藍の色は、静かに揺れて
僅かに黄味を帯びた曙光が、メリィ・ウィドウの街に降り注いでいた。
街のそこここに降りた霜を照らし、きらきらと光を零している。
西の空にまだ幾らか残る藍色が、徐々に薄くなっていく。
いつもと変わらぬ夜明け。
しかし、今、街の中はかつてないほどの混乱にあった。
「こっちは二人やられてる!」
「こっちは一人」
「聖水は!?」
「まだ足りてる。でも……」
「駄目。オリビアさんも噛まれてた」
「ああ! もう回せる分が……」
「こっちは大丈夫だったわ。聖水のストックを――」
「ちゃんと確認して。一人でも見逃すと取り返しがつかない!」
街の寄合所兼行政所の中の大広間に、呆けた表情の女性たちが次々と運び込まれていく。
彼女らの首筋には、二つ、赤い痕がついていた。
それ以外の住民たちの顔には、疲労と焦燥の色が濃い。
ばたばたと人の行き来する大広間とは別の部屋、執務室の机では、マーヤが沈痛な面持ちで頭を抱えていた。
その横にはカグヤが、向かいにはヨルが同じような表情で立ち尽くしている。
「私が油断してた。まさか、こんな手段に出るなんて……」
「マーヤさん。今はそんな……」
夜明け前。五人の侵入者を捉えた町民たちが後始末に苦心していると、同じ組の中で姿を見せないものがあることに気づいた。
不審に思った町民の一人が自宅の様子を伺うと、首筋に傷痕を拵え、虚ろな表情で座り込むその女性の姿を発見したのだった。
それは、見慣れない光景であった。
いや、メリィ・ウィドウの街の住民、特に女性陣にとって、その傷痕は決して珍しいものではない。
しかし、普段それを作る一人の少年はここまで女性が消耗するほど血を吸うことはないし、この状態の女性を放っておくことなど猶更ありえない。
異常を認めた発見者の町民が急いでマーヤの元に報告に行くと、そこには既に、別の場所で同じ光景を見た町民たちが殺到していた。
「急いで聖水を用意しないと――」
「待ちな!」
「ええ?」
「一度全員を集めるんだ。街にある聖水の量は限られてる。全員に分配できるように量を調節する必要がある。あんたたち、軽挙を起こすんじゃないよ!」
そして、街は大混乱に陥った。
血を吸われた女性は、二十六名。
その全員が前後不覚になるほど血を抜き取られていた。
その凶行を、街に唯一存在する吸血鬼であるヨルのものと考えたものは一人もいなかった。
しかし、ならば昨夜の間に別の吸血鬼の侵入を許したことになる。
「恐らく、あいつらが連れ込んだんだろう」
憔悴しきった顔で、マーヤが言う。
「あいつら?」
「あの侵入者どもさ。私が街に張った結界は、侵入者の数を数える。昨夜、この街に外部から入ったのは確かに五人だ。そこに誤りはない」
カグヤがそれを困惑して見る。
「それじゃあ――」
「憑りつかれてた、ってことですか」
答えたのはヨルだった。
きつく握り締められた拳は色を失い、細かく震えている。
マーヤは顔を伏せたまま言葉を続ける。
「あの連中はエルザさんが洗いざらい
「つまり、あの人たちも捨て駒にされた、ってことかしら……」
「ああ。いかにも教会の連中がやりそうな手だ。だが、まさか吸血鬼を使ってくるなんて」
「マーヤさん。起こってしまったことは仕方ないわ。それより、みんなを助ける方法を考えなくちゃ」
吸血鬼に血を吸われた人間は、その吸血鬼の眷属となる。
それを回避するための方法は二つ。
吸血鬼としての魔力が定着する前に聖水を飲み、陰の魔力を打ち消すこと。
そして。
「その吸血鬼を捕らえて殺します」
ぞっとするような低い声で、ヨルが言った。
カグヤが思わず息を呑む。
「ああ。そう出来りゃ言うことはない。だが、そんなことはあちらさんだって承知してる。今頃はとっくに街の外に逃げてるだろうさ」
