ハートに火をつけて
るぅぅぉぉぁぁあああああ。
奇声を撒き散らしながら、灰色の大鬼が岩のような拳を振り下ろした。
石畳が割れ、粉塵が立つ。
それぞれ左右に散って避けた二人の剣士――キリヤとジンゴが、タイミングを僅かにずらして大鬼に斬りかかる。
と、見せかけて、鬼の左側に回ったジンゴが、迎撃する構えを見せた鬼の脇をすり抜け、その奥のモンドを狙おうとする。
しかし。
ぎゅる。
不意に頭の後ろに感じた悪寒に、咄嗟に屈みこんだジンゴの項の上を、巨大な何かが豪速で通り抜けた。
壁に激突する音。
後ろに飛び距離を取ったジンゴの眼に、ゴムのように伸長する灰色の腕があった。
まるで中に骨など入っていないかのように、その皮膚が限界まで引き延ばされ、岩のような拳を撃ち出している。
「なんだ、……こいつは」
思わずそう漏らしたキリヤが足を止めているうちに、鬼の伸びた腕がぎゅるぎゅると音を立てて縮み、元の形に戻った。その勢いに押され鬼の体がぐらつき、次の瞬間。
ぎりりりぃぃぃぃああああ!!!!
苦痛に身を捩りながら、大鬼が絶叫した。
その悲鳴の内に、二人の耳に、ぼきぼきと固い何かが組み上がっていくかのような音が聞こえる。
その音の正体を確かめる間もなく、再び鬼が拳を振り上げ、キリヤに向けて打ち下ろした。
その緩慢な動作に、キリヤは難なくそれを躱し、鬼の体を追い抜きざまに刀を振るった。
確かな手ごたえと共に、鬼のどす黒い体液が噴出する。
しかし。
「キリヤ!」
ジンゴの声に弾かれたように、キリヤが後ろに下がった。
その眼前を、横に振るわれた拳が掠める。
深々と断ち切られた傷口が泡立つように塞がっていくのが見える。
「再生魔法!?」
ごりゅ。
そんな音と共に。
鬼の腰骨が捻じれ、上半身が一回転した。
先の一撃を紙一重で躱したキリヤの体を、360度の遠心力を乗せられた拳が襲った。
衝撃。
キリヤの体が吹き飛び、壁に激突する。
もう一度逆に回転した鬼の体が嫌な音を立てて元の形に収まり。再び鬼の口から絶叫が迸る。
荒い呼吸。
口からは涎がぼたぼたと。
黒目を失った目からは、滂沱の涙。
身に余る筋肉のみを肥大化させられたせいで、大鬼は一挙動ごとにその体を毀し、それを即座に恢復させながら戦うことを強いられているのだ。
無理な破壊と治癒を繰り返すせいで、その身を人知を超えた激痛が苛んでいる。
「この、外道が……!」
壁にめり込んだ体を引きはがし、キリヤが薄笑いを浮かべるモンドを睨みつける。
「くふ。くふははは。外道!? 外道だと!? 笑わせてくれるな、平民騎士。貴様の連れこそ、人の道から転げ落ちた畜生であろうが!」
引き攣ったように嗤うモンドは、大鬼の背に隠れるように二人から距離を取ると、地上へと続く階段の手すりにしがみついた。
「なんだと……?」
「復讐だと? 借りを返せだと? 貴様にそんなものを求める心など残っているはずがなかろうが! 成程、あの状態まで転化してなお人の形を留めていたことは驚嘆に値しよう。そして納得したよ。貴様に凡そ人の持つ欲望というものが存在しない理由がな」
その視線を向けられたジンゴは、無言で黒鞘と刀の柄を握り直し、腰を沈めた。
大鬼は荒い息を吐き続けながら、キリヤとジンゴを交互に見遣る。
お互い間合いを測る硬直状態に、ただモンドの声だけが響く。
「貴様が今まで私の下で何をしてきた!? 此度の実験で、貴様の住まう街に一体何をした!? 今頃は私の勇者が街の住人を皆殺しにしている頃合いだろうよ。そのことに、貴様の胸は痛むか? ええ?
