それはただ、高きにありて

 ヒカリには、決して忘れられない記憶がある。


 それは例えば、彼女がまだ朝光蕩子であったころのこと、病弱だった彼女のために父親が出張先から買ってきてくれた珍しいお土産であったり、母親が休日に作ってくれる甘いお菓子であったり、平日に雇われた家政婦たちと一緒に遊んだゲームの記憶。

 あるいは幽世にてミツキから聞かされた大陸中のグルメ情報や、魔王ウルとの聞くだけで顔が赤くなるような逢瀬の物語。


 ヒカリとしての生を受けてからの日々。

 初めて聖光魔法が的に当った時の、一緒になって泣きながら喜んでくれた級友たちの顔。

 メリィ・ウィドウの街に来て最初に食べたミートスパの味と、マスター・ミシェルの美貌。

 前世も経験も含めて初めて着せられた、フリフリのエプロンドレス。


 満開の桜の花と、盛大な酒宴。

 自分を負ぶってくれた、細いけれど、大きな背中。


 夏の日、ハタガミの里で催したスムージー祭り。

 蝉の声を聞きながら食べたバーベキューと、夜風に舞う蛍の光。

 頭に置かれた、冷たくて、優しい掌。


 赤く色づいた獣国の秋山。

 金色に輝く大きな銀杏の樹。

 舞い散る火の粉を躱しながら踊った、ぎこちないワルツ。


 嬉しかったこと。

 楽しかったこと。

 愉しかったこと。


 全ての記憶が、今もヒカリの中にあった。


 前世でもらった両親の愛がなければ、この世界に転生することもなかっただろう。

 養成校の級友たちがいなければ、聖術を会得することはできなかっただろう。

 ジンゴから授かった木剣がなければ、まともに立ち向かうこともできなかっただろう。

 アイナから、シャオレイから、戦い方を学んでいなければ、今頃はとっくに深い闇の中に沈んでいただろう。


 今までヒカリが積み重ねてきた出会いが、今のヒカリを立たせている。


 しかし。


「いい加減、諦めたらどうだ、ヒカリ?」


 それでも、届かない壁はあった。


 月明かりを背に負って、蠢く闇の衣を従えたオロが、腰に両手を当てて呆れたように口元をへの字に結んでいる。

 地に突き立てた木剣を支えにして立つヒカリは、大きく開けた口から荒い呼吸を繰り返し、膝をがくがくと震わせていた。


 最初は、かろうじて抗えていた。

 オロが次々に繰り出す陰魔法の技を、弾き、打ち祓い、反撃する余裕すらもあった。

 しかし、ヒカリの持つ力の危険性を理解したオロは、攻撃を搦め手に切り替えた。

 ヒカリの陽光を無駄撃ちさせ、自分は最小限の技でそれを捌く。

 単純な魔力量はそれでもヒカリに分がある。しかし、それを使いこなす経験値には雲泥の差があった。


 やがて体力の差が現れ、徐々にヒカリの反撃が頻度を落としていく。

 オロは益々ヒカリの体力を削るように手管を使いこなし、とうとうヒカリは、木剣を支えにしなければ立っていられないまでに追い詰められてしまったのだった。


「まだまだ、……です」

 それでも、その眼に強い火を灯してオロの体を正面から見据えるヒカリを、オロは血色の目を細めて見下ろした。


「ほれ」

 じゅる。

 気の抜けたようなオロの言葉とともに、ヒカリの足元に闇の触手が迫る。


 それを引き抜いた木剣で切り祓うと、踏み出した足を別の触手に絡め捕られ、ヒカリの体が派手に転げた。

「う、……うぐ。……うぅ」

 それを取り囲むように地に闇の沼が湧き、体全体がずぶずぶと沈んでいく。

「うあああ!!」


 染み込んでくる陰の魔力が、ヒカリの全身を凍えるような恐怖で包み込む。

 次の瞬間、ヒカリの全身が発光し、纏わりつく池沼の闇を吹き飛ばした。

 数秒置いてぼたぼたと降り注ぐ魔力の残滓を浴びながら、ヒカリは起き上がって再び木剣を構える。


 そこに――。

「ほれ」

 月光を遮る、枝葉の天蓋。

 ヒカリの四方を囲むように四本の『硯樹』が生い茂り、鋭い枝先を降り注がせようとしている。

 木剣では、一度に祓いきれない。体中を枝の槍が刺し貫く想像が頭をよぎる。

 ヒカリは涙に滲む目をきつく閉じ。


 瞳に焔を燃やして、大きく見開いた。


 この状況は、既に経験している。

 秋の山で。

 天を覆う『白澤羊』の土色の触手。

 あの時自分を助けてくれた、美しい金色の聖術。


 振りかざした木剣を逆手に握り直し、地に突き立てる。

 思い出せ。


『あなたの木剣は、聖気をそのまま放出するという意味では、自身の肉体の延長であるともとれます。ならば、その木剣を介して聖術を発動することもできるはず』

『大事なのは、護りたいという気持ちです。自分のことではなく、誰か大切な人を護りたいという願いが、この聖術を使いこなす一番のコツですよ』


「聖なる聖なる聖なるかな――」


 イメージは塔。

 清らかな鐘の音。


「――過たず別て。『三碍一刹さんげいっせつ』!!」


 じゅわっ。


 ヒカリを中心に光の陣が拡がり、歪な形をした巨大な三角錐が立ち顕れた。四本の闇の大樹を根元から消し去り、弾けて消える。


(錫杖型の聖術だと?)


