負け犬は、夢を見る
数十秒だけ、時を遡る。
ジンゴの取るべき選択肢は、実のところ二つあった。
陽の魔力の過剰投与によって『天人』と化したハズキの命を救うための、二つの道。
その内の一つを、ジンゴは割れた石の床と共に蹴り飛ばし、前へと走った。
迷いはあった。
躊躇いもあった。
それでもジンゴは、譲れないたった一つのものを守るため、荒れ狂う破壊の化身へと立ち向かったのだ。
宙に浮かぶハズキの体の周囲を、陽光の輝きを放つ羽衣が舞う。
その動きに合わせ、眩い光球が顕れていく。
それが輝きを増す直前に、前へと駆けるジンゴの体が左に沈み込んだ。
きゅごっ!!
ジンゴの右肩を、一条の閃光が掠めていく。
石畳の削れる音。
ジンゴの体が更に左へ転がり、またしてもその一瞬後を破壊の光が掠めていった。
起き上がったその顔に、鋭い眼光。
黒鞘を握り締めた拳で地を叩き、跳ねた。
空いた空隙を閃光が奔る。
再び前進。
そこに襲いかかる閃光の弾幕を、潜り、跳び、捻り、次々と躱していく。
戦闘におけるジンゴの最大の武器とは、剣術でも体術でもない。
それは、『観』の眼。
本来ならば避けられる筈のない、光そのものの攻撃を、魔力の流れを読み切り、発射される前に躱しているのである。
しかし。
「うっ」
当然、放射状に放たれる弾幕は、近づけば近づくほど密になっていく。
右の太股を数センチ抉られたジンゴが苦悶の声を上げ、その動きを僅かに鈍らせた。
その眼前に、四つの光球。
それが放たれる直前に、ジンゴは腰元に手を遣り、黒革の首輪を宙に投げた。
それは、モンド・サイオンジが利用していた服従の魔道具だった。
その黒い魔力の気配に反応した『天人』が、標的を変える。
即座に放たれた五つの閃光が、その忌むべき魔道具を跡形もなく消し去り。
その白煙を潜り抜けて、ジンゴが更に前へと踏み込んだ。
あと二歩。
黒鞘を握るのと逆の手が懐へ延びる。
掴み出したのは、二枚の紙片。
陰の魔道具。
それを叩き付けるために掲げたジンゴの眼前で、輝く羽衣が波打ち、僅かに視界を隠した。
そして。
ぱん。
それまでだらりと垂れ下がっていたハズキの腕が、胸の前で柏手を打った。
「っ――・ぁ・っぃぉ・っっっ」
残像を引くほどの速度でハズキの唇が動き、意味不明な音の羅列を漏らす。
譫言?
いや。
これは――
(……詠唱だと!?)
人間の耳では聞き取れないほどに高速で唱えられたその聖文に、即座に危機を察したジンゴが踵を地面に叩きつけ、全力で後方に跳んだ。
放蕩う羽衣。
眩い光と共に顕れる、握り拳ほどの大きさの法具。
それは、ハズキの最も得意とした、独鈷型の聖術。
その数、三十六。
ハズキの周囲を取り囲むその尖りの全てが、ジンゴへと向けられた。
単独で行う聖術において最高難度とされる大魔必滅の秘術。
(……『
後ろに跳んだジンゴの足が石畳につく直前、そこに飛来した一つの独鈷が突き刺さり、爆ぜた。
「ぐぅっ」
着地を妨げられたジンゴの体が割れた石床を転がる。辛うじて受け身が間に合うが、その代償に左手の指が二本折れた。
そこに、独鈷の爆撃が襲い掛かる。
十三発目までは避けた。
次の一発で足を射抜かれ、膝をついた。
二十七発までは黒鞘で防いだ。
襲い来る独鈷の勢いを殺すように弾き、いなしていった。
次の一撃でそれが溶けるようにして折れると、瓦礫を投擲して抵抗した。
三十一発までは落とせた。
瓦礫がなくなると、次の二発はその場で避けた。
三十四発目でこめかみを抉られ。
三十五発目で右肩を打ち抜かれた。
「ぐ、おぉおおお!!」
ジンゴは半ばで溶け折れた黒鞘を握り直し、燃えるような激痛を発する両脚を踏みしめて、片側が血で潰された視界の中に、破滅の化身となったハズキの姿を捉える。
その脇腹に、三十六発目の独鈷が突き刺さり。
爆ぜた。
「かはっ……」
真白い煙を上げて、ジンゴの体が、仰向けに倒れた。
……。
…………。
(やはり、無理か……)
二つ、選択肢はあった。
『天人』とは鬼の一種であり、鬼への転化を食い止める手段とは、その者の魂を鬼の魔力が侵食する前に陽の魔力でそれを祓う以外にはない。
しかし、この場合、魂を侵食しているのは外ならぬ陽の魔力であり、しかもその魔力は元の魂ごと発散し続けているのだ。
その先に待っているのは、物質世界からの解放。つまり、存在の消滅である。
ならば、『天人』と化した人間の魂を救う手段とは?