「俺が追います。魔力の跡を辿れば、あるいは……」
「駄目だ。今あんたの魔力を消耗させちゃ、今度はそれを回復させる手段がない」
「けど!」
「頼む。ここは堪えておくれ」
「マーヤさん……」
鉛のような空気が場を支配していた。
マーヤの机の上で握り締められた拳は、その綺麗に揃えられた爪が掌の皮に食い込み、赤い雫を机に落としている。
それを見たヨルは、それ以上何も言うことが出来なかった。
そして。
「マーヤさん。全員集まったわ!」
その沈黙を破るように、獣人の女性がドアを開けた。
弾かれたようにマーヤが立ち上がる。
「聖水は?」
「みんなで何とか搔き集めたわ。でも、足りるかどうか……」
「やるしかない。ヨル。噛まれた人たちに残留してる魔力を測っておくれ。聖水の量をぎりぎりまで抑える」
「分かり、ました……」
……。
…………。
大広間には、二十六人の女性たちが並んで寝かされていた。人族、魔族、エルフから無作為に選ばれたらしい女性たちは、みな焦点の合わぬ目でぼんやりと天井を見つめている。
ヨルは一人一人の女性を触診し、残留する魔力を調べていった。
元々保有する魔力に個人差があるため、吸われた量も、それにより体内に入った吸血鬼の魔力もてんでばらばらである。
しかし、元よりこの世界に、魔力を計測し数値化する技術などない。
ヨルは必死に神経を研ぎ澄ませ、それぞれの傷口から魔力の残滓を感じ取り、比較していく。
しかし。
「カズミさんは、……レーナさんより少し低い。フタバさんは……駄目だ、もう一回」
上手く行かない。
ヨルの手が同じ女性の間を何度となく行き来しその傷痕を検めるが、どちらが多くてどちらが少ない、程度のことしか分からない。また別の女性の魔力を見れば、先程と比べた結果があやふやになってしまう。
「くそ。……ジンゴがいてくれりゃ……」
焦燥は余計に冷静さを失わせていく。
「いない奴のことを言ったって仕方ない。ヨル。気合いれな!」
思わず弱音を零したヨルを、マーヤが叱責した。
その時。
「僕が手伝うよ」
澄んだテノールの声が、響いた。
「トーヤさん!?」
耳にかかる程の金糸の髪を翻し、街の新入り・トーヤが現れた。
「魔力を測ればいいんだろう? 見せて」
困惑するヨルの傍らにしゃがみ込んだトーヤが、同じように傷痕を検める。
「トーヤさん。でも――」
「ヨル君。君の陰の魔力を見せてくれ」
「ええ?」
「カズミさんの元の魔力は白だったよね。それと区別するんだ」
ヨルは言われるがままに右手に自身の影を持ち上げて見せる。
トーヤはそれに左手を重ねると、逆の手で傷痕から胸部までをゆっくりとなぞっていった。
「一番多いのは人族の人だね。なら、これを基準にしよう」
そこからは格段にスピードが上がった。
「レーナさんは1.7……72だね」
「じゃあこっちは?」
「んん。……少し多い。1.79かな」
「分かりました。なら、ラウラさんは…………1.8でどうでしょう」
「うん。僕もそう思う」
「よしっ」
最初はトーヤの測定を手伝うだけだったヨルも、途中からそれを手本にして測定を始め、二人で確認し合いながら正確な数字を弾きだしていく。
マーヤと手伝いの何人かの女性がその結果と町中から搔き集めた聖水を量り、全員が吸血鬼化を回避できるぎりぎりの量を計算して分配していく。
一滴の狂いも許されないその作業は全員に極度の緊張を強いた。
やがて夜明けから三時間ほどが経った頃。
最後の女性が、ぎりぎり残った最後の聖水を口にした。
ヨルが慎重に全員の魔力を探り、陰の魔力が残っていないことを確かめる。
疲労の限界はとっくに超え、それでも食い入るような目でヨルを見つめていたマーヤたちに、しっかりと視線を合わせ、頷く。
その瞬間、一気に緊張の糸が解けた女性たちが、溜息と共に床に崩れた。
