陽はまた昇る

 瘴気のように押し寄せた陰の魔力の波動を、灼けた熱風が押し返した。


「『踊雀おどりすずめ』」


 立ち上がったテンヤが静かに唱えると共に、その瞳と両の手足が眩い赤光を放つ。

 その足元の木板が弾けるように割れ、テンヤの姿が掻き消えた。


 闇を翻しアツミに襲い掛かったヨルの胸倉を横から掴み、壁に激突させる。

 しかし。


「ぬぐっ」


 漏れた声は、テンヤの口から。

 見ればその鳩尾に、深々とヨルの膝が突き刺さっている。

 そのまま襟を取ろうと伸ばされたヨルの手を、赤く光る拳が掴み取る。

 ヨルが血色の瞳を大きく見開いた。


「どけよ。あんたに恨みはねえ」

「そうはいかん。今の君を野放しには出来ん」

「……そうかよ」


 ヨルの冷えた声と、テンヤの熱の篭った声が交わる。

 そして。


「街の代表者殿」


 熱く、それでいて静かな声と共に、テンヤの体の輝きが増した。

 ヨルの顔が顰められる。


「修繕費の請求は、赤の騎士団まで届けられよ」


 ごしゃ!!!


 壁が、抜けた。


 土面が割れ、煙が立ち込める。

 閉鎖されていた屋内に凍えるような外気が吹き込む。

 木舞が露出した壁に人一人分の大穴が開いていた。


「ヨル!!」

 マーヤと、幾人もの女性の悲鳴が重なる。


 我先にと大穴に群がった女性たちが外を覗いた時、そこには、地面にうつ伏せに押し倒されたヨルと、そこにのしかかり首筋と後ろに回された右腕を抑えたテンヤの姿があった。

「一度、大人しくしてもらおう。安心したまえ。私の立場は中立だ。悪いようにはせ――」

「……『硯樹すずりいつき』」

「な!?」


 テンヤの言葉を遮り唱えられたヨルの呟きと共に、闇色の大樹が二人の影から生い茂り、テンヤの体を宙に縛り上げた。

 悠々と立ち上がったヨルが赤く濁った瞳でテンヤを睨め上げる。

「あんたこそ大人しくしてろ。……すぐ終わるから」

「舐めてもらっては、……困るな!」


 ごう。


 テンヤの四肢が一際大きく輝き、ぶちぶちと音を立てて拘束を引き千切った。

 その体が地に落ちるより早く、ヨルのローリングソバットがテンヤの胸元を狙う。

 両腕の手甲を交差させてガード。

 勢いに押されて地を滑ったテンヤを。


「『這蕨はいわらび』!!」


 影の縄が四方から襲った。

 テンヤの眼球が目まぐるしく動き、その軌道を見切っていく。


 ぎゅん。


 テンヤの体が独楽のように回った。

 手刀。

 足刀。

 裏拳。

 膝蹴。

 一瞬で繰り出された四つの打撃がヨルの魔法を同時に弾き飛ばす。


 その懐にヨルが滑り込む。

 二人の視線が、交錯した。


 ヨルが右腕を伸ばす。

 掌形は開手。


 テンヤが拳を握って迎え撃つ。

 その赤熱した拳が、振りかぶったまま静止した。

「!?」

 その肘に、五本目の『這蕨』が絡みついている。


 ヨルの腕がテンヤの襟にかかった、その時。


「ぜぃや!!!!」


 裂帛の気合と共に。


 ごぉん!!!


 拘束する闇の縄も、襟を取り引きずり倒そうとしたヨルの力も、何もかもを振り切って振り下ろされた手刀が、大地を抉った。


 技も、魔法も、全てを力づくで突破した赤の騎士が、白煙の中に立ち上がる。

 その煙は、彼の放つ熱風によって即座に晴らされた。


 距離を四歩分開けて、ヨルがその正面に立つ。

 艶のない闇色の髪が、ぞわりと波打ち。

 足元には影が蠢く。

 瞳は濁った赤。

 吐息には血潮の香り。


 その魔性の姿に、テンヤは冷や汗を一つ零し、数か月前に交わしたキリヤ・キサラギとの会話を思い出していた。

 旧友を介して知り合ったのだというテンヤの同期、今は白の騎士団で分隊長を務める男は、ヨルのことを随分と高く評価している様子であった。

 曰く――。


(礼儀正しく、理知的で、聡明な若者……?)


 馬鹿な。

 今の彼の姿を見て、彼を無害と認定することに諾と言えるものがあるか。


 始め、聖国領で自分を出迎えたアツミ・イガリという男の話を聞いた時には俄かに信じがたかった。

 アツミの語るヨルの姿と、キリヤの語るそれがあまりにかけ離れていたからだ。聖国の貴族家に仕える男と、自分が認めた同僚の言葉、どちらに信が置けるかなど言うまでもない。

 テンヤはアツミを疑った。

 恐らく、この男はヨルを何がしかの罠にかけ、自分をそれに巻き込むつもりなのだ。

 ならば、自分は自分の信義に悖らぬ行動をしよう。


 そう固めていたテンヤの心は、徐々に揺らぎ始めていた。

 たとえ誰の言葉を疑い信じようと、今、正に自分の目に映るこの現実をどう解釈する?


