一杯のお茶をあなたに
その日、夜明けと同時に起き出したアタゴの街の町民たちは、みな街の入り口前の大広場に集められていた。
昨日から続く快晴の空は、透明な空気に東からの陽射しを注いでいる。
底冷えのする冬の朝にほんの僅かに温もりを添えるその陽光を浴びて、人々は半円状に固まり、一人の少女と、その後ろに立つ青年を囲んでいた。
ふわふわとした栗色の髪が、地に着きそうな程に深々と下げられている。
そこに集められた全員が、それこそ、彼女の後ろに立ち尽くしたサカキ本人ですらが呆然とした表情で、その小さな少女を言葉もなく見つめているばかりである。
時を遡ること、数時間。
深夜の屋敷で、自分の正体を晒し、どうか自分を討伐してくれと請うたサカキに、ヒカリは真っ直ぐにその目を見返して、答えたのだった。
「イヤです」
「え……」
言葉を失ったサカキに、ヒカリは言葉を重ねた。
「私の仕事は、人々の暮らしを守ることです。自殺の手伝いをすることじゃありません」
その、芯の通った台詞に、サカキがたじろぐ。
「な、にを、言ってるんだ。僕は今、この人を襲おうと――」
「襲おうとする振りをして、私が止めるのを待ってたんですよね?」
「な……!」
ヒカリはそこで、少しだけ姿勢を崩して、困ったような笑みを浮かべた。
「だって、人を襲うなら私のいるこの屋敷でする必要なんかないです。移動中もわざと魔力を漏らして……」
「そんな、ことは……」
「サカキさん、私がサカキさんの正体に気づいてることに、気づいてたんですよね? でも、私も、気づかれてることに気づいてました。だから、ひょっとしたら、こんな手段に出るかもしれない、って」
「なら、なんで……」
「貴方を、助けたいから」
「っ…………」
サカキの膝が、崩れた。
両手で顔を隠し、ぶるぶると震える。
「やめてくれ。僕は……、僕はもう人間じゃないんだ。こんな体で、これ以上……。今こうしていたって、食欲に意識を乗っ取られそうになるんだ。もう、もう僕は……」
「大丈夫です」
ヒカリは腰元から革袋を取り出すと、嗚咽を漏らすサカキの手にそれを握らせた。
「これ、は……うっ」
その栓を抜いた途端に漏れ出た臭気にサカキが顔を顰める。
「魔獣の血です」
「え!?」
「ケロスの三頭蛇のものです。少しだけ、採取しておきました。その渇きに少しは効くはずです。今はこれで、我慢してください」
それを握ったサカキの視線が、袋とヒカリの間を二度三度往復し、項垂れた。
「……駄目だ」
「サカキさん……」
「こんな姑息療法で生き永らえたって、僕が化け物なのは変わらない。いつまでも都合よく魔獣の血が手に入るわけじゃないだろう? それに、吸血行為っていうのは本能なんだ。ただ魔力を含んだ血を飲むだけじゃ、そのうち衝動を抑えきれなくなる」
だから、と口にしかけたサカキの言葉を、ヒカリの力強い視線が再び遮った。
「大丈夫です!」
それを見るサカキの顔に、戸惑い、怒り、畏れ、様々な感情が入り混じる。
その全てを陽の光に染めるように、ヒカリは笑った。
「私に、任せてください!」
……。
…………。
そして。
翌日の朝、夜明けと共に町中を廻り人々を集めたヒカリは、困惑を隠せない住民全員に向けて事情を説明し、深々と頭を下げて言ったのだった。
「お願いします! サカキさんに、血を分けてあげて下さい!!」
誰一人、それに言葉を返せなかった。
自分たちの街に吸血鬼が入り込んでいたこと。その吸血鬼を聖騎士が助けようとしていること。そして、その彼がこの街にとっては恩人であること。
情報量が多すぎて、どう反応していいのかが分からない。
ただ伝わったのは、目の前で頭を下げ続ける小さな少女が、間違いなく本気であるということだった。
「け、けどよ……」
震える声で、町民の一人の男が、ようやく問いを発する。
「き、吸血鬼に血を吸われたら、そいつも吸血鬼になっちまうんだろ……?」
その言葉に、周りの町民たちもざわついた。
戸惑いの中に恐れの感情が伝播していく。
「大丈夫です! 血を吸ってからすぐに聖水を飲めば、吸血鬼化は防げます。みなさんの身に危険が及ぶようなことにはなりませんから!」
「しかし、万が一のことが――」
「油断して、寝込みを襲われたりしたら――」
「そんなことはっ……!」
「あの!」
その時、人垣をかき分けて、緋色の髪を揺らしたもう一人の聖騎士が現れた。
「ツグミちゃん?」
その、彼らにとっては見慣れた少女が、ヒカリの横に並び、同じように頭を下げた。
「私からも、お願いします!」
「ちょ、ツグミちゃん?」
「サカキさんは、人を襲うような吸血鬼じゃありません。本当はいつだって逃げ出せたんです。なのに、自分がぼろぼろになるまで私たちを助けてくれて、この街を救ってくれたんです。どうか、サカキさんを助けてあげてください。みなさんの安全は、私が責任をもって保証しますから!」
その横で、再びヒカリが頭を下げ、住民たちは再び言葉を失い、おろおろと立ち尽くすばかりである。皆、めいめいに顔を見合わせ言葉を探すが、誰も答えを返せるものはいなかった。
数秒、空白の時が流れ。
「もういいよ、二人とも」