過去の知人の語る吐き気のしそうな正義感に中てられたか? そんなものが貴様の中で何の価値も持たんことなど、貴様自身が百も承知であろうが。そうやって倫理を振りかざす者の真似をしていれば自分が人間になれるとでも思ったのか、この肉塊が!!」
「もういい」
唾を飛ばして叫び続けるモンドの声の合間に、聞くものの心魂を冷やすような、低い声が挟まった。
キリヤが刀を鞘に納め、居合の構えを取った。
その髪がゆらりと持ち上がり、真白い光を帯びる。
その気配に、大鬼が標的を定めた。
くるるるわあああああん。
巨岩のような拳が、二つ。
キリヤの左右から撃ち下ろされ。
「それ以上――」
それを、白く輝く瞳が迎え撃った。
「俺の親友を侮辱するな!!!!!」
ざん!!!!!
閃光。
万物を断ち切る白魔法の一撃が。
「る………む」
大鬼の体を、真っ二つに割った。
どちゃ。
一泊遅れて、水っぽい落下音が二つ響き、全ての動きが停止した。
「な……」
その光景に絶句したモンドの首筋に、鈍い刃の光が添えられていた。
「残念だったな」
その背中にジンゴが取りつき、モンドの腕を後ろに極めた。
苦悶の声を漏らすモンドに、ジンゴが囁きかける。
「お前の自慢の勇者なら、今頃は指輪の呪縛から抜け出している頃合いだろう」
「…………は?」
「そういう設定にしておいたからな。万が一指令が衝突し、お前の設定した『鏖殺』が発動した場合には、その矛先を別の場所に向けさせ時間を稼ぐようにアツミに言い含めてある」
「なん、……アツミだと?」
「『もう戦争は終わったはずだ』と、あの男は言っていた。貴様に『帰順の消印』を着けられてなお、あやつは質に取られた家族のため、そして、一人でも犠牲を少なくするために敢えて汚れ役を被ったのだ」
「な、何を言っているのだ? そんなことをして何になる? それが何故あやつが私の命に背く理由になるというのだ?」
慌てふためくモンドには、ジンゴの言葉の一つ一つが丸で理解できない様子であった。
それを冷めた目で見ながら、ジンゴは問うた。
「なあ、モンド。お前、家族麻雀をしたことはあるか」
「なに?」
「川辺に竿を突き出して、隣に座る男と釣果を競ったことはあるか」
「なに、を言っている――」
「一番脂の乗った一匹を奪い合いながら、酒を飲んだことは? 飲み過ぎを注意されながら味噌汁を差し出されたことはあるか?」
ジンゴの口元が、柔らかく、笑みを作った。
「俺は、ある」
その言葉は、いつになく力強く、確かな熱を持っていた。
「この胸に灯った火が、心なのだとしたら、人の心を持たぬ
その、言葉を受けて。
「ぐぎ」
モンドの喉が、不気味に鳴った。
「んんんんぎ、ぎ、ぎぎががががが」
食い縛った歯が軋み、ぶるぶると震える顔が沸騰するように赤黒くなっていく。
極め上げられた後ろ手に力がかかり。
ごき。
折れた。
「ぎああああああ!!!」
咆哮を上げて暴れまわるモンドの体が、ジンゴの拘束を振り切った。
だらりと垂れる腕を揺らし、地上へと続く階段へと走る。
「認めん。認めてたまるか。私が、私がこんな所で終わってたまるか!」
口から泡を零しながら、どこにこれだけの力があったのかと思うほどの速さで階段を上っていく。
あと僅かでそれを上り切ろうかというところで、飛来した黒鞘に、背骨を打ち付けられ、倒れ込んだ。
「かっ……あ」
呼吸を止められ痙攣するモンドに、ジンゴがゆっくりと歩み寄る。
「諦めろ。言ったはずだぞ。お前の野望はここで潰えると」
その声を後ろに聞きながら、モンドは這った。
呼吸もままならぬ状態で、それでもその目に、ぎらぎらと燃え盛る焔を宿し。
扉へ手を伸ばす。
一歩。
一歩。
腕を伸ばし、歯で階段を噛む。
そして。
「お父様!!」
その手が、希望の光を掴んだ。
「大丈夫ですか、お父様! 一体、ここで何があ、った、の……」
扉を開け、飛び込んできた、一人の女。
白磁の肌に、金髪金眼。
真白いローブを揺らした、救いの主。
「おお、ハズキ……」
掠れる声で、モンドがその名を呼び。
「ジンゴ、さん……?」
今まさに、モンドを捕えようと腕を伸ばした男の名を、ハズキが呼んだ。
……。
…………。
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