その過去は、今もお前の後ろに
「おい、ジンゴ……」
右手に刀、左手に黒鞘を握り構えを取るジンゴの横から、苦し気な声が聞こえた。
見れば最初の名乗り以降口を閉ざしていた白騎士――キリヤが、抜刀の構えを取ったまま、口元を震わせていた。
その肌が、心なし蒼い。
「なんだ、この猛烈な吐き気は……」
「ん? ああ、転移の副作用だな。言ってなかったか?」
「……お前、憶えておけよ?」
悪びれもせずに答えるジンゴに恨めし気な視線を向けるキリヤを見て、モンドが上ずった声で叫んだ。
「か、かかれ! 全員だ!」
その言葉に押し出されるように、最前列に構えていた杖兵が四人、一斉に踏み出し。
「……う……ぐ」
一歩進んだ時には、既に三人になっていた。
崩れ落ちる一人の杖兵の脇腹に、艶めく白刃が食い込んでいる。
つい数瞬前まで苦し気に顔を歪めていたはずのキリヤが、男たちの足踏みと同時に距離を詰め、神速の居合を繰り出していた。
その挙動に、ほんの僅か遅れて、金と銀の合間の色をした髪がふわりと揺れる。
その、剣の如くに輝く眼光が、すぐ隣の杖兵に向けられた。
「う、うああ!!」
突き殺すような殺気に当てられた男が、杖を打ち下ろす。
白刃が偃月を描く。
断ち切られた杖に、唖然とする間もなく、男の鳩尾にキリヤの爪先がめり込む。
その背後から、次の襲撃。
僅かに頭を傾けて躱す。
杖を突き出した男の襟を前から掴んで持ち上げ、背中を石畳に激突させる。
男の意識は闇の中へ。
「けあああ!!」
その体勢のキリヤの脇を狙い、杖が突き出される。
一瞬で体の向きを入れ替え、正面から刀で切り上げて弾く。
すかさず、返す刀の峰が男の眉間に叩きつけられ、その体がどさりと倒れた。
この間、三秒。
場が静まり返る。
ゆっくりと立ち上がったキリヤと、その周囲に転がる四人の男たちを、残りの杖兵たちが呆然と見つめる。
一点の曇りもない白刃が、僅かに闇の中に燐光を放っている。
「何をしている!? かかれ!!」
杖兵たちの背中に圧力がかかる。
それに突き飛ばされるようにして、男たちは、吠えた。
「う、うおおあああ、ごっ」
その咆哮の一つが、回転し飛来した黒鞘によって潰された。
黒い影がキリヤを追い越し宙に浮かぶ。
「ふん!」
大上段から打ち下ろされたジンゴの刀が、慄く男の杖を断ち割る。
逆の手で、石畳に落ちる寸前の黒鞘を掴み取る。
地を這うような一撃が、すぐ横にいた杖兵の膝を砕く。
苦悶の声。
それを掻き消すような、叫び声。
三方向から突き出された杖を、体ごと下に倒れて躱す。
仰向けに倒れる動きそのままで、足を振り上げ一人の男の股間を蹴り潰す。
動きを止めた男の足を掴み引き倒すと、その体を、ジンゴを狙って振り下ろされた杖が打ち付けた。
肉の壁を掲げたジンゴは、それを敵の一人に投げつけ離脱。
それと入れ替わりに踏み出したキリヤが、神速の剣撃を二発、三発。
その度に悲鳴と苦悶の声が上がり、ばたばたと男たちが倒れていく。
「いあああ!!!」
そのほんの僅かな隙をつき、決死の覚悟で飛び掛かった男の一撃を、キリヤが刀で受け止める。
一瞬、力が拮抗し。
次の瞬間で、飛来した黒鞘が、男のこめかみを強かに打ち据えた。
からん、と、黒鞘が石畳に落ちる音が静かに響いた時には、その場で立っているものは、既に三人だけとなっていた。
「お、思い、出したぞ……」
その内の一人、わなわなと震えるモンド・サイオンジが、刀を収めたキリヤに恐怖の視線を向けた。
「『迅狼』キリヤ。近頃帝都で台頭し出した孤児院出身の平民騎士……」
「よく、調べているようだな」
柄に手を置き、剣で貫くかのような眼光を返すキリヤに、モンドは思わず一歩後ずさった。
「ならば、俺が育った孤児院が、かつて貴様が非道な人体実験のために孤児を買い取った場所であることは知っていたか?」
「馬鹿な。馬鹿な……。貴様如きの身分で、こやつが私を裏切るほどの報酬を用意できるわけが――」
「そんなものは必要ない」
「そんなわけがあるか! こやつは、こやつは人の心を失った
「くふっ」
動揺するモンドの言葉に、キリヤの口から失笑が漏れた。
「そうなのか、ジンゴ?」
首を動かさず、視線だけを動かして横に並ぶジンゴにキリヤが問う。
「くだらん」
それに心底つまらなそうな声で答えたジンゴが、転がったままの黒鞘を拾った。
「今までこやつの持ち物で俺が欲しいと思えるものが、金以外になかっただけのことだ」
「な――」
言葉を失ったモンドに、ジンゴは一歩踏み出し、刀を収めた。
頭の後ろで髪を縛っていた紐を解き、その荒波のようにうねる黒髪をばさりと下ろす。
「なあ、モンド・サイオンジ。俺の顔に見覚えはないか」
「なん、だと……?」
モンドが恐怖と憎悪に歪んだ顔に困惑の色を混ぜて、その狼のような男の貌を見据えた。
この、自らを曖昧屋などと自称する怪人に初めて出会ったのは、聖騎士の養成校に娘のハズキを入れるかどうかという頃のことである。
彼女を乗せたサイオンジ家の馬車が鬼の群に襲われたところを、たまたまその場に居合わせたジンゴが助けたのだ。
ジンゴとはそれ以来の付き合いになる。時に武力を。時に魔道具の知識と技術を。時には決して明るみには出せない闇の中の手を、彼はモンドに貸していた。そして、その代わりにモンドが差し出す、金以外のものを、彼が求めたことはなかった。
地位も。名誉も。女も。
ジンゴの眼には塵芥も同じとしか映らないようであった。
俺の顔に、見覚えはないか?