 その異様に顔を顰めたオロの元に、小さな体が滑り込んで来る。

「やあああ!!」

 袈裟斬りに振り下ろされる木剣の輝きを、余裕を持って躱す。

 数瞬も待たずにオロの体が黒い霧と化し、夜闇の中に溶けていく。


 大振りの一撃を外したヒカリが、強く踵を踏みしめて体勢を入れ替えた時には、オロの魔力は既に数歩分離れた位置にあった。顕現するその手にはもう次の魔法の気配。

 今から弓矢を作って撃っても間に合わない。

 このままでは同じことの繰り返しになる。

 焦りを抱いたヒカリの脳裏に、蘇る声が。


『俺の剣術ジャグリング? ……ああ、あれはゲンジを見て倣った。見せるのは構わんが……。くれぐれも真似しようとするなよ? お前に余計なことを教えるなとお前の師範から文句を言われるのは俺だからな。いいか、くれぐれも真似するなよ?』


(ごめんなさい、ジンゴさん!)


 きゅおおおおおお。


 特大の聖気を木剣に吸わせ。


「やああ!!!」


 投げた。


「あん!?」

 馬鹿げた聖気を撒き散らしながら回転し飛来する木剣を、オロは手中に編み上げた魔法に使うはずだった魔力をそのまま解き放って食い止める。

 それでも防ぎきれなかった聖気の残滓が、オロの掌を焼いた。


 そこを目掛け、再びヒカリが己の体を突撃させる。

 ヒカリの記憶の底から、力強く、暖かな獣人の男の言葉が頭に響く。


『いいか。何度も言うが肝心なのは踵だ。爪先と脹脛に力が入ると踏ん張りは効くが体に制動がかかる。お前の身軽な体で瞬発力を活かすのなら、踵を使った歩法を学べ』


 一瞬で距離を詰めたヒカリとオロの間に、弾かれて宙に舞う木剣が落ちてくる。

 それを空中で上手く掴み取ることまでは、ヒカリには出来ない。

 だが、十分過ぎるほどにオロの虚は突けた。


 からん、と乾いた音を立てて地に落ちた木剣。その柄に手を置いて、ヒカリは跪いた。

 木剣が再び輝き始める。


「聖なる聖なる聖なるかな。……一切不垢たれ!」


 掠れる声で叫ぶその聖文に、オロの顔色が変わる。


(『天為地鎮』!? ……流石にこの距離は不味い!)


 しゃがみ込むオロの太腿が撓み、その背に闇の衣が拡がる。

 どん!!


 一瞬で10メートル程も飛び上がったオロの眼下に、柏手を打ったヒカリが、手中に光り輝く狩猟弓を組み上げたのが見えた。


「天の瞬き、清心にあれ!」


 その、聖文は。


「………………マジかよ」


 ぽつりと、呟いたオロの言葉が。


「不浄を平らげよ!! 『降御徴ふるみしるし』!!!」


 一直線に奔る光弾。

 その一瞬後に訪れた光の大瀑布に、掻き消された。


 ……。

 …………。


「はぁっ。はぁっ。……ごほっ。んぐ……」


 青い月明りを霞ませる白煙の中で、ヒカリは懸命に呼吸を整えていた。

 半径十数メートルを更地と化し、数秒間降り注いだ範囲型殲滅魔法の後には、ただ耳に痛むような静寂のみが残る。


 土の焦げる匂いと共に荒い呼吸を繰り返す度、ヒカリの喉が焼けるようにひりついた。

 視界は霞み、涙と汗が混じりあって滲んでいく。

 思考は靄がかかったようにぼやけ、自分が立っているのかどうかさえも怪しくなってくる。

 胸の裡に滾る熱と裏腹に、指先は凍えるほどに冷えていた。


 水が飲みたい。

 いや、もうこのまま倒れてしまいたい。

 

 ヒカリの膝が、とうとう崩れ、地面についた、その時。



「いやぁ~。危ねぇ危ねぇ。久々に本気になっちまった」



 暗闇から、声が。


「はぁっ。はぁっ」

 ヒカリの呼吸が一層荒くなる。

 その背筋を、魂を凍てつかせる悪寒が這い回る。


「おぉ? そろそろ諦めついたか、ヒカリ?」


 無傷の体を・・・・・、闇の衣に包み込み。


 届かない壁が、目の前に立ち塞がっていた。


 ……。

 …………。

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