決意
タンシャンの街の行政所に殺伐とした空気が満ちていた頃。
街の片隅にある小さな鍛冶場で、一人の獣人の男が刀を砥いでいた。
しゃ。
しゃ。
短い音が規則正しく聞こえてくる。
先の黒い黄色の耳をぴんと立たせ、ハイジュンが己の得物を砥いでいる。
一体いつからそうしているのか、寒風に吹かれるその肌は青白く、手先は蝋のように白い。
しゃ。
しゃ。
ただ、その茶色の眼だけが、鈍く、鋭く、光を孕んでいる。
黙々と、己の中の何かを練り込めるように、刃を滑らせていく。
「風邪、引いちゃいますよ」
その背に、小さな声がかけられた。
手を止めたハイジュンが、ゆっくり振り向く。
「てめえは……」
その視線の先で、ふわふわとした栗色の髪が、風に靡いた。
「あの、これ、女将さんから」
熱い湯気の立つ徳利と杯、干した羊の肉が乗った盆を、ヒカリがおずおずと差し出した。
ガオの叔母が、気を回してくれたらしい。
ハイジュンはククリ刀の柄を離すと、力が入りっぱなしで固く凝った指を揉み、気まずそうに眉尻を下げた。
「あの、お邪魔、しちゃいましたか?」
ちびちびと杯を口に運ぶハイジュンの横にちょこんと座り、ヒカリが見上げるように言う。
「うんにゃ。丁度いいや。自分じゃ止め時が分からねえんだ」
「なら、よかったです」
「嬢ちゃん、いいのか? あの、……ヨルについててやらなくて」
「大丈夫です。ツグミが看ててくれてますから」
「……そうかい」
ヒカリが自分用に持ってきた揚げ団子を齧り、俯く。
その手が小さく震えているのが、寒さのせいなのか、別の理由なのか、ハイジュンには分からなかった。
しばし無言で、二人は空を見上げた。
赤い月が、時折雲間に隠れては、またどろりとした光を零していく。
おもむろに、ハイジュンが口を開いた。
「俺ぁよう、昔っから一個のことに夢中になると、周りが見えなくなっちまうんだ」
ヒカリがきょとんとした目で見上げる。
「レンリも一緒でよぅ。俺らぁ、よく突っ走って、周りの大人に怒られてた。そんな時、一緒に怒られてたのがガオさ。
あいつぁ、昔っから要領が悪くってよう。最初は俺らを止めに来たのに、いつの間にか一緒になって怒られてるんだ。どっか上手いとこで逃げ出すなりすりゃあいいのによう」
「……仲良しさん、だったんですね」
「里を出て暫くはバラバラだった。けど、ガオがヘイシンの兄貴に師事するって、風の噂に聞いたもんだから、二人して押しかけたのさ。最初はどんな野郎が俺らの幼馴染にでけえ面しようってんだ、って、鼻息荒くしてよう。そしたら二人纏めて兄貴にぶっとばされて、説教されて、男っぷりに惚れちまった。それからはまた三人一緒さ。
けどよう、ガオの野郎は、どうも手柄っつうもんに執着がねえ。実力は確かなのに何でか一歩引いた位置で、俺らを助けてくれるのさ。張り合いがねえんじゃこっちだって面白くねえや。よく喧嘩したよ。最後はいっつも、三人纏めて兄貴の拳骨でしまいさ。それでもあいつは、言い訳の一つもしねえんだ」
ヒカリは小さく微笑んで言った。
「ヨル君、言ってました。『ガオは凄いヤツだった。俺は、負けると思った。勝てたのは偶然だし、次やっても、多分勝てないだろうな』って」
ハイジュンの杯に注がれた酒に、滴が落ちた。
「ガオ。……ガオよう。俺はあいつに、とんでもねえことを。……あいつが、レンリが、このままおっ死んじまいやがったら。……俺ぁ。俺ぁ」
「大丈夫です!!」
「……あぁ?」
立ち上がったヒカリが、ハイジュンの前に立った。
「大丈夫ですよ、ハイジュンさん。今頃きっと、ジンゴさんが解決策を探してくれてます!」
「ジンゴ……あの、黒づくめの」
「はい! ジンゴさんは、すごい人なんです。枯れた桜の木だって甦らせちゃうんですから!」
「枯れた桜だぁ?」
「病人の二人や三人、ちょちょいのちょいですよ! だから、私たちは私たちにできることをしましょう。きっと上手くいきます。そしたら、今度はちゃんと、ガオさんと仲直りすればいいんですよ! だから、大丈夫です!」
名前の通りに光るような笑顔の、その大きな目の端に、涙の粒が浮いている。
「仲直り……すればいいんです。そうですよ。きっと。きっと上手くいきますから……」
震える声で、目を大きく見開いて。
今、瞬きをしたら、きっと涙が零れてしまうから。
ぱぁん!