 闇の魔物が腰を落とし、見たこともない構えを取った。

 緩く開かれた手は眼前で揺れ、後ろ脚に重心のかかった不自然な姿勢。

 どうやら引く気は微塵もないらしい。


 揺らぐ心を、呼吸一つで封じ鎮める。


「少年。もう一度言う。今は拳を引くのだ」

「引かせてみろよ」

「……」


 テンヤは一度構えを解き、足を肩幅よりやや広く開いた。

 正中線を晒したまま、ゆっくりと拳を握り締める。


「ならば、理性の残っているうちに聞いておこう」

「あん?」

「アヤヒ・サクラザカという女性の名に聞き覚えは?」

「知・ら・ね・え・な」

「……残念だ」


 もう手は抜けん。悪く思うな。


 そう、小さく呟いて。

 両の拳を、胸の前で撃ち合わせた。


「舞え……『芳心孔雀ほうしんくじゃく』!!」


 瞳が、手が、足が、髪が、発火した。

 轟々と燃え盛る焔を背に負って、テンヤが再び構えを取る。


 対するは、血の香の吐息を瘴気のように漏らす闇の魔物。


「『千絣雲手ちがすりうんじゅ』」


 身に纏う闇の気が、眼前に構えた掌に集中していく。

 ぞわり、ぞわりと、揺らめく不定形の衣が腕を覆っていく。

 やがて、見る者の心魂を凍り付かせるような、異形のかいなが形成された。


 ごう。


 猛る焔の噴火と。


 ずるり。


 泥沼を掻き混ぜたような音が交わり。


「そこまでだ」


 ふうわりと、薫風に乗って揺れる金糸の髪が、その激突を遮った。


「「!?!?」」


 ヨルとテンヤの目が驚愕に見開かれる。

 両者の間に、一人の長身の男が割り込んでいた。

 右の掌でヨルの胸元を抑え、左の掌でテンヤ振りかぶられた肩口を抑えている。

 ヨルとテンヤの力のベクトルを、自身の体を介して打ち消し合わせ、完璧に相殺しているのだ。


「なん、だ……お前は……?」

 思わず魔法の炎を解いたテンヤの声に。

「……トーヤさん?」

 ヨルが答えを呟く。


 ゆっくりと二人を押して距離を開けさせたトーヤは、まるで数瞬前まで繰り広げられていた闘争など何もなかったかのように、春の風のように柔らかな声で言った。

「ヨル君。この人の言う通りだ。今、君が暴れても何にもならない」

 そして、ゆっくりと振り返ると、ここに来て初めて怖れの表情を見せたテンヤに目を合わせた。

「すみません。普段はこんなことをする人じゃないんです。どうか、拳を引いてください」

「あ、ああ……」


 その尋常ならざる気配に押されたテンヤの反対側で、瞳の色を元に戻したヨルが、トーヤの腕に縋った。

「トーヤさん……! 今、出てきちゃ駄目だ!」


 見れば、自分たちが壁に大穴を開けた行政所の正規の出口から、次々と街の女性たちが飛び出してきていた。

 その様子を見れば、今ここにいるトーヤを追ってきたのだということが分かる。


 そうだ。

 そもそも、彼がここにいることを隠すために、この騒動が起こったのではなかったのか。


 出口に固まる女性たちをかき分けるようにして、小柄な男――アツミが姿を表す。

 ヨルの顔が一層蒼褪めた。

 それに、柔らかな笑みを向けて、トーヤはアツミへと歩み寄った。


「もういいでしょう。貴方の狙いは僕だったはずだ」

「駄目だ、トーヤ!」

「トーヤさん!」

 二方向からの叫び声を、まるでそよ風のように受け流して、トーヤは歩みを進めた。


「僕の身を好きにすればいい。生憎と秘密の実験なんてものは欠片も記憶にないけどね。貴方の主人に報告する旨がないなら、話に辻褄を合わせてやってもいい。だから、この街の人たちにこれ以上手を出さないでくれないか」


 そう、言い切ったトーヤに。

 アツミは眉間に皺を寄せた顔ですぐ隣に立ち尽くすマーヤを一瞥すると、憎々し気に口元を歪めた。


「何故もっと、上手く隠さなんだ、魔女め」


「……は?」

 何を言われたのだか分からずに、ぽかんと口を開けるマーヤから目を逸らすと、アツミは一度その場で瞑目し、次の時には、顔から一切の表情を失わせて、トーヤに歩み寄った。

 その様子を訝しむトーヤの目の前で、アツミは足を止め。


「お待ちしていました。若様」


 恭しく、跪いた。


「え…………??」


 その場の全員が、何が起きたのか解らずにその時を止める。


 ただ一人、静止した世界に動くアツミは、懐から桐の小箱を取り出した。

 それを開けると、中から一つの指輪が現れる。


「貴方の名は、トーヤなどというものではございません」


 感情を失くした声で、アツミが言葉を紡ぐ。

 その視線は足元に伏せられ、手に捧げ持った妖しの光を放つ指輪をトーヤに向けて差し出した。

 その光に、トーヤの目が吸い寄せられる。


 それは、トーヤがこの街に来て初めて見せる表情であった。

 それまで、記憶を取り戻させようとした皆に何を言われても、何を見せられてもきょとんとした顔で首を傾げるだけであった彼が、その小さな指輪に明らかな反応を見せている。


「……それ、は。……僕は。…………僕は」


 ふるふると震える手が、指が、それを迎え入れるようにゆっくりと伸ばされていく。


 アツミが逆の腕でその掌を包み、人差し指に指輪を嵌めていく。


「さあ。思い出されませ。『ひかりよ――』」


 その、アツミの声に合わせるように。


「『聖光ひかりよ、あれ』」


 トーヤの震える唇がその言葉を紡いだ。

 その瞬間。


 メリィ・ウィドウの街に、朝焼けのような陽光が爆発し。


 全てを、白く染めた。


 ……。

 …………。


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