それを後ろから、サカキの声が破った。
同時に振り返った二人の眼の端には、涙の粒が溜まっている。
「でも……!」
「サカキさん……」
それを柔らかな微笑で見返して、サカキは住民たちに言葉を向けた。
その瞳が、血の色に濁っていく。
「みなさん、お騒がせしてすみませんでした。僕は、見ての通りの吸血鬼です」
その異形の姿に、人垣の輪が一歩退いた。
「大丈夫。直ぐに立ち去ります。幸い、ヒカリさんがくれた魔獣の血がありますから、これで魔国までは帰れます。二人のことを、どうか責めないであげて下さい」
濃い金色の髪がゆっくりと下げられる。
二人の少女の顔がくしゃりと歪められ、それに微笑みを一つ返し、サカキは一歩を踏み出した。
その、横から。
「お待ちなさい」
声が、かかった。
そのぴしゃりと放たれた声に人垣が割れると、そこには、背筋をしゃんと伸ばした一人の老女と、頭痛を堪えるように頭に手を遣った町長――カノの姿があった。
「トキコさん?」
町民の一人がその女性の名を呼び、それに答えることもなく、トキコはすたすたとサカキへ歩み寄った。
「それはなんです?」
サカキが手に提げた革袋を指さす。
「え……あの、魔獣の血で――」
その言葉を遮るように、カノはそれをサカキの手からもぎ取った。
栓を抜き、そこから漏れ出た臭気に顔を顰めると、それを、袋ごと地面に投げ捨てた。
「ちょ!?」
「何を!?」
とくとくと零れるその中身が、地面に赤黒い血が染みていく。
咄嗟に拾おうと手を伸ばしたサカキを、トキコは足を一歩踏み出して制し、そのまま、彼らを取り囲む町民たちを睥睨した。
「仮にも茶摘みの街の住民たちが、街を救った恩人にこんなものを飲ませるおつもりですか?」
その鋭い眼光に、最前列の住人たちがたじろいだ。
「しかし、トキコさん、そいつは――」
「街を救った恩人」
「いや、そりゃ、そうだが……」
言葉を濁す男に、トキコは再び鋭い眼光をくれると、唖然とした様子の聖騎士の二人に向き直った。
「あなたたちの行動は、聖騎士としては決して褒められたものではない。そうですね?」
「はい……」
「でも、トキコさん、私は――」
「けどね。私は聖騎士という人種が、心底嫌いなんですよ」
「「え……?」」
言い縋るヒカリとツグミの声に、トキコが言葉を被せる。
「私には夫がいました。夫はこの街の人間でしたが、傭兵として、戦争に駆り出されたのです」
「え、っと……」
「彼は死にました。意味もなく、何の甲斐もなく、ただただ無駄な戦死でした」
「あ……」
「……」
その言葉に押し黙った少女たちに、トキコは語りを続けた。
「私は、戦が憎いのですよ。魔族も憎い。獣人も憎い。そして、それと同じくらいに聖騎士も憎い。けれど、それはもう、過去のこと」
トキコの眼が細められ、その眼光鋭い表情が、ほんの少し和らいだ。
「私の夫は、戦場では勇敢で、力強く、仲間から頼られる戦士であったそうです。ですが、この街にいるときは、困っている人を放っておけない、ただただ優しく、暖かな、茶摘みの人間でした。
夫が今ここにいたなら、きっと迷わずに血を差し出すでしょう。私はそれを、彼の心を、守らなければならない」
そして、トキコはサカキの手を取った。
「さあ、私の血をお吸いなさい。こんな老人の血など、大して美味しくもないでしょうが……」
「そ、そんな……」
「なら! もっと若い女ならどう?」
「え?」
人垣の中から、一人の女性が歩み出た。
それは、ツグミが寝泊まりしている大食堂の女将で、トキコの義娘の女性であった。
「義母さんばかりに格好つけさせられないわ。私の血も貰ってちょうだい」
サカキが、信じられないものを見るような目で、震える声を出す。
「い、いいんですか……?」
「ええ。聖水飲めば大丈夫なんでしょ? じゃあいいわよ」
「ちょ、ちょっと!」
「待て待て待て」
そこに、四方八方から人が群がった。
「おい、勘弁してくれ。そんな、俺らを薄情者みたいに」
「安全だってんならいいんだよ。遠慮なく吸ってってくれ」
「私のも貰って」
「僕も」
「あたしも」
「……」
「…………」
堰を切ったように、人々が押し寄せた。
突如始まったその喧騒にサカキが目を白黒させていると、手を大きく鳴らす音が響き、「みなさん、落ち着いてください」と、カノがそれを宥め始める。
しかし、それは彼らを止めようとするものではなかった。
吸血鬼が一度に血を吸う際の量とそれが人体に与える影響を説き、誰の血を吸わせるかを決めようとしている。
そんなやり取りを何処か他人事のように聞きながら、サカキは呆然と立ち尽くした。
そこに、栗色の髪を揺らした少女が歩み寄る。
「ほら、何とかなりましたよ」
「ヒカリさん……」
その名前の通りに、光るような笑顔で。
「生きてていいんです、サカキさん」
その、言葉が。
サカキの中の何かを、ぷつん、と切った。
「お、おお、お……」
がくりと、膝を突く。
「おあああああああ…………」
子供のように泣きじゃくる声が、冬の空に溶けて消えていった。
……。
…………。
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