夜の王は静かに暮らしたい

 光の差さぬ昏い世界に揺蕩うヨルの意識に、二人の男の声が聞こえてきた。


『お前は強い男だ。お前は正しい男だ。どうか、自分に恥じない生き方をしてほしい』

『頑張らなくていい。気楽に生きろよ。鼻唄でも歌いながらな』


 ヨルの魂の輪郭を震わせるその声は、ヨルがこの世界に生まれ落ちてからずっと、その胸の裡に木霊していた声であった。


『萄也』

『萄也』


 標のように。

 呪いのように。


 春の森で、蝙蝠の魔獣と対峙した時も。

 夏の里で、歴戦の暗殺者と切り結んだ時も。

 秋の山で、病魔の化身にその身を晒した時も。


 ヨルの心魂の奥深くに、常にその言葉はあったのだった。


 やがてヨルの意識が闇の淵より浮かび上がり、その目を覚ました時、最初に視界に入ってきたのは、明滅する青い閃光であった。

 淡く光る陣に結跏趺坐を組んで座るマーヤが、十指を虚空に彷徨わせ、次々と青い光を放ち続けている。


「十一班は東の五の五へ。六班を助けとくれ。カツミさん、後二分で西のバリケードに三人来る。一区画奥にもう一枚追加だ。十五班はカツミさんをサポート。ミシェル、アイナさんがやられた。足止め頼んだよ。二班はミシェルに補給。シャオレイさん、三分休憩していい。……無理しないどくれ。あんたの機動力が要なんだ――」


 街中に向け、矢継ぎ早に指示を飛ばすマーヤの姿は、背後から見ても疲労と焦りの色が濃い。

 ヨルは意識の浮上と共に知覚された全身を包む痛みに顔を顰め、首の動きだけで周りを見渡した。

 暗い屋内。灯る蝋燭と、その幽かな明かりに浮かぶ数十基の操糸機。

 街の工業区、製糸工場であった。


 たった数日前、トーヤと共にここで注連縄を作っていたことを思い出し、ヨルの体に、傷とは別の痛みが走る。


「あぁ、目を覚ましたのね、ヨルちゃん」

 そこに、湯を張った盥を手にしたカグヤが歩み寄り、ヨルの上半身を助け起こす。

 湯に浸した手拭でヨルの傷を清めるカグヤに、ヨルは痛みに歯を食いしばりながら訊ねた。

「カグ、ヤさん。今、どういう状況ですか?」

「それは……」

 数秒、躊躇うように黙考したカグヤは、口元を引き締めてヨルに向かい合った。


「要点だけ簡単に言うわね。一つ、トーヤちゃんはヒカリちゃんを追って街を出た。二つ、ヨルちゃんには彼を止めてもらうために、街の人の血を吸ってもらう。三つ、赤騎士の人たちは町民の吸血鬼化を阻止するためにヨルちゃんを狙ってる。四つ、街のみんながそれを防いでくれている。……以上よ」

「え…………?」


 いつになく簡素な言葉で語るカグヤの言葉に、ヨルが硬直する。

「ちょ、っと、待って下さい。……え? 街の人の血を? でも、今は聖水が…………吸血鬼化?」

 状況の理解を拒むように、わなわなと震える声を漏らすヨルの肩に、カグヤはその大きな掌を優しく置いた。

「今のトーヤちゃんを止められるのは、ヨルちゃんだけよ。あなたは真祖の吸血鬼。血を吸えば吸った分だけ、魔力がそのままあなたの力になる」

「けど……それじゃ、街のみんなが――」

「ええ。だから、私たちを、あなたの眷属にしてちょうだい」

「だ、ダメです。それじゃ、それじゃあ、あいつが言った通りになる! 俺は、眷属を作るつもりなんかない! 大丈夫。……大丈夫です。すぐ、すぐに、追いかけますから」


 そう言って立ち上がりかけたヨルの体が、がくりと崩れ落ちた。

 体の芯に力が入らず、腕は振るえ、顎は緩み、汗と涎が板張りの床に染みる。


 その体を、もう一度カグヤが助け起こした。

「よく聞いて、ヨルちゃん。今のあなたじゃ、勇者の力には勝てないわ。それどころか、勝負をかけに追いかけることすらできない。……街のみんなは、もう納得してる。ここに、あなたに血を吸わせる人のリストがあるから――」


