。
それが、思い出せない……。
しばらくして、座敷の四方を囲む襖の一つが開くと、香ばしい香りと共に、モンドをこの座敷まで案内した女性が現れた。
豊かな黒髪をきっちりと結い上げたその中年の女性は、簡素な着物の上から真白い割烹着を纏い、浅く日に焼けた手に鍋を抱えている。その脇に置かれた盆には、既に燗のつけられた徳利が置かれていた。
「ごめんなさいねぇ、お待たせしちゃって。さあさ、お腹も空いているでしょう。召し上がってくださいな」
鼻腔を擽る煮えた鍋の立てる湯気と、そこに混じる酒の匂いに、先程までの煩悶があっさりと消え去ったモンドの喉が、ぐびりと鳴った。
「腕がそれでは食べづらいでしょうから、具は細かく切ってますわ。ああ、あとできちんと手当もしましょうね」
「かたじけない」
椀に寄せられた汁には種々の根菜やら何かの獣の肉やらがたっぷりと入っている。
モンドは顔の全部に湯気を浴びると、それを汁ごと掻き込んだ。
美味い。
火傷しそうなほどの熱の中に、確かな滋養を感じさせる旨味が溢れ、ゆっくりと胃の腑へ下っていく。
モンドは無心にそれを貪った。
子供のように椀にかぶりつくモンドを、女はただ、にこにこと見守っていた。
やがて椀にたっぷり二杯分を平らげ、小さな猪口で含むように酒を飲んでいたモンドは、目の前の光景にふとした違和感を覚えた。
囲炉裏の上に提げられた鍋と、目の前に座り微笑を浮かべる割烹着姿の女性。
囲炉裏を囲むように、座布団が四つ。
女の脇には、空の杯が積まれている。
座布団が、四つ。
(最初から、……あっただろうか?)
ここに通された時、自分は確か一つだけ敷かれたこの座布団に腰を下ろしたのではなかったか?
自分が食事に夢中になっている間に用意された?
自分はそれに気づかなかった?
重ねられた杯が、五つ。
にこにこと笑う女。
「この屋敷には、……私以外に客がいるのかね」
そう切り出したモンドに、女は相変わらずにこやかな笑みを崩さずに答えた。
「いいえ、お客様はあなただけよ」
「では、その杯は?」
「ああ、これ? 私の家族の分よ」
「家族?」
「ええ。とてもいい子たちよ。もう少しで帰ってくると思うのだけど」
モンドはそれを聞くと、殆ど反射的な動きで猪口を置き、膝に手をついた。
「そうか。申し訳ないが、私はあまり人目につきたくはないのでな。席を外させてもらおう」
そう言って立ち上がりかけたモンドの体を、女はやんわりと押し留めた。
「まあ、そう仰らないで。鍋はみんなで囲んだ方が美味しいわ」
「しかし、私は……」
女の手に、力はほとんど込められていなかった。それにも拘わらず、モンドは何故かその手を振り払うことが出来ず、再び座布団へと腰を下ろしてしまう。
猪口の中に注がれた酒を、勧められるがままに口にしてしまう。
(なんだ……? 何かがおかしい……)
自分の隣に敷かれたこの座布団はいつからあった?
いや、自分はいつからここにいた?
この村に来てから、どれ程の時間が経っている?
モンドの意識と記憶に、薄い靄がかかっていく。
自分が先程平らげたあの椀に、何の具が入っていた?
この酒は何杯目だ?
何故そんな簡単なことが思い出せない?
そして。
何故この足は、立ち上がろうとしないのだ?
