悪い子、誰だ
オロ・トゥオルは、もう何度目かも分からない驚嘆の視線を、小さな聖騎士の少女に向けていた。
数秒前、垂直に飛んだオロを追い越して、『降御徴』の核となる光弾が上空に走り抜けた瞬間、オロは背に纏った闇の翼を逆に撃ち、高速で地表へと降り立った。
先程からヒカリの持つ規格外の聖気を散々目の当たりにしていたオロは、その時点で一瞬後に降り注ぐであろう殲滅魔法の範囲から逃げ切ることは不可能と判じたのだ。
『降御徴』は、核となる光弾が遥か上空で弾け、雨水の如くに地表に降り注ぐ魔法だ。ならば、最も光弾の雨滴が疎らになるのは到達点である地表。
オロは下手に逃げ回らずに立ち位置を固定し、己の頭上に降り落ちた光弾のみを闇の衣で弾き、逸らし、捌いた。
ぎりぎりの局面ではあった。
限界まで魔力を凝縮して作った外套は、その殆どを光弾に食われ、もはや襤褸布同然と化していた。恐らくあと数秒間光弾が降り続ければ、オロの体に致命的なダメージが入っていただろう。
しかし。
彼は、生き延びた。
「生温かい潮水よ――」
その魔物は、高き壁。
矮小な人間風情には及びもつかぬ時を生きる、悍ましき
「地に涌き、血を沸き、痴へ別きて――」
その唄は朗々と虚空へ溶け。
長い手足が、艶めかしい曲線を宙に描く。
「喉を通らん――」
とん。
すう。
たたん。
最後に、足踏みをば。
深々と首を垂れて。
覗くは、血の色の朱が二つ。
「――情欲に塗れよ。『
ずる。
ずずず。
ぞぞぞぞぞぞぞ。
それは、黒き海嘯。
昏き淵より押し寄せた闇の波濤が、地平を覆い尽くしていく。
草も、木も、岩も、何もかもを呑み込んで。
たちまちヒカリの周囲一メートルを残して、世界が陰鬱なる影に満たされた。
ふつふつと、汐が泡立ち。
うぞうぞと、浪が蠢く。
かつて伝説級の魔獣をも呑み込んだ陰魔法の秘奥。
その、昏き大潮を従えたオロが、驚嘆の眼でヒカリを見遣る。
歴然たる力の差を見せつけられて。
起死回生の聖術をあえなく躱されて。
絶望の海にその身を包まれて。
それでもなお、その眼に強い灯を燃やし続ける、少女の姿を。
あとほんの僅かにオロが力を込めれば、大海原に沈む小舟のように、ヒカリの体は無明の闇に呑まれて消えてしまうだろう。
抗いようのない敗北の未来が、その身に待ち受けているはず。
それなのに。
「お前さん、一体どうやったら諦めてくれるんだね?」
呆れるようなオロの声を受けて、ヒカリは吹けば飛ぶような小さな体で、精一杯に木剣を握り締め、オロの眼を強く見据えた。
「…………わかりません」
「ああん?」
「私、諦めたことがないので」
きゅ。
ごっっっ!!!!!
旭日の光が、闇の世界に咲いた。
煌々と目を焼く閃光が、ヒカリの握り締める木剣から、その姿を霞ませるほどの勢いで迸る。
先程までのそれとは、桁外れの聖気量。
オロの顔が引き攣り、冷や汗が頬を伝う。
(こいつ、一体どこまで……)
ヒカリの聖気の底を見通せていなかったオロのことを、この世界の誰が責めることができるだろうか。
ヒカリに木剣を授けたジンゴ以外、誰しもがヒカリの力を誤解していた。
ヒカリは今まで一度たりとも、木剣に本気で聖気を注ぎ込んだことなどない。
この世界のまともな生物が魔法を使うとき、彼らはみな、魔力を引き出し力を込める。そして、ヒカリの木剣に組み込まれた『散魂瓏』はその魔力に反応し、それを吸い尽くす。
それは例えば、ツグミのように。或いは、ケロスの三頭蛇のように。
魔力を吸い尽くされて干からびる。
しかし、ヒカリにとって魔法とは、魔力を込めないように全力で加減して使うものなのだ。
ほんの少しでも力を込め過ぎれば破裂し暴発してしまうほどに、人間の扱う魔法は、ヒカリにとっては脆過ぎる。
故にヒカリは、木剣を使う時でも同じように
それが、今――。
「やああああああああああ!!!!!」
その身が太陽と化したかのような聖光が、ヒカリと、その手が握る木剣から発されていた。
その輝きに晒され、世界を覆っていた闇の大海原が融けていく。
「あ~あ」
いや。
「やっぱ、そいつ壊さねぇと駄目か」
違う。
ぎゅる。
ぎゅ、ぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅ。
地平を呑み込むかのような莫大な陰の魔力が、オロの右手の一本に吸い込まれていく。
やがて、世界にぽっかり穴があいたかのように、一切の光を映さぬ暗黒の槍が形作られ。
振り下ろされる聖光と、突き上げる暗翳がぶつかる。
そして。
「そんだけ阿呆みてぇに聖気ぶちまけてんだ。密度は、薄いよなぁ」
ぱき。
か細い音を立てて。
白木の木剣が、砕け散った。
聖光が霧消し、世界に再び、闇の帳が降りる。
その静寂の一瞬に、オロの耳は確かに聞いた。
「ごめんね」
小さく震える、そんな言葉を。
……。
…………。
ヒカリには、分かっていた。
もはや尋常な手段では、この吸血鬼には敵わないと。
自分の持てる力を全て絞りつくしても、遥か届かぬ高みに、この敵はいるのだと。
今まで出会った、全ての人たちの力を借りても、まだ届かない。
いや。
まだ、一人。
(……ヨル君)
彼ならば、どうする。
彼の持つ力の、何なら自分は使うことができる?