その問いに、モンドの頭の中の、まだ辛うじて残る冷静な部分が回り始めた。
キリヤ・キサラギ。
孤児院出身の平民騎士。
人体実験。
人の心を持たぬ怪者。
その、餓えた狼のような眼光。
「ま、さか……」
そして行き当たった、一つの答えを。
「き、貴様は……」
乾ききった唇が、紡いだ。
「あの時、ここに忍びこんだ小僧か!!」
被験者となった、唯一研究の成果を見せていた少女を追って、この場に潜り込んできた一人の少年。
再会してすぐ、少女は自害し、少年は鬼へと変じた。
飴色の大角。
吊り上がった眦。
破壊の音と、絶叫が、モンドの脳裏に蘇り。
その口をついた。
「ふざけるな!! あの鬼は、確かに討伐されたはずだ! あの忌々しい漂泊騎士の手で、確かに!」
それを微風の如くに受け流し、ジンゴがその答えを告げる。
「ああ。鬼は確かに討伐された。そして、その後には絞りかすが残ったのさ。過去も、記憶も、心も、何もかもを持たない、ただの曖昧な男がな」
一歩前に出ていたジンゴに並ぶように、キリヤが柄に手を置いたまま足を踏み出した。
「あの日、俺たちの姉も同然だった仲間が貴様に連れ去られた時、俺はただ泣いてそれを見送り、こいつは一人貴様を追っていった。そしてそれっきり、二人の消息はこの大陸から消え失せた。
俺が騎士団に入団して直後にこいつに会った時、ゲンジ殿からその後の事を聞いた。だがその時の俺は、貴様に報いを受けさせるための力など到底持ち合わせていなかった」
キリヤの眼光が、鋭さを増していく。
やがて灰色の瞳が、白く輝きだした。
「ようやくここまで来たぞ、モンド・サイオンジ」
「くそっ!!」
モンドが力任せにすぐ近くの壁を叩きつけると、その壁に穴が開き、中から何かのレバーが現れた。
震える手でもたつきながらそれを下げると、腹の底に響く重低音と共に、歯車の軋むような音と振動が地下室全体に伝わった。
キリヤがジンゴに目配せし、ジンゴが小さく首を横に振る。
やがてその壁の反対側、ジンゴによって伸された男が倒れ掛かる壁が崩れ、中から、一人の男が這い出てきた。
膝をつき、四つ足でぷるぷると震えながら歩く男。
霞色の髪はぼさぼさとだらしなく伸び、衣服はボロ雑巾のよう。
骨と見間違うほどの四肢。
その首元に、異質な白革の首輪。
弛緩した顔の筋肉は顎を支えられず、ところどころの歯が抜けた口内が覗いて見えた。
もしも。
もしもここに、アタゴの街で吸血鬼としての正体を晒した青年――サカキ・イヌイがいたならば、それが、かつて自分と一緒にこのサイオンジ家に雇われ、観測班として働かされたかつての同僚であることに気づいたであろう。
それは、先の実験の失敗の責を負って、モンドにより
あう。
あわあ。
不明瞭な譫言を漏らす男は、その虚ろな瞳にモンドの姿を認めると、僅かに身じろぎし、体を逸らす素振りを見せた。
モンドの片手には、小さな鍵が握られていた。
突如現れた男に、キリヤとジンゴの対応が、ほんの僅かに遅れた。
白革の首輪についた錠に、鍵が差し込まれ。
いやいやをするように首を振る男の眼が、ぐるりと裏返った。
「あ」
その喉から、ただ、呼吸が声帯を震わせただけの音が漏れる。
「あ。あか。がか。かららららららららららら」
それは、封印の首枷。
数十名の聖騎士が一月がかりで聖気を練り込んだ白革が施した男の軛が、今解かれた。
みしり。
みしり。
ごき。
ごぼ。
肉が膨れ、骨が軋み、男の体が作り変えられていく。
いや、
くるぉぉおをををおおん。
煤けた灰色の巨躯が、天井を突く。
ごりごりと擦れる、捩れた大角。
大岩のような拳が二つ、握り締められて。
薄暗い地下室に顕れた大鬼に、二人の剣士が、刀を抜き放った。
……。
…………。
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