「あら、帰ってきたみたい」
額に冷たい汗をかきながら、混乱する思考を必死に落ち着けようとしていたモンドの耳に、右と左から、同時に襖の開く音が聞こえた。
「お。鍋が出来てら。こりゃ有難い」
「申し訳ありません、遅くなってしまったようで」
すたすたと。
しずしずと。
モンドの背後から、二人の男が現れた。
一人はすらりとした長身のところどころに包帯を巻き、もう一人は、背筋の曲がった姿勢で、羽織った外套を揺らしながら。
どちらも年の頃は四十前後であろうか。
その髪の色は紺青。
肌は褐色。
魔族であった。
「ふ、ふざけるな! 何故この場所に魔族がいる!?」
突然激昂し、目を血走らせたモンドを、女はにこやかに見つめ返す。
「あら、魔族はお嫌い?」
その口元は艶然とした色を帯び、立ち上がりかけたモンドの身を竦ませた。
色。
そう、その唇に、いつの間にか田舎村の女には似つかわしくないトゥルーベージュの口紅が塗られている。
それは、
きっちりと結わえられた髪の毛は、いつしか二藍に染まっている――。
「ば、馬鹿な……。いつの間に、私は……」
「残念ね。私たち、お友達にはなれないみたい」
困ったように眉尻を下げ、それでもなお口元に笑みを湛えた女性の態度に、モンドは再び激昂した。
「愚弄するな、汚らわしい下賤の民が!」
そうして、今度こそ立ち上がろうと手を畳みについたモンドの体が、またもやその場に留められる。
「ふっ……ぐ。む。……なんだ、……うっ」
歯を食いしばり、立ち上がろうと必死に力むモンドの腰がカクカクと宙で揺れる。その滑稽な仕草に、包帯を巻いた長身の男は汚物でも見るような目でモンドを見下ろし、女は口元を抑えて視線を下げた。
一人、くつくつと忍び笑いを漏らすもう一人の男が、その答えを示した。
「おいおい、とっつぁん。必死になるのはいいが、あんた、
「……??」
モンドが、褐色の手に指し示された己の下半身を見下ろす。
「………………は?」
膝から下が座布団となった、己の両脚を。
そして、思い出した。
自分がこの場所に通された時、そこに座布団など敷いてなかったことを。
自分はずっと、畳の上に正座で座っていただけだった――。
止まった時間が融けるのに、更に数秒の時を要し。
「ぎゃああああああ!!!!!!」
聞くに堪えない無様な絶叫が、座敷に響き渡った。
「あ! あ! ああああ! あぁああぁぁあああ」
後ろにひっくり返ったモンドが、涎を撒きながら喚き散らす。
己の両足を、いや、どこからどう見ても何の変哲もない座布団を、必死に掻き毟る。
そこには、何の感覚もない。
ただ、柔らかな布地が、自らの体温で温まった熱を指先に伝えるだけである。それでいて、布地を引っ張れば引っ張る程、それに繋がる膝の境目に引き攣るような痛みが走る。
足は開けない。
力が入らない。
いつ、どうやって、何をされたのか、いや、そもそも自分の身に何が起きているのか、理解が及ばない。
「はっ。はっ。はひゅっ。ひゅ」
早くも声が枯れたモンドの喉が、不規則な喘鳴を漏らし始める。
それを気にする様子もなく、魔族の本来の姿を顕した女は、二人の男に手ずから酒を注いで差し出した。
「二人とも、ご苦労様。外はまだ寒かったでしょう」
「「恐悦にございます、我が君」」
自らの分の酒も注いだ女に合わせ、二人の男が杯を掲げる。
一息に飲み干し、ほう、と吐き出した息と共に、三人の瞳が、赤い血の色に濁っていった。
「き、吸血鬼、だと……?」
掠れた声で慄くモンドの脳裏に、天啓のような閃きが降りてきた。
(そうだ、あの男……)
村の入り口でモンドを待ち構え、この屋敷へと通した男。
見覚えがあるはずだ。
あれは――。
(吸血鬼に拐されたはずの、ダイゴ家の嫡男ではないか……!)
