愛の言霊

 駆けることは、もう出来なかった。


 一歩。

 足の甲を打ち抜かれた左脚は、踵をついて前へ踏み出し。

 一歩。

 太腿の肉を抉られた右脚は、ずるずると引き摺って。

 この体を、少しでも前へ。


 閃光が奔る。


 躱すことはできない。

 弾くこともできない。

 出来るのはただ、頭と心臓を守り、致命傷を避けることだけ。


 肉の焦げる音と共に、右腕の感覚がなくなる。

 だらりと垂れ下がった腕から、原形を失った黒鞘が零れ落ち、空虚な音を響かせた。

 それを気にする余裕はない。

 左手に三本残った指で、魔道具の紙片を握り締める。


 さらに、一歩。


「がふっ」


 濃い鉄の匂いが口内に溢れ返る。

 先に右脇に食らった一撃が、内臓に達しているのだ。

 死の足音が、己の背中に張り付いているのが分かる。


 それでも、前へ。


 また一つ、閃光が生まれる。


 魔力の流れで、それが自分の頭部を狙っていることを察する。

 身を捩り、体を屈める。

 その一筋が、頭上の遥か上を通り過ぎた。


「…………?」


 後方で壁の削れる音。

 狙いが甘くなっている。

 霞む視界を凝らして観た先に、ぶるぶると震える『天人』の姿が映った。


「……あ………か……」


 無機質な真白の顔が、大きく空けた口をそのままに、宙で静止している。

 その周囲を舞っていた羽衣が、狂ったようにざわざわと動き出す。

 それに合わせて光球が顕れ、輝きを増す前に、消え去った。

 羽衣が蠢く。

 光球が瞬き。

 消える。


 明滅する陽光と共に、宙に静止ししていた『天人』の体が高度を徐々に下げて行った。

 地上まであと数十センチというところで、不安定に体が揺れている。


(力を消耗している……? だとしたら、まずい……!)


 とうに血の気の失せた顔に焦りの色を強くたジンゴがボロボロの足を強く踏み出す。

 その音に反応するように、ぐりん、と『天人』の頭が傾き、羽衣の暴走が激しさを増した。

 両腕が大きく開かれ、掌を撃ち合わせるように勢いよく閉じられ――


「ぐ…………ぅ……あ」


 柏手を打つ直前で、静止した。

 発動しかけた聖術が霧消する。

 ぎ、ぎ、ぎ。

 震える腕の中で、二つの力が拮抗している。


(これは……)


 聖気を消耗しているのではない。

 ハズキが、抵抗しているのだ。


 その無機質な顔に、苦し気な皺が刻まれる。


 それを呆然と観たジンゴの脳裏に、稀薄な魂に僅かにへばりついていた記憶の残滓が、幻を見せた。


 灰色の牢。

 少女の額に、一本の角。

 鎖に繋がれて。

 嗄れた、声が。


『私ヲ、見ナイデ』


 血が―――。

 滾々と―――。


 ジンゴの魂が、発火した。


「お、おお、おおおおお!!!!」


 砕けた足で踏み出す。

 激痛が全身を走る。

 骨が軋み、筋が千切れ、傷口から血が溢れる。


 それがどうした!!


「ハズキ!!!」


 ジンゴの左足が、最後の力を振り絞った。

 その体が宙を飛び、陽光の煌きを放つハズキに重なる。

 羽衣が暴れまわり、ジンゴの体を打ちつける。

 その度に肉の焦げる音と共に白煙が立っていく。


 それでも、ジンゴの左腕はしっかりとハズキの背中に回され、その心臓の真裏から陰の魔道具を発動させた。


「ひゅ――――」


 闇の衣に身を包まれたハズキの口から掠れた吐息が絞り出され、羽衣の動きが激しさを増していく。

 ぎゅん。

 ジンゴの左の脇腹から、閃光が飛び出る。

 吐血。

 意識が遠のく。


 闇と光がせめぎ合う。


 ハズキの顔が、いやいやをするように横に振られる。

 このままでは、ハズキの体が持たない。

 そして、それを支えるジンゴの体も、刻一刻と限界に近づいている。


 まだ、力は拮抗している。


(どうすればいい。ここから、どうすれば……)


 苦し気に歪められるハズキの顔。


「ハズキ……」


 その魂を繋ぎ止めるために、何をすればいい。


(ヨルならば、何と言う……? どんな台詞を言えばいい?)


