乾いた風が吹く朝
「はあぁぁぁぁぁぁぁ」
魂が抜けだしそうな溜息が、長く尾を引いてこだました。
アタゴの街の、町長の屋敷の執務室。
カノ・タヌマは、その砂色の短髪を掻きむしるようにして机に突っ伏していた。
今朝、起き抜けのカノに齎された報せは、客分として屋敷に逗留していたヒカリ・コノエとサカキ・イヌイ、そして正式に街に赴任しているツグミ・ハシバミの三名が街から姿を消している、というものであった。
理由は明らか。
魔獣の討伐に向かったのだ。
そして、その首謀者もまた明らかであった。
「ヒカリ・コノエ……。噂以上ね。まさかここまで御し難いとは……」
ヒカリに与えた客室には、丁寧に畳まれたローブと簡素な防具が置き去りにされていたのだという。
まさか、そんなもので自身の行動に筋を通したつもりなのだろうか。
そして、それに着いていったと思しきツグミは一体何を考えている?
処世に長けた将来有望な新人ではなかったのか?
同時に姿を消したサカキの思惑はなんだ?
カノの重く閉ざされた瞼の内に様々な疑問符が乱れ飛ぶ。
(町民には何と言って説明する? そして、第二支部とコノエ家には?)
調査に失敗し空手で戻ってきたならば何もなかったことにしなければならない。その場合は町民にだけ事情を説明して「やはり危険はなかった」とすべき。
何がしかの成果を持ち帰ったなら? 自分が行かせたことにするか? そしてその場合、
あるいは。
万が一。
……二人が戻って来なかったら?
こん。こん。
渦巻くカノの思考を断つように、静かなノックの音が鳴った。
びくりと肩を震わせたカノは、それがいつもの使用人のものでないことに気づく。
「どうぞ…………あ」
こちらの返事を待たずに開けられたドアから現れたのは、真白い髪を頭の後ろできっちりと結わえた老女であった。
鋭く尖った灰色の瞳が、真っ直ぐにカノを見据えている。
「と、トキコさん。どうしました?」
街に唯一存在する大食堂の、既に引退した元女将の姿に、カノが戸惑いの声を上げる。
トキコはつかつかと姿勢のよい歩みでカノの前まで来ると、静かな声音でぴしゃりと言い放った。
「何か、異変があったようですね?」
「……っ! それは……」
「隠さずとも結構。明け方、例の聖騎士たちが街を出ていくのを見ました」
カノの頭が再び垂れる。
トキコは無言でそれを見下ろした。
「そのこと、誰かに話しましたか?」
「いいえ」
「では、一先ず他言無用に願います。事情はお話ししますので……」
「いいでしょう」
そして、カノは洗いざらいの事情を打ち明けた。
サカキが目撃したという魔獣―ケロスの三頭蛇のこと。
それを調査しに出ようとしたヒカリを自分が止めたこと。
そして、それを振り切って街を出たヒカリに、何故かツグミとサカキが着いていったこと。
ついでに、去年一年の、ヒカリに関する情報も含めて。
「……成程」
話を聞き終えたトキコが、考え込むように顎に手を遣り、目を伏せる。
「彼女らが帰ってきたとき、成果を得ているかどうかで対応が変わってきます。ただ、そもそも無事に帰ってこれるという保証もありませんから、一体どうしたものかと……」
「早馬でもなんでも使って、連れ戻すしかないでしょう。今ならまだ間に合うかもしれません」
「誰が行くというのですか。町民には事情は話せません。そもそも、危険な魔獣と対峙しているかもしれないのです」
トキコの灰色の眼が、細められた。
「貴女が行けばいいでしょう。
カノがその視線から逃れるように目を逸らす。
「昔の、話です……」
「ならば、あの二人を切り捨てますか? かつて私の夫を見殺しにした、貴女の上司のように」
「それは……!」
一瞬、弾かれたように顔を上げたカノは、トキコの真っ直ぐこちらを射抜く視線を受けて、再び項垂れた。
「ああ。それこそ、昔の話でしたね」