その答えに慄くモンドには目もくれず、三人は互いに酒を注ぎ合った。
「ああ、美味いですね。偶には人族の酒というのも悪くない」
「そうでしょう。樽で貰ったから、持って帰りましょうね」
「おや、そちらの鍋は頂けないので?」
「おい」
鼻を鳴らして鍋を覗き込む猫背の男を、包帯を巻いた男が窘める。
女は困ったような笑みを浮かべ、顔の前で手を合わせた。
「ごめんなさいね。これ、豚の餌なの」
「「はい?」」
その返答に二人の男が戸惑いの声を上げると。
「き、きさま、きさま、私の足に何をしたぁ!?」
涙の滲む声でモンドが叫んだ。
がくがくと震える体、その膝から下が座布団と一体化した滑稽極まる姿で尻餅をついたモンドを、吸血鬼の女は愉快そうに見つめた。
「あら。可笑しなことを言うのね」
それは、悪戯が成功した子供のような、無邪気な瞳であった。
それでいて、その口元に浮かぶ笑みは、こちらの魂を溶かし崩すような艶やかさを持って、その言葉を発した。
「あなたの足なら――」
その先が出かかる前に、モンドは察した。
人間の持つ悪意に何より精通した、モンドだからこそ分かる答え。
まだ僅かに湯気を立てている、囲炉裏の上の鍋――。
「――さっき、自分で食べてたじゃない」
胃の腑が、せり上がった。
「うぐえ……ごっ。ぐ。むぐ」
「おいおい、ここで吐き出すんじゃねえよ。酒が不味くなるだろうが」
モンドの口が、己の体の下から伸びる影によって塞がれ、口内に溢れ返った吐瀉物が堰き止められる。
「ぐ! んぐぅ! ん。ん!」
「あら、駄目よ。それじゃ息ができないわ。可哀そうに」
「ふぐぉ」
更にその数を増した影の触手が、今度はモンドの鼻腔に入り込み、無理やり気道を広げた。
「ぐふーっ。ふーっ」
体を好き勝手にいじくられ、弄ばれ、それでも命を繋ぐために必死に呼吸を繰り返すモンドに、吸血鬼の女は歩み寄っていった。
一歩、踏み出すごとに、空気が温度を失っていく。
モンドの顔は、もはや蒼白を通り越して土気色となっていた。
その、大きく見開かれた目は真っ赤に充血し、次から次へと涙が溢れていく。
「ああ、こんなに怯えちゃって。ごめんなさいね。大丈夫よ、別に殺したりしないわ」
モンドの体が、ますます大きく震えていく。
質量すら感じる恐怖が、その身に重くのしかかっていった。
自分は今から、死ぬよりも酷い目に合うのだと、そう言われたのだから。
そして、ようやく理解する。
目の前で艶然と微笑む、この飯炊き女の姿をした吸血鬼の正体を。
(真祖……カルミラ・ファニュ)
なぜ。
ここに。
いつから。
どうやって。
どうして私が。
こんな目に合う。
間違っている。
ふざけるな。
おかしい。
苦しい。
辛い。
明滅する思考の中に、モンドは自分の周囲が、いつしか深い闇に満たされていることに気づいた。
そして、カルミラと、その奥に侍る二人の吸血鬼の後ろから、新たに二人の人影が現れた。
一人はまだ幼い顔立ちの黒髪の少女。
そして、みすぼらしい身なりの若い男。
「うへぇ。ホントに俺がやんなきゃ駄目ですかぃ?」
「当たり前でしょう。これは貴方に対する罰でもあるんですからね。全く、私……私たちが一体どれだけ心配したと思ってるんですか」
「そんなぁ。俺だってとばっちりだったんだぜ?」
「……帰ったら、私がアップルパイ焼いてあげますから」
「へへっ。そりゃいいや」
「もう……」
それが、かつて自分が捕らえ、『帰順の消印』によって使役した第六世代の吸血鬼であることも、今のモンドには分からなかった。
モンドの震える顔に、カルミラの手が優しく添えられる。
「今から、この子にあなたの血を吸ってもらうわ」
「……!」
「あなたには、私の眷属になってもらう」
「……? ……!?」
「ああ、大丈夫よ。眷属とはいっても、あなたに忠誠を求めたりはしないし、無理やり何かをしてもらうこともない」
「……??」
その言葉は、溶けた氷のように、ゆっくりと、耳からモンドを侵していった。
「この子は、第六世代の吸血鬼。ねえ、どうして私たちが、
「? ……?」
「作ったところで、意味がないのよ。出来上がる第七世代の吸血鬼は、もはや吸血鬼とも呼べないような微細な力しか持たないわ。それでいて、常に魔力の補給を受けなければ生きていけない程に貧弱なの」
「!? ……!!」
「『廃鬼』、と私たちは呼んでいるわ。何の力も持たず、何の役にも立たず、ただそこにあるだけのちっぽけな存在」
「……」
「そういうものに、あなたはなる」
「…………ふ」
「大丈夫よ、ちゃんとお世話はしてあげる。そうね、あと百年くらいかしら。きちんと飼育してあげれば、そのくらいは生きられるらしいわ」
「ふ。……ふぐ……ぅ」
「それが、あなたの受ける報いよ。ねえ。あなた、知っていて? この世には、たとえ何があったって、決して手を出してはいけない女がいるってこと」
「ふぐぐががががが。……んぅぅぅぁぁぁぁあああああ!!!!!!!」
「それはね、家族を守ろうとする女よ」
「――あ」
闇の中に、静寂が訪れ。
モンドの口が、それ以降、意味のある言葉を発することはなかった。
そこから百年、ずっと。
……。
…………。
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