答えは、陰の魔力。
拡散し続けていく魂を、陰の魔力の引力でこの世に繋ぎ止める。
だからこそ、ジンゴは陰の魔力の塊である吸血鬼――ヨルの血肉を用いて作られた魔道具を触媒に、ハズキの魂を救おうとしたのだ。
だから、ジンゴには二つの道があった。
ハズキの命を確実に救うのであれば、ジンゴはただ待つだけでよかった。
『天人』とは本来、数分の内に陽の魔力を吐き出し切って消滅するだけの存在である。当然、時間の経過と共にその力は弱まっていく。
ならば、それが力を吐き出し続け、消滅する手前の段階で陰の魔道具を使えばよい。
何も荒れ狂う光の暴風に自身の体を晒す必要などなく、安全に、確実に、ハズキの命を救うことができる。
しかし、それではハズキの体に魂は殆ど残らない。
ハズキはかつてのジンゴと同じように、記憶を失くし、感情を失くし、心を失くした肉塊として、幽鬼の如くにこの世を彷徨うだけの存在になる。
それだけは。
それだけは、許せなかった。
自分の内に常にある、ぽっかりと空いた虚ろ。
こんなものを、ハズキの胸に開けるわけにはいかなかった。
これ以上、負けを積み重ねるわけにはいかなかったのだ。
(だが、結局はこのざまだ……)
上手くいく保証などなかった。ジンゴの取った選択肢は、どこまでいっても博打でしかなかった。
自分が、全ての攻撃を避けきることができたら。
魔道具に込められた魔力だけで、『天人』の魔力を封じきることができたら。
ハズキの心を、救うことができる
不合理なのは分かっていた。
心だの感情だのと、自分には何一つ理解できない曖昧なものを守るために、彼女の命を救う機会を不意にしようというのだ。
無様に倒れ伏したこの状態では、最後に彼女の命を救うことすらできない。
『俺は曖昧屋だ。意味のあることなど、何も為せん』
そんな自分の言葉が、呪詛のようにジンゴの脳裏に木霊していた。
しかし。
そんな響きの中に、微かな光を放つ言葉が、確かに聞こえていた。
『ジンゴさんは、優しい人です』
そうだ。
あの夏の日。
あの時も、こうして薄暗い地下室で、自分は血塗れで倒れていた。
その上から、ぼろぼろと零れる涙と共にかけられた、あの声。
不合理がどうした。
出会って数日の老女のために枯れた桜の木を蘇らせるなどと、凡そ意味不明な理由で、災害級の魔獣に一人立ち向かっていった少女を、自分は知っている。
そして。
左手、二本の指が折れたその手の中に握り締めた魔道具から発される魔力が、僅かに強くなっているのを、ジンゴの虚ろな魂が感じ取った。
『俺がそうしたいと、願うからだ』
満身創痍がどうした。
彼我の力の差は歴然。正面から挑み、叩き潰され、血反吐を撒いて無様に倒れ、それでもなお、歴戦の闘士に立ち向かっていった男を、自分は知っている。
理外の存在。
この世の理とやらが、かつて自分を滅ぼし、今、ハズキの心を奪い去ろうというのならば。
彼らの力が、この状況を打開できるというのなら。
「俺が、なろう。……理外の存在に」
ジンゴは、そう小さく呟くと、左手に残る三本の指で、二枚の紙片を強く握り締めた。
そこから感じ取れる魔力が、さらに強くなっていく。
ヨルの血肉を用いて作られた陰の魔道具。
それが、本来の持ち主の力に反応している。
(これは……『夜の王』?)
メリィ・ウィドウの街の切り札が発動されたのだ。
今のジンゴにとって、これ以上はない好機。
ジンゴの瞳に、強い火が灯り。
その口元が、獰悪な笑みを形作る。
「どうやら俺も、あの街の一員であるらしいな」
もう一度。
今度こそ。
その手に、勝利を掴むため。
一人の男が、立ち上がった。
……。
…………。
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