醜悪

「これ、は……なにが……え?」


 自分が立ち入りを禁じられていた実験施設から聞こえた異音と、禍々しい魔力の気配を察知したハズキが、決死の思いで戒めを破り見たものは、およそ彼女の理解からかけ離れた光景であった。


 薄暗い地下室で、うめき声を漏らし倒れる幾人もの杖兵たち。

 異臭を放つ液体の中に沈んだ灰色の肉塊。

 見慣れぬ白騎士。

 ボロボロに痛めつけられた父。

 そして――。


「ジ、ジンゴさん……。父に、何を……」


 それは、自分が最も信頼していた男のはずだった。

 己の命を救われて以来、ずっとその背中を追っていた男のはずだった。


「ハズキ、これは……」

 その男が、今、明らかに狼狽し、焦りの顔を見せている。

 それはハズキが初めて見る表情で、決して見たくはなかった表情であった。


「う……ごほっ。んん。……ハズキ」

 ハズキの足元に、咽こんで呼吸を取り戻したモンドが、弱々しい声で取り縋った。

 脂汗を顔じゅうに滲ませ、震える手でローブの端を掴む。

 もう片方の腕は、明らかに不自然な方向に曲がっており、ハズキの顔を蒼褪めさせた。


「ハズキ。ハズキ。助けておくれ……。助けて……」

「お父様! 一体、一体なにがどうなっているのですか!?」

 倒れ伏したモンドの体を助け起こしたハズキの前で、ジンゴは動きを止めていた。

 そこに、白刃をどす黒い血で穢したキリヤが並び立つ。


「見苦しい真似はよせ、モンド。貴様の娘には関りの――」

「近づかないで下さい!」

 ハズキが、モンドの傍らに転がっていたジンゴの黒鞘を取り、キリヤに向けて突き付けた。

 キリヤの顔に焦りが生まれる。

 ハズキがモンドの実験に何の関りもなく、またそのような実験が行われていることすら知らされていないことは、キリヤもジンゴから聞かされているのだ。


「よく聞くんだ、ハズキ・サイオンジ。貴女の父親は……」

「おお、ハズキ。この男は、この男は私たちを欺いていたのだ」

 キリヤの声掛けを遮るように、モンドがハズキの耳元で囁くように語りかけた。

「ヤマトが聖気の使い過ぎで心を病んでしまったのはお前も知っておろう。ここは勇者の力を制御するための研究施設だ。奴らはその技術を盗み帝国で勇者を作るつもりなのだ。……見ろ。やつらが半端にそれを使ったせいで、兵士を一人、鬼へと変じさせてしまった……」