魔法の力は正反対。
プロレス技なんて、自分の体型じゃ使えない。
柔術なんて分からない。
けれど。
(一つだけ、ある。私にも真似できることが)
しかし、それを使うには、至近の距離が必要だ。今までのような魔法の撃ち合いでは、そのチャンスは絶対に来ない。
だからこそヒカリは、木剣を囮に使ったのだ。
何度となく自分を助けてくれた、大切なパートナーを。
「ごめんね。今まで、ありがとね」
そう、か細く呟いて。
闇の槍に砕け散った白木の破片が舞う中。
ヒカリの小さな左手が、オロの左手を掴んだ。
「な!?」
ぎょっとした顔のオロと、泣きそうな顔を精一杯引き締めたヒカリの視線が交わる。
ヒカリの空いた右手に、再び旭日の光が灯っていく。
そう。
ヒカリに唯一できる、ヨルの真似。
それは――。
「
「ワンハンドシェイク・デスマッチ! です!!」
――ダーティ・ファイト。
「――
……。
…………。
反射的に捕まれた手を引こうとしたオロは、理性を総動員してそれを押しとどめた。
この密着した状態で自分から体勢を崩すようなことをしては、目の前で膨れ上がる聖気を握り締めた拳を躱せない。
「く、……ぉお、お」
がっしりと握手をするように組まれた左手から、灼けつくような激痛が奔る。
いや、実際に白い煙が昇っている。
目の前で泣き顔を懸命に堪える少女の体全部が、陽光の輝きを放っている。
オロは、覚悟を決めた。
腰を落とし、足を踏ん張り、正対する。
左手を強く握り返して、魔力を篭める。
その手に闇の衣が巻き付き、立ち昇る白煙を消し去った。
そのまま魔力を篭め続けると、徐々にヒカリの手へと陰の魔力が侵食していく。
「う。う、うぅうう」
顔を蒼褪めさせたヒカリが更に聖気を篭め、それを押し返す。
ずずず。
きゅぉおおお。
光と闇がせめぎ合い、拮抗する。
一瞬でも気を緩めれば、相手の魔力に押し込まれる。
二人の額に脂汗が湧いていく。
だが、その表面以上に、オロの内心は追い詰められていた。
この状態では、転移魔法は発動できない。
隠形と化して霧に紛れることもできない。
つまり、小細工なしに真っ向から押し勝つしかないのだ。
この、規格外の怪物に。
先の大規模な封印魔法で、勝負を着けるつもりだった。
それに抗った特大の聖気の爆発で、いよいよこの少女の抵抗も終りであろう、と。
しかし。
「ふっ。うぐ。……うううううう」
握り合う手と逆の拳に、再び旭日の光が輝いていく。
(さっきのが全力じゃなかったってのか!?)
だが、それを放出する木剣は既に砕いた。
いかな怪物とはいえ、片手で聖光魔法は組めないはず。
なら、この左手を押し切れば……。
そんな、オロの思惑を。
「急ぎ、……定めの、如くせよ……」
か細い声が、打ち消しにかかる。
「……な、にを」
「断つは、……意思! 過たぬ
右手の輝きが、収束していく。
(太刀型の聖術だと!? んな馬鹿な――)
オロはどこまでも、ヒカリの力を見誤っていた。
きゅお。
きゅおおおおお。
一度収束した陽光が、また膨れていく。
膨れて、膨れて、膨らんで。
「…………あん??」
一向に、形を為さない。
そう。
オロは見誤っていた。
ヒカリは、
彼女の狙いは、別にあった。
「馬鹿! おい! 魔力しまえ! 術が暴発するぞ!!」
「そんなの……」
「ふ――」
彼女は、理外の存在。
この世界のどんな常識にも、当てはめることなどできない。
「慣れっこです!!!」
「ふざけんなああああああ!!!!」
それは、奇しくも。
ヨルが初めてヒカリと出会った時に放った悲鳴と、同じであった。
闇が塗り潰され。
オロの視界が、陽の色に染まった。
……。
…………。
ちゅどん。
そんな、冗談みたいな音を立てて、オロの体が吹き飛んだ。
度重なる陰陽の魔法の応酬でとっくに更地と化していた荒野に、更に大きなクレーターが出来上がり、その縁に引っかかるようにしてオロの体が転げる。
窪地の中心ではヒカリが大の字になって倒れ、くるくると目を回していた。
両者、動く気配もなく。
ただ青白い月明りが、しゅうしゅうと白煙を上げる二人の姿を照らし出す。
ダブル・ノック・ダウン。
オロ対ヒカリの戦いは、詰まるところ、引き分けに終わったのだった。
そのまま十数秒、空白の時が過ぎ。
やがてそのクレーターを、一人の青年が覗き込んだ。
「どうすんだよ、これ……」
またしても、春先にヨルが呟いたのと同じセリフを吐き出して、オロの従者――シンと呼ばれていた吸血鬼が、深々と溜息を零した。
……。
…………。
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