ヨルの一人目
豊かな藍色の髪に、艶のない墨色の髪が埋まっていった。
細く、それでいて逞しい腕が背中に回され、頭の後ろを優しく支える。
冷え切った空気の中に、淡く、血の香が漂っていく。
「ヨル君は、一体何を……?」
戸惑いの表情を浮かべて、隣に立つ女性にトーヤが問う。
しかし、周囲の女性たちもみな同じような表情のまま首を横に振るだけであった。
その場から動くことも出来ず、ただ、立ったままクーネの首筋に顔を埋めたヨルの姿を困惑しながら見つめているばかりである。
「血の上書きだ……」
ぽつりと漏らしたのは、マーヤであった。
「え?」
「今、クーネさんの体内は侵入者の吸血鬼の魔力によって、魂が変質させられている最中だ。このまま放っておけば、どこの誰とも知れない吸血鬼の眷属にされちまう。上からの命令には逆らえない、隷属の鬼。だからヨルは、クーネさんの魂を取り戻そうとしているのさ」
「じゃ、じゃあ――」
「クーネちゃん、助かるの!?」
「いいや」
「え!?」
マーヤが、表情を失くした目を細め、伏せた。
「そうじゃない。だから、『上書き』なんだ。……ヨルは真祖の吸血鬼だ。混じり気なしの、純粋な吸血鬼。クーネさんを襲ったヤツが誰だろうが、影に憑りついた連中が体調を崩す
「それって、つまり……」
震える声で問うた一人の女性に、マーヤは暗黒に沈みこんだような声で静かに答えた。
「そうだ。ヨルは、クーネさんを自分の眷属にするつもりだ」
全員が、言葉を失った。
ただトーヤだけが、その灰青の瞳で、不思議そうにヨルの姿を見つめ続けていた。
……。
…………。
やがてヨルの頭が藍色の髪の中から離れると、糸が切れたように、クーネの体から力が抜けた。
それをヨルの腕が優しく支え、慌てて駆け寄った二人の女性にその体を預ける。
「ク、クーネは……?」
「取り合えず、水を飲ませて下さい。脱水を起こしちゃまずい」
「え、ええ……」
ヨルの声は今まで聞いたことがない程暗く、冷たかった。
呆気に取られ、それ以上のことを聞けずにいる女性たちの合間から、マーヤが進み出た。
「ヨル……」
「すいません。俺は……」
「……いや。いい。謝らなきゃいけないのはこっちだ。あんたに、こんなことをさせる気はなかった」
「俺は……こんなこと……」
俯き声を震わせるヨルの肩にマーヤが手をかけようとした、その時だった。
「これは一体、どういうことですかな?」
男の声が、廊下の奥から聞こえた。
その場全員の視線を集めたそこには、二人の男が立っていた。
一人は、先日行方不明の調査隊の男の情報を求めてメリィ・ウィドウの街に来訪した、サイオンジ家の使用人――アツミ・イガリ。
小柄な体躯ながらも背筋をぴんと伸ばし、その顰められた顔から鋭い眼光を放っている。
もう一人は、それと対照的な、長身の男であった。
赤銅色の髪は短く刈り揃えられ、堀の深い精悍な顔立ちは日に焼けて赤黒い。
両の手足には、深紅の手甲と具足が備えられ、胴には動きやすさを重視した簡素な軽鎧を纏っている。
胸元には、羽の紋章。
「帝国騎士……?」
その特徴的な外見に思わず漏れ出た声を気にすることもなく、アツミが一歩を踏み出した。
「マーヤ殿。これは一体、どういうことですかな? 私の目には、貴女がたが安全だと嘯いていた吸血鬼が、今まさに自分の眷属を増やしたように見えるが」
ぎり、と、音が聞こえそうなほどにきつく、マーヤが唇を噛み締めた。
「そうか……。この状況が、あんたたちの狙いか……」
その呪詛のように絞り出された声を正面から受け止めて、アツミはなお、不遜な態度を崩さない。
「何を言っているのか分かりませんな。一先ず、詳しく話を――」
「待って! 聖水を、聖水を分けて頂戴! 今ならまだ間に合うわ!」
マーヤの横から一人の女性が飛び出し、縋りつくような目でアツミに請う。
アツミはそれを、ただ冷たく一瞥しただけだった。
「生憎、手持ちを切らしております。それより、街に聖水が一滴もないのですか? 一体どういう訳で?」
「とぼけるんじゃないよ!!」
マーヤが怒声を発する。
「あんたたちが遣わした侵入者に他所の吸血鬼が憑りついてたんだ! そいつに街の人たちが血を吸われて、聖水は使い切っちまった!」
「その証拠は?」
「っ……!」
淡々と、まるで最初から用意していたかのように滑らかに、アツミが言う。
「私たちが遣わした侵入者? 他所の吸血鬼? おかしなことを事を仰いますな。教会の人間が吸血鬼を使役していたとでも?」
「それは……!」
「その、証拠は?」
一切の揺らぎを見せないアツミの声に、マーヤは察した。
この男は、全て見計らっていたのだ。