「貴様、何を言っている!?」


 モンドの語る話に動揺しつつも、ハズキは右腕でしっかりとモンドの体を支え、左手の黒鞘でキリヤを牽制し続けている。

「我らはみな、騙されていたのだ。……あの曖昧な男に。まんまと懐に潜り込まれてしまった」

 その言葉に、ハズキが蒼褪めた顔で、モンドの顔とジンゴを見比べる。

 ジンゴはモンドの語りを止めもせず足元に視線を落としており、その表情は窺えなかった。

「そ、そんな。……何かの間違いです。だって、ジンゴさんは昔から――」

「お前の命を救ったのも、我が家に取り入るための狂言であったのだ。……わざと我らに恨みを持つ鬼の残党に、お前の乗る馬車の情報を……」

「そんな!!」


 悲鳴のような声を上げたハズキが、恐怖に怯える少女のような顔でジンゴを見る。

「うそ。……ですよね、ジンゴさん。なにか、……なにか理由があるんですよね?」

 その顔が、泣き笑いのような表情を作る。

 目元に浮かんだ涙の粒が溢れ、頬を伝った。

「ジンゴさん!!」


 その声に、ジンゴの面が上がる。

 そこには、強い決意を秘めた、火の点いた双眸があった。


「嘘ではない」

「…………??」


 ハズキの眼から、さらに涙が溢れ出た。


「俺は、お前の父親を捕えるためにこの家に潜り込んだ」


「い、いや、……いやです」

「ハズキ。お前に言い訳はせん。包み隠さず全てを話そう。だから――」

「いやあああああああ!!!!!!」


 甲高い悲鳴が、響き渡った。

 がくがくと震えるハズキの眼が、己が先程から握り締める黒鞘に注がれ、それがまるで汚らわしい忌物であるかのように投げ捨てた。

 弱々しい力で放られたそれが正面にいたジンゴの額に当り、血が滲む。


「聞け、ハズキ――」

「近寄るなあああああ!!!!!!」

 絶叫と共に放たれた陽の魔力の波動がジンゴとキリヤの体を打つ。

 震えながら尻餅をついて後ずさるハズキのローブを握り締めていたモンドが、起き上がり、片腕でハズキを掻き抱いた。

「おお。ハズキ。可哀そうに。可哀そうになあ」

「お、とう、さま……。みちを、……ハズキに、みちを」

「ああ、いいとも。私がお前を導こう。私はお前の味方だ、ハズキ」

「わたしは、わたしは……」

「すまなかったなあ、ハズキ。ヤマトにばかりかまけて、お前には父親らしいことを何もしてやれなかった」


 その、顔を。

 二人の男に背を向け、ハズキの頭を胸に抱いた、その男の顔を、誰か見たものがあっただろうか。

 謝罪と憐憫の情を垂れる口元は、思わず吊り上がりそうになるのを必死に堪えるせいでぷるぷると震え、それでも、その努力を裏切るように目元が喜色に満ち満ちて昏い輝きを放っている。


 世に醜悪という言葉こそあれ。

 其れは今、この男の顔にのみぞ見ゆ。


 男のハズキを抱く腕が静かに離れ、己の懐から鈍色の輝きを取り出した。

 涙と鼻水で濡れた娘の顔を、見もせずに。

 モンドは、ハズキの細い手を取り、それを人差し指に差し入れた。


「お、とう、さま、これは……」

「いい子だ、ハズキ。お前はいい子だなあ。大丈夫だ。私の言うことを聞いていれば、お前は大丈夫だ」

「あ、あの。胸が、苦し……。寒い。お父様」


 ハズキが胸を押さえ、うずくまった。

 その手には、妖しく輝く鈍色の指輪。

 金糸の髪がふわりと揺らめき立ち、体が淡く輝き出す。


 モンドの背から漏れて見えたその陽光に、ジンゴが叫んだ。

「よせ、モンド!!」

「もう遅い、曖昧屋」

 ついに喜悦の色を隠せなくなったモンドの声が、光に飲み込まれていく。


「おとう、さま。……くる、し。……たすけ」


 縋りつくハズキの手を払い、モンドが立ち上がった。

「大丈夫だ、ハズキ。すぐに、何もわからなくなる」

 輝きを放ち続けるハズキの頭に顔を寄せ、低く囁いた。


「『聖光ひかりよ、あれ』」


 閃光。

 轟音。

 哄笑。

 絶叫。


 全てが、白く染まった。


 ……。

 …………。


 そこから、遠く離れた地で。

 籐を優美に編みこんで作られたロッキングチェアにゆったりと腰かけた男の元に、一人の少女が侍っていた。

 その手には、血のように赤い液体が半ばまで注がれたグラスを持っている。

 男の顔色は青く、体のそこここに包帯が巻かれている。


「あの怪物が、量産されている……ですか?」


 まだ幼さの残る少女の声に、男は重々しく頷いた。

「その可能性もある、という話だ」


 少女は戸惑いながらも手に持ったグラスを差し出し、男はそれを丁寧に受け取ると、一口含んで、溜息を漏らす。

 そして、二人はぽつりぽつりと言葉を交わしていった。


「しかし、あれほどの戦力を、そう容易く……」

「勿論容易くはないだろう。だが、ウル様が身罷られてまだ二十年も経ってはいない。まさか次代の勇者が世に顕れるわけはない。ならば、あれは人工的に作られた存在なのだろうよ」