 分からない。

 自分には、目の前で苦しむ少女の心を救う言葉など。


 その時。


『あんたがヨル君を見習うのは無理だから』


 そんな言葉が、頭をよぎった。


 そう。

 自分には、人を慮る言葉など紡げない。


 ならば。


「ハズキ……行くな」


 言え。

 この虚ろな心が、微かに残った魂が、それでも確かに発する言葉思いを。


「俺は――」


 さあ。



「俺は、お前が欲しい」



 びくりと、ハズキの体が震えた。



「どこにも行くな。ハズキ」



 ハズキの真白い眼球に、透明な雫が湧いた。


 眩い陽光と、柔らかな闇が溶け合って。

 二人の体を、静かに沈み込んだ。

 そして、全ての音が消え去り。

 重力が、二人の体を地に横たえる。


 ジンゴの意識は、そこで途絶えた。


 ……。

 …………。


 どれほどの時が経っただろうか。


「……! ……!」


 陽の光が、差している。

 閉じた瞼を透かして、暖かな光が染み込んでくるのが分かる。

 手足の先は、まるで闇の底に浸かっているかのように感覚がない。

 ただ体の奥底から発せられる鈍い痛みと、冷たい空気を呼吸する度に感じる息苦しさ、明滅する思考の中に、どこか遠くから、己を呼ばう声を聞いた気がした。


「ジンゴ!」


 その聞き覚えのある声に鉛のように重たい瞼をこじ開けると、白くぼやけた視界の中に、さらさらと揺れる金色の波が見えた。

 顔は見えない。

 何とか焦点を合わそうと目を凝らすが、余計に景色を歪ませるだけの徒労に終わり、それ以上の努力は早々に諦められた。

 

 ただ。まあ。


「キリ……ヤ、か……?」


 恐らく、そうだろう。

 そう思い、血の味と共に吐き出した言葉は、ひどく掠れて、曖昧に響いた。

「お前……。目が……」

 そんな言葉が頭の近くから降ってくる。

 恐らくそれを発しているのであろう、キリヤと思しき何かに、ジンゴは消えそうな声で問いかけた。


「ハズキ、は……どう、なった?」

 自分にはもう、何も分からない。

 

「安心しろ。人の姿に戻っている。気は失っているが、呼吸も脈も正常だ」

「そうか……」

 自分の中から、最後に残った力が抜けていくのを感じた。


「おい! しっかりしろ、ジンゴ。おい!!」

 叫んでいるはずのその声が、先程よりも遠くに聞こえる。

「くそっ……血が止まらん……。おい、包帯を寄越せ、ありったけだ! 早く!」

 何処かへ投げかけられたその言葉の余裕のなさに、ジンゴは苦笑して口の端を持ち上げようとしたが、それが上手くいったかどうかさえ、もはや分からなかった。


 ただ、顔にかかる陽の光が、暖かかった。


「なあ、……キリヤ」

「ジンゴ、喋るな。傷が開く」

「知って、いたか、キリヤ」

「ジンゴ! もういい!!」


 その切羽詰まった声が、妙に可笑しくて、ジンゴはもう一度、口の端を持ち上げた。


「俺は、……優しい、人間なんだそうだ」


 その台詞に、目の前のぼやけた人物が息を呑んだ。

 しばし、時間を置いて。


「馬鹿者」

 そんな言葉が投げかけられる。

 その声が、遠い。


「そんなことは、お前を知るもの全員が知っている」


「そうか……」

 そんな返答をすることが、もう難しくなってきた。

 意識が、闇に呑まれていくのを、静かに受け入れる。


「俺は……知らなかった」


 瞼を閉じた。


 ああ、陽が暖かい。


 こんな日は、ボロ長屋の窓辺に寄り掛かって酒を飲みたい。

 熱く燗をした酒がいい。

 つまみは炙った白身魚の干物だな。

 そうだ。

 外で焚火をするのもいいな。

 芋でも焼いて。


 うむ。

 一人で飲むのもいいが、少しくらいなら騒がしくてもいい。


 またあの三人と。


 ヨルの作るつまみは味が薄いからな。香りの高い酒が合う。

 ヒカリは何故か俺の酒の量を少なくしようとするから、気を逸らすのに何か甘味を用意しておこう。

 そこにハズキを招いたら、あの鳥娘は怒るだろうか。


 ……ああ。

 なんだ。

 

 手放したくないものが、こんなにも多いだなんて。


 まるで、普通の人間のようじゃないか。


 そうか。


 俺は……。


 ……。

 …………。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る