「イヤだ!!!」


 悲鳴のようなヨルの声が、製糸場に響いた。


「ヨルちゃん……」

 困り顔で笑みを浮かべるカグヤの手から、ヨルの体が離れる。

 座り込んだまま後ずさり、顎を震わせ、顔を引き攣らせる。


「イヤだ……。俺は、俺はそんなことをするためにここ・・に来たんじゃない……!」


 それは、この街に来て、ヨルが初めて見せる顔であった。


「俺はただ、もう一度やり直したくて……ただ、気楽に生きて……もう頑張りたくなくて……」

 べそをかく子供のような顔で、ヨルは壊れたように首を横に振った。

「イヤなんだ。いっつもそうだ。いっつも俺ばっかり。みんなで、みんなして俺に、頼んだって、後は任せたって……。自分たちばっかり犠牲になって、俺に押し付けて!!」


 泣き叫ぶヨルを、カグヤは慈愛に満ちた顔で、静かに見つめ。


「俺は強くなんかない。いっぱいいっぱいなんだ……。全然、正しい男なんかじゃない――」

「ヨルちゃん」


 ヨルの頭を、大きな腕で包み込んだ。


「やめて、やめてください、カグヤさん。俺は眷属なんかほしくない……。俺はただ、静かに暮らしたいだけなんだ……。やめてください……。お願いだから――」

「分かってるわ」

 柔らかな声が、嗚咽混じりの声を包む。


「みんな分かってるわ。あなたが本当は、弱虫で、泣き虫で、臆病なだけの男の子だってこと」

「え……?」

「あなたは強くなんかない。正しくなんかない。初めてこの街に来た時からずっと、弱くて、狡くて、寂しがり屋で、その上とんでもなく見栄っ張りな、普通の男の子よ」

「カ、グヤさん……?」


 カグヤは抱きしめていたヨルの頭を放し、涙と鼻水に塗れたその顔を、正面から覗き込んだ。


「けど、だからこそ、誰より強く、誰より優しい、私たちの王様になれる」


「でも、俺は……」

「それに、眷属が要らないだなんて、今更言っても遅いわ、ヨルちゃん」

「そんな――」

「この街の人たちは、みんなとっくに、あなたの家族よ」


 その、柔らかな言の葉は、ヨルの魂に静かに染みていった。


「もちろん、ヒカリちゃんも、トーヤちゃんも、私たちの家族だわ。今は悲しいすれ違いがあっただけ。家族で争うことほど悲しいことはないもの。ちゃんと、仲直りしなくちゃ」

「…………」

「全部終わったら、またみんなでお鍋にしましょう。今年はシャケの水揚げが多いそうだから、たっぷり使いましょうね。ヨルちゃんはタラのほうが好きだったかしら。奮発してすき焼きもいいわね。今年一番の絹を出荷したら、お祝いにまた牛を買いましょう。アップルパイも焼いてあげるわね。それとも、ヒカリちゃんと一緒にクラフティを作ろうかしら」


「う、うぅ……」

 ヨルの赤く濁った両目から、新しい涙が溢れてきた。

 先程の絶望に暮れた涙よりも、暖かな雫が頬を伝う。


「大丈夫よ、ヨルちゃん。何も変わらないわ。ここは『陽気な未亡人たち』の街。悲しみに蓋をしましょう。楽しいことだけ考えるの。でもそのためには、ほんのちょっとだけ、今を頑張らなくちゃ」

「うううぅぅ」

 カグヤの太い両腕が、再びヨルの頭を抱きしめ。


 うあああああああ。


 その胸の中で、ヨルは大いに、泣きじゃくった。


 ……。

 …………。


 やがてヨルの泣き声が、ただ静かにしゃくり上げるだけの声になった時。

 

「ヨル」


 それまで、カグヤとヨルのやり取りに一切口を挟まず、青魔法による陣頭指揮に専念していたマーヤが、色濃く疲労を滲ませた声で話しかけた。

「そろそろ、覚悟は決まったかい?」

「……はい」


 カグヤの腕の中から離れたヨルが、俯いたまま小さく答える。

「なら、……急いで準備しな。……私たちは、ここまでだ」

「え?」


 ぎぃ。


 蝶番の軋む音と共に、工場の暗がりに一筋の陽光が差した。


「どうやら、間に合ったようだな」


 その身に、灼け付くような熱風を纏わせて、赤騎士――テンヤが現れた。


 その右肩に、後ろから一本の矢が突き刺さり、左手の手甲が罅割れている。

 額には、珠のような汗と、滲む血糊。


「まさか、ミシェルまでやられるとはね。恐れ入ったよ」

「あのエルフの弓兵か。……ここ数年の任務で一番手強い相手だったよ。まさか、私に奥の手まで使わせるとはな」


 空いた扉から吹き込む凍てつくような外気に、焦げ臭い匂いが混じる。

 一歩、一歩、不屈の騎士隊長が、歩みを進める。

 

「だが、ここまでだ。貴女方の健闘は称えよう。しかし、吸血鬼の一大勢力の新興を黙って見過ごすわけにはいかん」

 油断なく鋭い視線を投げかけるテンヤに、それでもマーヤは、不敵な笑みで応じた。


「おいおい。終わった気になるのは早いよ。私たちの仲間かぞくは、まだ全員じゃない」

「虚勢は見苦しいだけだ、代表者殿。この田舎町に、私を止められるだけの戦力がまだあるとでも?」


 マーヤの疲労に満ちた顔、その口元が、にやりと吊り上がった。


「ああ。いるさ、とびっきりのじゃじゃ馬がね・・・・・・・


 その時。


 ぴゅいぃぃぃぃぃぃぃぃぃ。


 長く尾を引く風切り音が、開け放たれたドアの外から聞こえてきた。

 テンヤが弾かれたように後ろを振り返る。


「この、……魔力は」

 まるで信じられないものを見るように、その目を大きく見開く。

 工場の奥で、座り込んだままのヨルも顔を上げ、最初は同じく呆けたような顔を、次第に明るく染めていった。


「全く、この大変な時に――」


 マーヤがほつれたシルバーブロンドの髪をがしがしと掻き上げ、空に吠えた。


「どこほっつき歩いてたんだい、この不良娘が!!」


 ごしゃ!!


 工場の屋根が、崩れた。

 

 次いで重たい衝撃音と共に、工場内を粉塵が埋め尽くす。


 立ち込める煙の中に、真っ赤な炎が花咲き、視界を晴らした。


 濃緋色のジャケット。

 手には分厚い革の手甲。

 揺らめくは、桜色の髪。


「あら、随分賑やかね、なにか良いことでもあった?」


 澄んだアルトの声。


 メリィ・ウィドウの街の新聞屋――アヤであった。


 ……。

 …………。

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