鋭い音を立てて、ハイジュンは己の両頬を張った。
「!?」
ヒカリの肩が跳ねる。
がし、っと栗色の髪を大きな掌が掴み、ぐりぐりと捏ね回す。
「あ。あう。あああああの、あの。ハイジュンさああ」
情けない声を上げるヒカリの顔を、正面から見据えて。
「てめえは大した女だ。ヒカリ」
「ふえ?」
にやりと笑って、ハイジュンは言った。
「俺はお前を信じるぜ。何があったって、諦めちゃいけねえ。
弱音を吐くのは辞めだ。獣人の男は、カカァが唐辛子の量を間違えた時以外、泣いちゃいけねえんだ」
一瞬きょとんとした顔をしたヒカリは、今度こそ、曇りのない瞳でにっこり微笑んだ。
「はい!」
もう一度、二人は夜空に浮かぶ赤い月を見上げた。
その光は、先ほどよりもほんの少しだけ、優しく見えた。
……。
…………。
「もう、休んではどうですか、ツグミさん」
「お姉様……」
「看病する人間が倒れてしまっては元も子もありません」
「お姉様は……その」
「……」
「知って、たんですか、ヨルさんのこと」
「……」
「ヨルさんが、……吸血鬼だって」
「…………はい」
「どうして……」
「すみません。あなたにはいずれお話するつもりでした。ですが、予想以上に、あなたが彼に懐いてしまったので……」
「……すみません」
「謝るのは、私の方です。あなたに辛い思いをさせたくはなかった」
「ヨルさんは、……その、討伐対象になるのでしょうか」
「それを見極めるのが、今回私が同道した理由の一つでした。……いえ。理由というよりは、建前ですね」
「あの! お姉様。ヨルさんは―」
「分かっています。彼は、徒に人を傷つける存在ではない。寧ろ……」
「ヨルさんは、優しい人です。旅の最中も、今日も、私に、気を使ってくれて。ヨルさんが、人を襲う吸血鬼だなんて……」
「彼は、人を襲ったことはないそうです」
「え!?」
「勿論、血は吸っています。街の女性たちはみな、彼に血を与えている。けれど、それは便利屋の仕事の報酬として。そして彼はその度に聖水を用意して、血を吸われた人が眷属になるのを防いでいるようなのです」
「そ、そんな吸血鬼、あり得るんですか?」
「普通はないでしょう。ジンゴさんは彼のことを、『理外の存在』と言っていました」
「理外……」
「ツグミさん。あなたには今、お話しておきましょう。私は、ある密命を帯びてメリィ・ウィドウに来ました」
「……密命?」
「ですが、私が今ここにいることは、その命からすれば決して合理的なことではない。ましてや、これから私が為そうとしていることは、下手をすれば家の意向に背きかねないことです」
「お姉様、一体、何を……?」
「私は、彼の命を救おうと思います」
「…………」
「あの時彼が前に出ていなければ、今こうして床に臥せていたのはあなたでした。そして聖騎士であるあなたには、魔力由来の薬が効かない虞がある」
「わた、しは……」
「私は、その恩に報います。しかし一方で、私は使命を手放すわけにはいかない。あなたには、もう一度辛い思いをさせてしまうことでしょう」
「……教えてください」
「ツグミさん?」
「教えてください、お姉様。全部。私が一体、何をすればいいのか」
「いいでしょう…………いえ」
「お姉様?」
「こんな時、アヤさんはこう言うのでしたね」
「??」
「上等です」
……。
…………。
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