「何とか、……なったか」
「私、もうダメ~」
「ああ。少し休んでて下さい、スバルさん」
「ヨル君も。お疲れ」
「いえ、俺は……トーヤさんがいてくれなきゃ、どうなってたか」
「役に立ててよかったよ。手伝わせてくれてありがとう」
「やだ、その台詞、いつものヨル君の」
「え?」
「あはは」
一気に弛緩した空気を感じ取り、その様子を外から伺っていた他の住人たちが、部屋へと雪崩れ込んできた。
かつてない危機を乗り越えた住民たちは、お互いに抱き合い、労い合う。
ヨルは部屋の壁に寄り掛かり、そのままずるずると腰を落として座り込んだ。
部屋の中は、まだ呆けた表情のまま寝かされる女性たちと、それに縋りつく人たち、互いに抱き合って目尻に涙を浮かべる人たちでごった返していた。
安堵した顔でそれを眺めるヨルの目が、人混みの中、一人だけそこから離れゆく女性の後ろ姿に留まる。
藍色の髪が、静かに揺れている。
「…………え?」
ヨルの目が、大きく見開かれ。
「クーネさん!!」
立ち上がって、駆けだした。
突然の大声に、その場の全員がぎょっとした目を向ける。
既に廊下を進んでいたその魔族の女性の肩に、ヨルの手がかかる。
ゆっくりと振り返ったクーネは、少し小皺の寄った褐色の肌で、困ったような笑みを浮かべた。
「ヨルちゃん……」
「クーネさん。なんで……。どうして……」
ヨルの顔が、くしゃくしゃと歪められた。
「どうしたのよ、ヨルちゃん」
「クーネさん!」
泣きそうな声で、ヨルがクーネの服の襟をまくった。
虫に刺されたような、赤い傷痕が、二つ。
それをゆっくりと隠して、クーネが微笑む。
「私が、最後だったみたいなの。もう吸い切れなかったらしくて。少ししか血を抜かれなかったのよ」
「そんなことどうでもいいです! もう、……もう聖水が!」
「分かってる。足りるようなら、自分から言うつもりだったわ。でも、そうじゃなかった」
それを聞きつけた女性たちがわらわらと集まってくる。
「クーネ!」「クーネちゃん!」
人族と、エルフ。二人の女性がクーネに抱き着く。
「アニーさん。スバルちゃん」
その震える肩を、クーネが優しく抱いた。
そして、呆然と立ち尽くすマーヤに視線を送る。
「クーネ、さん……?」
柔らかく、微笑んで。
「マーヤさん。私、街を出るわ」
「なに、を。言って……」
「きっと今に、血の支配が始まる。そうしたら、私は私じゃなくなっちゃうわ。メリィ・ウィドウの街に、吸血鬼は一人だけ。そうでしょ?」
「だ、大丈夫だ。今、隣町に早馬を――」
「マーヤさん。分かってるでしょ。教会の連中が、そんなことを考えてないわけがないわ。きっと、根回しされてる」
「だけど!」
「いいの。私、この街に来れて幸せだった。最初は、人族の人と一緒に暮らすなんて、って思ったけど。今じゃこうして、お友達もたくさん出来たし」
「クーネちゃん……。そんな、なんでそんなこと」
「スバルちゃん。アニーさんも、それに他のみんなも。仲良くしてくれて、ありがとう。……ヨルちゃんと、トーヤちゃんも。私は大丈夫だから。ああ、でも、誰だか分からない人の眷属になるのだけ、ちょっと怖いかな」
その笑みの端に、涙の雫が浮いた。
すすり泣く声が、幾重にも重なった。
震えるマーヤの拳から、ぽたぽたと血の雫が落ちる。
「一つだけ、まだ出来ることがあります」
そこに静かに響いたのは、いつになく低く、冷たい声をした、ヨルの言葉であった。
「え……?」
アニーとスバル、二人の女性に抱き着かれたまま、きょとんとした顔のクーネに向けて、ヨルは真っ直ぐに視線を向けた。
その瞳が、赤く濁っていく。
「血を、上書きします」
……。
…………。
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