以前街に来た時に、聖水の量の凡そも把握していたに違いない。それを見越したうえで吸血鬼に血を吸わせた。
その上で、ヨルがそれを上書きするところまで読んでいた。
そして今、このタイミングで姿を表したのだ。
「全く、困ったものですな。このままでは新たな真祖の眷属が一つの勢力を築いてしまう。それも、聖王教会の庇護下のこの国で。これは由々しき事態です」
「この子は眷属を増やしたりなんて――」
「しないと思っていたら、今していました。私も残念ですよ。今日までこの狡猾な吸血鬼に欺かれていた貴女がたには同情しますがね」
「……何を言ってる?」
「ですから、眷属を増やそうとしない吸血鬼など端から存在しないのです。きっとこの吸血鬼は、これからも眷属を増やしていくでしょう。ええ。確かに、貴女がたの言い分は筋が通っている。こうしなければ余所者の吸血鬼の眷属にされそうな女性を自らの眷属にすることで救った、と。
では、次にまた同じようなことが起きたら? きっとまた眷属を増やすのでしょうな。どうしようもなかった。こうするしかなかったんだ。見事な理由を、誰の目にも納得のできるような理由をつけて。その血をばら蒔く」
「そんな、そんなことは……」
「ないと言い切れますかな? 大体、私から見れば余所者の吸血鬼だなどと、そちらの言い分のほうがよほど怪しい。全てそこの吸血鬼の自作自演とでも言ってくれたほうがまだ納得がいきます」
「ふざけるな! いくら吸血鬼だからと、この街の人間がヨルと別の男を見間違えたりするもんか!」
「ご存知ないようなら教えて差し上げますが、陰魔法には他者の記憶を操作する技もあるのですよ」
「ヨルはそんな魔法は使えない!」
「使えない、と、その吸血鬼が言ったのですか? それを、私が信じる理由は?」
「こ、の……」
「もういいですよ、マーヤさん」
ぽつりと、呟くような声で言葉を漏らしたのは、それまで沈黙を守っていたヨルであった。
「ヨル?」
「こういう連中は、俺もよく見てきました。嫌っていうほどね。見てきましたよ」
その声が、低く、冷たく、濁っていく。
「聖水を切らしてるなんて嘘です。こんな連中がそれを用意していないわけがない。なら……」
「ち、ちょっと――」
「奪い取るまでだ」
広い廊下に漆黒の風が舞った。
瞬き一つもする間もなく距離を詰めたヨルの腕がアツミの首筋にかかる、その寸前で。
「待ちたまえ、少年」
赤い拳が、それを捕らえた。
それまで、アツミの半歩後ろに無言で立ち続けていた男が、ヨルの腕を阻んでいる。
ぎりぎりと、両者の間に力がせめぎ合う。
「ぁんだ、てめえは……?」
「フソウ帝国赤の騎士団第三分隊隊長、テンヤ・アリワラだ」
「どけよ……」
「それは悪手だ、少年。今
「んなもん聞く気なんざねえだろうが!!」
ヨルの目は、とうに赤く濁っていた。
僅かに顔を顰めた男――テンヤは、それでもその腕を放さず、ヨルの動きを封じている。
「おお。やはり吸血鬼は危険ですな。感謝いたしますよ、アリワラ殿」
それを一歩下がった位置で見るアツミは、その言葉と裏腹に、眉間に皺を寄せたまま眼光鋭くヨルを睨みつけている。
「貴殿に感謝される謂れはない。私は私の務めを果たすだけのこと。そもそも、この状況、貴殿に聞いていた話とは少々食い違うようだ。既にこの街の住人は吸血鬼に汚染されているのではなかったのか?」
「ええ。すっかり汚染されているようです。これはやはり、この街に赴任している聖騎士にも問題があるようですな」
「なんだと? ヒカリ・コノエ殿のことか。かの御仁は、キサラギ隊長とも面識があったはず。誠実で使命感の強い若者であったと――」
「その若者がこの吸血鬼の手引きをしていたのだと、言っているのですよ。去年一年、彼らはよく行動を共にしていたと多方面からの報告にある。これはもう一度査問会を開いて――」
その時。
その場にいた全員を、暗黒の淵に引きずり込むような怖気が襲った。
「それだけは……」
「な……!?」
「それだけは許さねえぞ。クソ野郎」
ぶん。
ヨルの体が残像を引いて捩じるように動き、次の一瞬で、その腕を掴んだままのテンヤが壁に激突した。
「ぐっ」
腕が離れる。
ず。
ずずず。
ヨルの艶なしの髪が、徐々に延び広がっていく。
口元から漏れる吐息に、濃い血の香が混じる。
「俺ぁよ。別に捕まっても良かったんだ。てめぇらから聖水ぶんどった後だったらよ。捕まった先で逃げ出して、後はこの街に戻らなきゃいいと思ってた。……けどなぁ、
闇の魔物が、牙を剥いた。
「てめぇら全員、ぶちのめす」
……。
…………。
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