「人造の、勇者……ですか」

「ああ。無論、あれがミツキ嬢と同じだけ力を持っているとは思わん。だが、劣化品であれ確かにあれは勇者に類似した力を持っていた。一度作り出せたのならば、一人作るも二人作るも変わらんだろう」

「そんな……。それではオロ様があまりにも危険では……?」

「あやつの心配ならいらんさ」

「え? で、ですが、その……。ギムリ様が……」


「俺に気を使ってくれるのは嬉しいが、この様だからな。見栄の張りようもない」

「も、申し訳ありません……」

「いい。……そうだな。君は『アモン・ヘンの悪竜』を覚えているか?」

「え……? そ、それは勿論。私が魔国に来てすぐの事件でしたから」

「ああ。そうか。もう三十年ほども経つかな」

「はい。今でも覚えています。周辺の町や村に避難指示が出されて……。私も炊き出しを手伝いました。確か、オロ様が自らの眷属で編成した部隊を引き連れて退治なさったんですよね?」

「そうだ。そういう風に公表されている」

「??」


「真実は違うということだな」

「ええっと、それは……」

「あやつは部隊を引き連れてなどいない」

「……はい?」

「そもそもあやつに部隊を指揮する能力などない。あやつは我が君が手ずから編成した部隊を置き去りにして単独であの伝説級の魔獣に挑み、三日三晩かけてそれを討伐したのだ」

「…………う、そ、ですよね? だって、……え?」

「それでは奴の眷属たちの立つ瀬がないからな。公的には、部隊全員の力で倒したということにしてある。ただ、もし本当にそうしていたなら、犠牲者がゼロで済むはずはない」


「そ、そうだったのですか」

「あやつの普段の態度からは想像もつかんだろうがな」

「い、いえ、それは……」

「業腹ではあるが、こと戦闘において、現存する真祖の三柱を除いた全ての吸血鬼の中で――」

「……」


「奴が最強だ」


 ……。

 …………。


「ぶえっっくしょぉぉい!!」

「そのオッサンくしゃみ止めてくれよ、オロさん」

「ああん? こちとら数百年来のオッサンだぜぃ? オッサンくしゃみで何が悪い」

「せめてボリューム抑えてくれ。急に来るからびっくりするんだよ」

「くしゃみってな、急に出るもんだ。誰かが噂でもしてんだろ」

「はあ……」


 冴え冴えとした月が、深い紫色の空にかかっていた。

 メリィ・ウィドウの街から、街道を一つ挟んだ隣町。

 その、明かりの消え失せた静寂の町を、二人の男が歩いていた。

 すたすたと、淀みのない足取りで、町の外、メリィ・ウィドウへと通じる街道へと出ようとしている。


 通常の旅人であれば、夜半のうちに徒歩で街道へ出ることなどありえることではない。

 洟を啜る猫背の男と、隣で顔を顰める若い男は、世界に等しく降りた夜の帳の中で、一切の迷いを見せることなく歩を進めていく。

 そして。


「あ、あの!」


 その足が、止まった。


「オ、オロ・トゥオルさん、……ですよね」


 雲間からしらしらと差す月光が、彼らの歩む道の先に、旅装の外套に包まれた小柄な人影を照らし出した。


「あん?」

「おいおい、どうした、嬢ちゃん。こんな時間に。危ねえぞ」


 その小柄な人物が羽織っていた外套を脱ぎ捨てると、その中から真白いローブと白塗りの簡素な防具が現れる。

 腰には、白木の木剣。


「聖王教会第五支部所属、ヒカリ・コノエと申します」


 ぴょこんと、お辞儀をした。

 栗色の髪が、ふわふわと揺れ。

 それを見た二人の男の瞳が、血の色に濁った。


 ……。

 …………。

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