「トキコさん。私は……」
「分かっていますよ。貴女はあの時、部隊で唯一上官の命に歯向かった。そしてその咎を負って、この田舎街に追い遣られたのだと」
「……」
「聖騎士の役目とは、何なんでしょうね、町長?」
その唐突な問いに、カノが訝し気にトキコを見上げる。
「あの小さな聖騎士はこう言っていました。『人を笑顔にすることだ』、と」
「は……?」
「戦争は終わった。自分たちはもう人を傷つける必要はない。だから、今は平和に生きている人たちを笑顔にするために、自分たちはいるんだと、そんなようなことを言っていましたよ」
「…………な、にを、言って」
「さあ? 私には何とも。私は聖騎士ではありませんからね」
トキコはそう言ったきり、くるりと踵を返すと、来た時と変わらぬしゃんとした足取りで、静かに部屋を去って行った。
カノはしばし呆然とそれを見送り。
やがてぶるぶると握り拳を震わせると、根限りの力で机に叩きつけた。
その音に驚いた使用人が慌てて部屋に飛び込み、歯を食いしばり手から血を流す町長の姿に目を剥く。
「何を……馬鹿なことを……!」
呪詛のように絞り出された言葉が、暗く冷えた部屋に溶けて消え。
飄々と吹く乾風が窓ガラスを静かに震わせる音だけが、そこに響いた。
……。
…………。
「そういえば、サカキさんが憧れた人、っていうのは、どんな人だったんですか?」
「え?」
「サカキさんが、助けられた、って……」
「ああ。……ふふ。子供の頃にね。『漂泊騎士』に命を救われたんだ」
「え!? ゲンジさんですか!?」
「うん。昨日、彼の名前が出た時はどきっとしたよ」
「ヒカリ、確かこの前、お会いしたって言ってなかった?」
「彼に会ったのかい!?」
「あ、……はい。なんていうか、その。父とは前々から親交があったそうなんですけど、父は私が聖騎士になることには反対してて、昔は会わせてもらえなかったんです。というか、そんな人がいることも最近知ったくらいで……」
「へえ~。私はお話でしか聞いたことないからなぁ。どんな方なの?」
「んん。……うぅ~ん。なんというか、その…………豪快なおじいちゃんでした」
「あはは。なにそれ」
「そうなんだ! 豪放磊落にして質実剛健。時の権力に奉ろわぬ孤高の騎士。教会の指揮下にはとても置けず、さりとて一騎当千のその実力から放逐も出来なかった異端児。大陸各地を放浪し、ただ民草のために戦った彼の英雄譚は今でも語り継がれているよ」
「ホントに憧れてるんですね、サカキさん。へぇ~。あ、それで『漂泊騎士』なんだ」
「うん。一応正式な肩書なんだ。彼のために誂えられたものでね。あまりに規律違反が多いせいで何処の支部にも所属させられず、それでも彼の功績と民衆からの人気は無視できないものがあった。だから一応は教会の一員であることを民衆にアピールするための、当時の権力者たちの苦肉の策だったそうだよ」
「何か、ヒカリみたいな人だね」
「ええ!?」
「だってそうでしょ? 春には港国で発生した魔獣の討伐、夏には帝国で傭兵団の不正を暴いて村を救って、秋は獣国で病魔から街を助けて。たった一年でこんなに騒動起こした新人なんていないわよ」
「そ、そんな! 私はただ、色んな人のお手伝いをしただけで。そんな。私なんて……」
「規律違反が多いのもそっくりね」
「それは…………うぅ」
その時。
一陣の風が吹いた。
灰色に色褪せた街道の上、乾いた空気が、肌を刺すような冷気を運んで流れる。
「「「!?」」」
三人は同時に気づく。
ぴち。
朝露の垂れるような、幽かな音。
決して、聞こえるはずのない音。
聞こえてはいけない音。
ぴちゃん。
ぴちゃん。
ぴちゃん。
……。
…………。
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